敵の隣り人となる

2011年9月18日(日) 
 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説教

説教時間:約23分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ルカによる福音書10章25〜37節 (口語訳・新約p.105-106)

 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
 イエスが答えて言われた、
 「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ったきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
 この三人のうち、誰が強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。
 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。
 そこでイエスは言われた、「あなたも行って、おなじようにしなさい」。

隣り人を愛せ

 先週の日曜日は、9月11日。大震災と大津波が東北地方を襲ってから半年が経ちました。と同時に、アメリカで同時多発テロが起こり、テロとの戦争が表面化してから10年経った日でもありました。
 震災と共に、「ひとつになろう」「がんばろう日本」と言った風に、ナショナリズム的な雰囲気が一気に盛り上がると同時に、裏返しとして日本在住の外国人に対する風当たりがひどくなっています。
 また、テロとの戦いがすなわちイスラームとの戦いであるかのように喧伝され、まるでアメリカとイスラームの対立であるかのように報道も演出されています。
 そういうわけで、人間と人間の間に建てられてしまう隔ての壁というものを、否が応でも意識させられてしまう昨今であります。
 今日の聖書の箇所は、私たちにとって非常に馴染み深い、そして教会の外の人でも多くの人が知っているであろうたとえ話ですが、このお話を通して、私たちが敵意や隔ての壁を、どうやって越えてゆけるかということに思いを馳せてみたいと思います。
 今日のテクストは非常に馴染み深い、多くの人が知っているであろうたとえ話の記事です。
 律法の専門家がイエスに「どうしたら永遠の命を手に入れられるか」と質問します。するとイエスは
「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(ルカ10:26)と答えます。「あなた、律法の専門家だったらわかるでしょう?」というわけですね。
 すると、律法の専門家は、
「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」とまず答えます。これはユダヤの聖書の申命記6章5節にある律法ですね。
 それからもう一つ大事な教えとして、
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」。これもユダヤの聖書のレビ記19章18節にある律法です(ルカ10:27)
 この2つの律法で、律法全体を要約したように言う言い方は、福音書の中で何度も出てきます。こんな風に、イエスの論争相手が言う場合もあれば、イエス自身がそう語る部分も出てきます。
 そういうわけで、この2つの律法によって律法を要約する、あるいは代表させるというのは、イエス独特の論法というわけではなく、当時のユダヤ人の間でかなり広く行き渡った諺のような言い回しであったのだろうと推測されています。

私の隣り人とは誰か

 さて、律法の専門家はイエスの質問に対して、代表的な2つの律法で律法全体を要約するという答え方をしました。
 律法の専門家からすれば、イエスに「律法には何と書いてある」と自分の専門分野の事を訊かれたわけですから、余裕を持って答えたことでしょう。
 ところがイエスは、
「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」(10:28)とだけ答えました。
 肩すかしですね。律法の専門家からすれば、ズブの素人でもわかるような事を言って様子を見たかったのであって、相手が「それでいい。それで十分」と言われると肩すかしもいい所です。この程度の律法は  ユダヤ人なら子どもの頃から暗唱して、頭に入っていて当たり前の事なので、それを守れば永遠の命が得られるなんて、質問した方からすれば、ごまかされたとしか思えないでしょう。
 そこで彼はこのような質問で切り返しました。
「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」(10:29)
 当時「隣り人」という言葉がどの程度の範囲の人間関係を意味していたのかというのは、いろいろ説がありますが、基本的にこの「隣り人を愛しなさい」という言葉が収められているヘブライ語聖書の律法というのは、ユダヤ人社会を他の異邦人/異教徒といかに区別して、自分たちが特殊であるかという事を強調し、内部の結束を固める意図がありますから、最も大雑把に考えても、この場合の「隣り人を愛しなさい」というのは、少なくとも「同じユダヤ人同士仲良くしなさい」というくらいの意味は含んでいるでしょうし、またそれをひっくり返すと、「隣り人」の中にユダヤ人以外の民族が含まれるということは絶対にあり得ないということになります。

挑戦的なたとえ話

 ちなみに、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」と日本語に訳されているこのレビ記の言葉ですが(19:18)、元のヘブライ語を直訳すると、「愛せ、隣人を、あなたと同じ」になります。つまり、「あなたがあなた自身を愛するように、隣人を愛せ」ではなくて、「隣人を愛せ。その隣人はお前と同じ人間なのだ」という訳し方の方が適切ではないかという説があります。
 そうなると、この「隣人を愛せ。その隣人はお前と同じ人間だ」という読みが、このサマリア人のたとえ話を理解するのに重要なキーワードになってきます。
 繰り返しになりますが、この場合「隣人」というのはユダヤ人以外ではありません。従って「同じ人間だろう」と言われているのはユダヤ人限定であり、逆の言い方をしますと、「ユダヤ人以外は人間ではない」と言っているのと同じです。
 そこに来て、敢えてイエスは、人間以下の汚れた動物と言われ、蛇蝎のように嫌われている「サマリア人がユダヤ人を愛してくれた話」を語って聴かせる。ここにイエスの皮肉な態度、あるいは非常に挑戦的な姿勢を見て取ることができます。

正しさの誤り

 「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った」(10:30)とイエスは話し始めました。
 
「ある人が」と言えば、なに人という説明が無いかぎりユダヤ人という前提で聞き手は受け取るでしょう。世の中にはユダヤ人とユダヤ人以外の動物がいるだけですから。
また、何故エルサレムからエリコに向かっていたかというと、それがユダヤ人の通う普段の通商ルートですが、それはわざわざ南部ユダヤ地方と北部ガリラヤ地方の間に挟まれたサマリア人の地方を迂回する遠回りのルートです。ですから、この人は間違いなくユダヤ人だったと言えるでしょう。
 で、このユダヤ人が半殺しにされて、道ばたに倒れています。そこに祭司が通りかかりましたが、彼を避けて通って歩き去りました。続いてレビ人も、同じように避けて通ってゆきました。
 しかし、3番目にやってきたサマリア人は、その人を助けたよというのですね。
 これは、祭司もレビ人も酷い奴だ、サマリア人は優しいなあという単純な勧善懲悪物語ではありませんね。実はこの祭司とレビ人が取った態度は彼らの倫理からすれば当然のことをしたまでです。
 レビ記、民数記といったユダヤの律法の書には、死体は汚れているので触れてはならない、という教えが何度も強調されています。レビ記からその関連記事を抜粋しますと、
「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」(レビ記19:11)、「死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる」(19:13)、「野外で剣で殺された者の死体、人骨や墓に触れた者はすべて、七日の間汚れる」(19:16)、「汚れた者で、身を清めない者は、会衆の中から断たれる。主の聖所を汚したからである」(19:20)、「汚れた者が触れるものはすべて汚れる。またそれに触れる者も夕方まで汚れる」(19:22)……といった具合です。
 死体に触れただけで7日間汚れるし、その間決められた日に沐浴して水で身を清めないと、社会から追放されますし、ましてそれが聖所や至聖所といった宗教的に重要な区域に入る祭司やその補助をするレビ人であったとしたら尚更のこと、神経質にならざるを得ません。
 遠目に見て、生きているか死んでいるかわからない。血まみれになって倒れているから、ひょっとしたら死んでいるかも知れない。死体だったら下手に近づくと汚れがうつって、神さまがおられる大事な神殿を聖職者である自分が汚してしまうかも知れません。
 ですから祭司も、下級聖職者であるレビ人も、自分の職務に忠実であろうとすれば、この強盗の被害者を助けるわけにはいかなかったのですね。

断腸の思い

 これに対してサマリア人は、この傷ついた旅人を発見するや否や、「彼を見て気の毒に思い」、近寄ってきて手当をしたといいます。
 この
「気の毒に思い」というのは、新共同訳聖書では「憐れに思い」と訳し直されていますが、「気の毒に思い」でも「憐れに思い」でも、少しニュアンスが弱過ぎる日本語で、ここに書かれていることの翻訳としては適切ではないように思われます。
 というのは、ここで言われているサマリア人の感情は、直訳すると「はらわたがちぎれるような思いで」となります。日本語にも「断腸の思い」という言葉がありますから、このサマリア人は、瀕死の重傷を負った旅人を見て、まさに文字通り断腸の思いにかられて駆け寄り、ワインでアルコール消毒し、オリーブオイルを傷口に塗り、ロバに乗せて宿屋まで連れて行って介抱し、宿屋に費用まで渡して託して行った、というお話です。

隣り人に「なる」

 そして最後にイエスは最初の質問者に「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」(10:36)と問い返します。
 ここでイエスは、実に巧妙に質問のポイントのすり替えをやってのけています。
 律法の専門家はイエスに、
「わたしの隣り人とはだれのことですか」(10:29)と問いました。しかしイエスはこれに対して「誰がこの人の隣り人になったか?」と問い返しました。
 質問者は「『愛せ』というなら一体誰を愛せばよいのだ」と不遜な質問をぶつけてきているわけですが、イエスは「誰を愛するかなんて問題じゃない。隣人というのはあなた自身が『なる』ものなんだよ」と指摘しているのですね。
 「相手が誰であるかということは問題じゃない。ただそこに困っている人がいれば相手が誰であろうと助けるのが人間ってものだろう」と。
 当たり前といえば当たり前ですが、それがなかなか実際に人間は、国籍、民族、出身地、党派、思想信条、利害の対立あるいは感情的な人間関係のこじれに至るまで、さまざまな理由で壁を作り、素直に人を愛することができないのが実情です。
 しかも、「そのように違いがあるのだから、助けなくても当然だ、むしろ見捨てるべきだ」という論調まで大々的にメディアを通じて喧伝されたりするような世の中が今の日本でも続いています。
 しかしイエスは、ユダヤ人から隣人愛について質問をされた時、そのユダヤ人が最も大切にしている律法の言葉である、
「隣人を愛せ。その隣人はお前と同じ人間なのだ」(レビ記19:18参照)という言葉の素直な意味に立ち戻って、人間が人間らしくあるために、どうすればいいのかを教えてくれたのであります。

同じ人間なのだから

 元来のレビ記19章18節の「隣人を愛せ」という掟は、「隣人」をユダヤ人という範囲にとどめたものであり、それ以外の者は人間以下の動物なので、当然愛する対象と考えて記された言葉ではありません。同じユダヤ人であるならば、愛し合おうではないか。私たちは異邦人のような鬼畜ではないのだから、というニュアンスです。
 しかし、イエスに質問を投げた人の「隣人とは誰のことですか?」という言葉は、このレビ記の精神でさえもないがしろにするものだと言えるでしょう。「自分が誰かを愛さなければならないのなら、それが誰かを教えてください」という、「愛の出し惜しみ」の態度がありありと伺えます。
 しかしそうではない。「相手が誰であろうと、あなたの方から隣人になりなさい」とイエスは言います。そして、その時に一番大切なのは、自分が何者であるか、相手が何者であるかという事に関係なく、同じ生きた人間として痛みを感じ、何とかしなければ! という感覚です。その感覚に素直に従って、自分にできることをすれば、それでいい、それで十分だということなのですね。

敵の隣り人となる

 相手が誰であろうと、ということは、すなわち敵であろうとも、という事になります。事実、サマリア人とユダヤ人は敵でありました。しかし、「隣り人」という言葉で自民族と異邦人を切り離すのではなく、このたとえ話の中のサマリア人のように、敵を愛してごらんとイエスは言っています。
 つまり、イエスにおいては、隣人愛を説くレビ記の律法は、敵の隣り人になってこそ本物の隣人愛だ、というのですね。
 マタイによる福音書の山上の説教の中に、「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:43-44)という言葉がありますが、この言葉と根底に通じる精神は同じです。
 しかしこれは、言葉で言うのはたやすくても、実行は難しい事です。
「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)とイエスは言いますが、自分の命を狙う敵、あるいは食うか食われるかのライバルを相手にして、それができるかどうか。
 しかし、この関係づくりこそが人類を平和にする方法であり、全ての人が共に生き残る唯一の可能性であることも間違いないということも、直感的に感じられないでしょうか。
 あと何世代かかっても、この課題を達成するために知恵をしぼって実践しなければ、私たちの子々孫々にまで涙や血を流させる事になります。せめてイエスの教えを伝えようとする教会では、敵の隣人となる行為を少しずつでも、小さな所から、身近な所から、せめて命の危険が無い領域からでも、探ってゆきたい。人間として普通に痛みと喜びを分かち合う素直な感覚を大事に生きてゆきたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 説き明かしはここまでと致します。あとは皆様の思うところをご自由にお話しください。

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