イデンティテート

2011年9月13日(水) 
 同志社香里高等学校ロング礼拝奨励

説教時間:約20分(音声版およびスライドショーはありません)

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聖書:フィリピの信徒への手紙3章20節 (新共同訳・新約p.365)

 しかし、わたしたちの本国は天にあります。
 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

「イデンティテート」とは何でしょう?

 さて、今日は「イデンティテート」についてお話ししてみようと思います。「イデンティテート」とは何でしょうか? 変な響きの言葉ですねえ。これ実はドイツ語です。こういう風に書きます「Identität」。これを英語に直すと、こうなります。「identity」ですね。
 「アイデンティティ」という言葉はみんなも聞いた事があるんじゃないかと思います。なぜここでわざわざドイツ語で話を始めたかというと、単にぼくがドイツ語の響きが好きなんで、ちょっと言ってみたかっただけで、そんなに大きな意味はありません。話したいことはidentityについてです。
 日本語ではこれを一応「自己同一性」と訳すことになっているみたいですが、これではピンと来ない人も多いでしょう。ぼく流に言うと要するに、「私は何者か」という事です。
 「私は何者か」。私という人間は、いろんな側面を持っていますね? 例えば、「私は同志社香里の生徒だ」というのは立派なアイデンティティです。あるいは「私は関西人だ」とか、あるいは「日本人だ、韓国人だ」とか、それもひっくるめて「私はオリエンタルだ」つまり「東洋人だ」「アジア人だ」というidentityも海外に行けば、相手がそういう見方をしてくる事があります。そして最終的には、一番大きな括りで言えば、「私は人間だ」「地球人だ」というidentityもあるでしょう。

集団に依拠するアイデンティティ

 こうやって見てみると、どうもidentityというのは、「◯◯ではない」という排他性と表裏一体だなということがわかってきませんか?
 たとえば「同志社香里の生徒である」ということは、「他の学校の子ではない」ということでしょう? 「私は関西人だ」ということは、「他の地域の人ではない」ということですね? 同様に、「日本人だ」ということは、「他の国の人ではない」。「アジア人だ」ということは、「他の地域の人間ではない」あるいは「他の人種ではない」。「人間だ」ということは「他の生物ではない。猿でも、豚でもない、ナメクジでもなく、植物でもない、人間だ」ということですよね。
 こんな風に「私は何者だ」というのは、「私は他の何者でもない」という事と表裏一体です。「何々ではない」という言葉で他の可能性を全部排除して、「何々と同じである」ということを言うわけです。「何々と同じである」、つまり「何々と同一である」、というわけで、なるほど、自己同一性という事になるわけですね、identityというのは。
 それから、もうひとつこのidentityという言葉には、自分の「所属」を自分のidentityにしている場合が多いという面があるということも指摘しておきたいと思います。
 たとえば、さっき色々なidentityを出してみましたけど、どれも、そのグループの一員であることを、単に縮めて「私は何々です」と言ってるに過ぎない、ということがわかるでしょう?
 たとえば、自分が誰かに「あなたは誰ですか?」と訊かれたとき、みなさんは自分の名前だけで答えますか?
 「すいませんが、どちら様ですか?」と訊かれて、「富田正樹です」と名前だけで答える人というのは、相当の有名人か、そうでなければただの自意識過剰人間ですね。初めての人に「どちら様ですか?」と訊かれると、大概の人は、「どこそこの何々です」と答えることが多いと思います。人に電話をかけた時も同じです。初めての相手に電話をかける時には、自分の出身地や所属を言うのが一般的です。
 「大阪から来た鈴木です〜」とか、「富士通株式会社の富田です〜」とか、「同志社香里高校の平井です〜」とか、あるいは外国に行って、自分の事を名乗る時に、ひょっとしたら「I am Masaki from Japan」とか「I am Japanese」とか言っているかも知れません。おなじJapanでも関東と関西ひとつとってもぜんぜん違う人種なんだけどな、とか思いつつですね。

名前でさえも相対的

 あるいは、単なる名前だけを名乗ったとしても、これも一種の集団の一員であることを示す表現に過ぎないんですよね。
 たとえば、ここに上野樹里さんという方がおられたとします。
 この上野樹里というお名前は、上野という名字と、樹里という名前に分けられます。これは結局「上野家」というグループの一員であるということに他なりません。
 では「樹里」という名前こそが本当の私なんだと言えるかというと、それもどうかな? 名前は大抵、自分が物心つく前に、家の大人たちによって決められていたものですよね。
 それに、名前というものはいくらでも変えたり、作ったりできます。
 たとえば皆さんは、ニックネームで呼び合っている間に、本名を忘れちゃったということは無いですか? ぼくはよくあります。友だちのあだ名は憶えてるけど、本名を思い出せない。仲がいい奴ほどそうなったりするから面白いですよね。
 あるいはネットでハンドルネームを使っている人は多いと思うんですが、mixi、Twitter、掲示板など、登場する場所によって複数の名前を使い分けている人いますよね? こうすれば、自分の正体が誰かわからないようにすることもできます。本来名前というのは、誰かわかるために名乗るためのものなのに、今は自分の正体を隠す為の名前というのも存在する時代なんですね。
 また、別の場合、たとえば在日外国人の場合、日本人から攻撃されたり差別、イジメを受けたりする事を避けるために、日本人ぽい名前:通名を名乗る人もいます。これも、自分の本来のidentityを否定しないと生きてゆけない人の例ですね。本来自分が属している集団を裏切って、別の集団の一員であるかのように装っていかないと、安全に生きる事ができない。日本というのはそういう社会なのかと思うと、ちょっと情けない気がします。

「あなた」がいて、「わたし」がいる

 というわけで、私たちは名前であるとか、出身地であるとか、組織であるとか、民族であるとか、国籍であるとか、そういうものによって境界線を引く事で、「この境界線の外の人たちとは、自分は違うんです」というやり方で、自分のことを名乗る場合がほとんどです。
 でもね、それは本当に「わたし」という人間を表現したことになるんだろうか? どう思います? 国籍や組織の所属を言ったら、自分のことを全て表したことになる?
 たとえば自分の思いつく限りの自己紹介をこうして並べてみたとします。この中で……たとえば、「私は日本人です」と言っただけでは、他の色んな要素が抜けてしまうでしょう? あるいは、学校名を言っただけでも、自分の全てを言い表した事にはならないでしょう? あるいは、自分の名字を言ったからといって、それが自分らしさを完全に表しているかというと、そうでもないでしょう?
 たとえば、あなたが恋をしたとします。恋をすると、心の中が大好きな人のことでいっぱいになったりします。そうするとね、なんだか自分の好きな人が単純に「これこれこういう人」という風に一言では言えないような気分になる時が来ます。
 相手の人は色んなidentityを持ってるわけです。出身はどこだ、国籍はどこだ、といったような……。
 そして、その中でも、たとえば名前ひとつを取ったとしても、たとえばこの人が在日朝鮮人の李英男さんであったとして、しかし、英男という名前だけでその人の事がわかった気持ちになれるかというと、そんな事は無いわけで。かえって、相手のことが分かれば分かるほど、名前ひとつでひとりの人間をくくることなんかできないという実感が高まってくるわけで。
 もう何と言うか、そうなると、もう「あなた」としかいいようがない。他のどんな言葉を使っても100%表し切ることのできない「あなた」。
 あなたがここにいて、そして「わたし」がここにいる。ただ単に「わたし」という存在がいて、ただ単に「あなた」という存在もここにいる。何にもしばられない、純粋なただの存在としての「わたし」がいて、あなたの体の中にも「あなた」という名の「わたし」がいる。

世界中にたくさんの「わたし」がいる

 そうやって辺りを見回せば、実はそこにも一人の「わたし」がいる。あそこにも、もう一人の「わたし」がいる。あちこちに、「ここにわたしがいる」と思っている人格が存在している。
 みんな、自分のことを「わたしがここにいる」と思いながら生きている、そんな存在が地球上に70億近くも現にいるわけです。
 地球上に70億以上もの「ここにわたしがいる」と自覚しながら生きている命があるって、すごい事だと思いませんか……?
 でもねえ、私たち人間はそのたくさんの「わたし」たちの間に線を引きたがるんですよね、たとえば、「あいつらは日本人と違う!」とか。「あいつらは、人種が違う!」とか。あるいは、「あいつらは我々と宗教が違う!」とか。「あいつはちょっと変わってる! 何か変だ!」とか……。
 そんな風に、人間というのは、何と違うとか、あいつとは別だ、ということで自分というものを確かめたがるとする病気を持っています。
 これは病気です。人間の脳が自意識というものを持ってしまった結果、陥ってしまった病的な状態なんですね。
 でも、とりあえずどうしようもない。初歩的な段階では、自分という者のidentityを確認するためには、こうやって「自分は」あるいは「自分たちは」あれとは違う、と言って自己確認を行うのは仕方がありません。でも、いつまでもそれでは困ります。
 いつまでも、人と自分の境界線を引いて、その内側にこもって自己確認する事ばかりしていると、外側の人にも、自分と同じような「わたし」という人格や気持ちがあるということに気づかない人間になってゆきます。そして、そういう人は自分の境界線の外にいる人が、どんなに痛い目に遭っても、あるいは命を奪われてしまったとしても、何も感じない人間になってしまいます。
 でも、それでは人間としてどうなんだろうとか、せっかくこの地球に生まれてきたのに、そんな感性しかもてないまま短い一生を終わってしまうなんて、もったいないなあと思うんです。

「わたし」と「あなた」が出会う

 「あの人たちとは違う」あるいは「わたしは何々に属している」ということで自分を確かめたり、誇りを持ったりすることは、ある時には大切であるかも知れないけど、それと同じくらい大事なのは、この境界線を取り外してみて、生身の人間、素の存在そのものとしての「わたし」と、「あなた」つまり「わたし」の前に、「わたし」と同じように存在している、「わたし」ではない「わたし」とで、出会ってみるということなんです。
 生身の心と心が出会うことの面白さを知ったら、もう国籍とか民族とか人種とか宗教とか、そんな境界線はただ不自由で邪魔なものでしかなくて、そんなものは取っ払って、もっとみんな出会おうぜ! ということになりますよ。
 いつか、早くそんな世界になったらいいのになあと、ぼくはいつも思っています。
 民族の違いとか、どこの国籍であるとか、そんなこと以前に我々は同じ人間で、その命はみんな天の神さまが与えてくれたものやないか。
 
「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と書いてあるように、われわれ人間の魂はもともとはみんな同じ天からやってきて、みんなそこからこの地上に派遣されてきている仲間同士なんやから、仲良くやろうや。そんな風にいつも思っています。
 皆さんも皆さんで、一人一人それぞれの将来において、人と人が境界線を越えてつながり合うような、いい仕事をしてくれたらうれしいなと思います。
 祈りましょう。

祈り

 私たち一人一人の魂をこの世に送り出してくださった神さま。
 私たちが互いに殊更に境界線を引いて分断し合うのではなく、境界線を越えて分かり合う喜びをどうか味わわせてください。
 この世が今よりも少しでも平和にありますように、そのためにできる事をどうか私たちに示してください。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。

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