悔い改めるイエス

2011年10月2日(日) 
 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説教

説教時間:約20分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マルコによる福音書7章24~30節 (口語訳・新約p.62-63)

 さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。
 そして、汚れた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。
 この女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。
 イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのは、よろしくない」。
 すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。
 そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。
 そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

3つの特異点

 おはようございます。
 今日はスロ・フェニキヤ出身の女性の娘が、イエスに悪霊にとりつかれた娘を癒してくださいと願い出たお話です。結果的にはイエスは癒しのわざを行なうに至るのですが、このエピソードにはいくつか特異な点があります。
 というのも、イエスはこのツロという街では、人に居場所を知られないように隠れています。こういうことは珍しいです。
 それから、イエスは娘を癒してくださいと願い出たスロ・フェニキヤの女性に対して、最初は診療拒否をしています。
 最後に、イエスはこの女性の必死の食い下がりによって、態度を変えて癒しのわざを行なっています。
 このように、少なくとも3つの特異な点がありますので、それについて1つずつ見て行こうと思います。

なぜイエスは隠れていたか

 まず、イエスがツロの街で、なぜ人びとに見つからないように隠れていたのか。
 ツロというのは、ガリラヤ地方、その北側にあるシリア地方より更に北寄りの、地中海沿岸に面した街です。ガリラヤ地方でさえ、南のユダヤ地方:エルサレムの神殿があるユダヤ人の中心地がある所の住民から見ると、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれます。
 これは、ガリラヤ地方のユダヤ人たちが、商売のためとはいえ、周辺の異邦人/異教徒たちと交易をし、品物やお金を交換する際に、異邦人の近くに寄ったり、体に触れたり、あるいは一緒に食事をすることもあったので、同じユダヤ人でも異邦人の汚れが移っていると思われ、非常に嫌われたのですね。
 ですから、ヨハネの福音書には、
「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」(ヨハネ7:52)とか、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ1:46)という言葉というガリラヤ差別の言葉が記録されていますが、当時のユダヤ人、特にエルサレム神殿を本拠地とするユダや地方の人びとからは、ガリラヤ人はサマリア人同様に嫌われていました。
 ご存知の通り、イエスもガリラヤのナザレ出身ですが、一度サマリア人呼ばわりされて悪霊が取り憑いていると揶揄されたこともあります(ヨハネ8:48)。ユダヤに住むユダヤ人にとっては、ガリラヤ人もサマリア人も一緒くたに煮込んでも腹を壊さない程度の似たような者でした。
 しかし、そのようなガリラヤでも、ユダヤ人の独立を奪って占領しているローマ帝国に対してのテロ活動の根拠地になっていたといいますから、ユダヤ人の民族意識もそれなりに高かった場所でもあります。
ところが、今回の物語の舞台であるツロというのは、それよりももっと北に外れた、しかも、ガリラヤからは一山越えて離れた海岸地方ですから、もうここは完全に異邦人の土地、異教徒の土地です。
 なぜそこにイエスが現れたことになっているのかは分かりません。
 しかし、少なくともイエスが人びとの病気や障がいを治すということはできませんでした。というのも、そこは「アスクレピウス」というギリシアの病気治しの神さまの神殿のある街であり、アスクレピウス神殿の神官たちが、病気を治す行為を行なっていたので、イエスがそこで医療行為を行なうと、縄張りを荒らした事になって、暴動になることは目に見えていたからです。
 ですから、イエスがこのツロに来た目的はわかりませんが、少なくとも彼がここで自由に活動する事は不可能だっただろうということは言えると思います。だから彼は人に遭わないようにしていたのですね。

イエスによる差別

 しかし、どこからイエスの評判と居場所を聞きつけてきたのか、ここにスロ・フェニキヤ出身の女性、すなわち異邦人の女性がやってきます。そして自分の娘を癒して欲しいと願い出ます。
 これに対してイエスは、
「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」(マルコ7:27)と言って、この女性の娘の治療を拒否します。診療拒否です。診療拒否は現在の医師法では犯罪として扱われる可能性のある行為ですが、もちろんこの時代にはそんな法律は無かったし、患者を診るか診ないかは癒し手の自由だったでしょう。しかし、問題は物の言いようです。
 「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのはよろしくない」……つまり、イエスが自分の癒しの力を、このシロ・フェニキヤ出身の女性の娘の為に使うのは、子どもらにあげるパンを子犬にやるようなものだというわけです。
 この時代、このユダヤ人社会では、犬と豚は特に神から遠い汚れた存在と見なされていました。そして、異邦人:異教徒を「犬」と呼ぶのは、当時使われていた差別用語でありました。
 しかも、その異教徒の娘を「子犬」とイエスは呼びました。明らかな差別発言です。
 福音書の別の箇所でイエスは、
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と言っていますが(マタイ15:24)それと同じような趣旨で、「自分はイスラエルの子たち、つまりユダヤ人の救いの為に働いているのであって、異邦人の救済には興味が無いのである」ということを「犬に食べさせるパンはない」という言葉遣いで言い切るイエスのこの発言に、ややどぎつい差別意識を感じます。

不都合な真実

 こういう物語と出会うと、私たちはイエスを庇いたくなります。
 「これは本当にイエスが言った事ではなく、福音書を書いた作家が自分の差別意識を露呈してしまっただけのことではないのか」と思いたくなります。
 私たちはすでに聖書学の発展の成果で、聖書の記事のほとんどは歴史的な記録ではなく、人びとの間に伝えられてゆく中で造り上げられ、また編集者が手を加え、何らかの目的や主張が込められた物語であるということを知っています。
 つまり、福音書の記事に描かれたイエスと実際に地上で生きたイエスとの間には、違いがあるということを知ってしまっています。
 しかし、それだけではイエスを理想化する思いは衰えず、かえって自分の理想化したイエスと福音書の記事が食い違うと、福音書の記事の方が間違っているのではないかという幻想を抱いてしまうのですね。
今回のエピソードもそうです。イエスが人種差別をした。まさかイエスがそんな事をしたなんて考えられない。たぶん、これはこの福音書を書いたマルコにユダヤ人以外の異邦人を差別する気持ちがあって、「あんな異邦人でも、イエスは癒しを与えられたのだ」という美談を仕立て上げたのだろうと解釈できないこともありません。
 しかし、それにしても、イエスが異邦人の娘を「子犬」と呼んだ話はイエスにとってはあまりに不都合な記事です。というか、イエスにとってというよりは、「イエスは神の子であり、人間が犯すような罪は無く、清いお方である」という信仰を持つ教会の人びとにとっては不都合です。
 私は、この不都合な記事をあえて載せたマルコに、逆の意図があったのではないかと思います。

イエスの罪

 実は他にもイエス自身の罪を暗示する記事と言うのはマルコ福音書にはありまして、例えば、マルコの一番最初のページには、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授けられる記事があります。
 これも実は不都合な記事なのですね。洗礼者ヨハネは、「もうすぐ世の終わりが来るから、罪の赦しのバプテスマを受けなさい」と宣べ伝えていました(マルコ1:4)。そして、
「ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた」(1:5)と書いてあります。
 そしてそこにイエスがやってきて、
「ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった」(1:9)と。
 これは教会にとっては都合の良くない記事です。これでは、故郷のナザレから出てきたイエスが、洗礼者ヨハネの弟子になったかのような印象を与えますよね。そして、イエスが自分の罪を告白してヨハネから洗礼を受けたと。これはイエスが一切の罪のない完全な神の子であると主張をする人たちにとっては非常に都合の悪い記事です。
 「マルコさんこんな事書いてしまったけれども、これはやっぱりまずいでしょう……」ということで、マルコをベースにしながら自分の福音書を書いたマタイは、この物語に手を加えて、マルコには無かった場面を付け加えます。
 
「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか』。しかし、イエスは答えて言われた。『今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである』。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした」(マタイ3:13-15)
 これが更に後に書かれたルカになると、ヨハネが直接イエスに洗礼をさずけたという描写は無くなって、
「イエスもバプテスマを受けて祈っておられると……」(ルカ3:21)と言った具合に、さらっと流されてしまっています。
 都合が悪い。しかし単純に削除して無かった事にするわけにはいかない。このように福音書の作者たちが扱いに苦慮するのは、おそらく「イエスには世に出る初めに洗礼者ヨハネの弟子として活動していた時期がある」からです。
 そして、洗礼者ヨハネのもとに来て、悔い改めの洗礼を受けたということは、イエス自身が何らかの深い罪意識を抱いていて、心底悔い改めて救われたいと思って洗礼を希望したということです。
 イエスには罪は無いわけでもなく、イエス自身も自分には罪があるという自覚があったということです。

変化し、成長する

 悔い改めのバプテスマを受けて間もなく、イエスの師匠であったヨハネは投獄されます。そして、その時期からイエスはヨハネと少し違った自分流の活動を始めます。彼自身が神の国の到来を告げ知らせ、弟子を取り、病人を癒して回り始めます。
 そして、ヨハネの弟子であった何人かの者もイエスの後についていったようで、イエスは独自の道を歩み、イエス派とでも言うような流れができあがってゆきました。
 ですから、人間なら誰でもそうであるように、段々と色々な経験を踏む事を通して変化し、成長するというプロセスをイエスもたどってゆきます。
 そこで、再び本日のテクストに戻って来るのですけれども、イエスはもともと自分と同じユダヤ人の救いのことしか考えておらず、異邦人は視野に入れてなかった事を、ある異邦人の女性に諌められて悔い改めるという事件を記録した物語、イエスの変化と成長の過程を垣間見るような物語、それが本日のテクストのエピソードと言えるのであります。
 イエスは異邦人の娘のことを「子犬」呼ばわりして、人間の子ども以下の者のように扱い、癒す事を拒否しました。
 しかしこの娘の母親は大変賢い、機転の利く交渉ができる方だったのですね。
「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる子犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」(マルコ7:28)と切り返しました。
この切り返しにイエスはハッとさせられたのでしょうね。この言葉には、単に子どもの病気を何とかして治してもらいたいという必死の願いと共に、イエスの言葉尻をとらえた皮肉が込められています。「あなたが犬と呼んでいる私たちも実は人間なんですよ、ご存知では無かったでしょうけどね」という皮肉です。
 人間を犬呼ばわりして、癒そうとしない自分の振る舞いを恥じたイエスは、
「その言葉で、じゅうぶんである」(7:29)と言って、この母親の願いを聞き入れて娘を癒します。
 イエスのこの変化の素早さも見事なものです。こうやって、彼はこれまで自分たちの視野から締め出していた人びとと出会い、触れてゆくなかで、自分を変化させ、成長させながら、旅を続けてゆきます。

イエスにならって

 私たちは、イエスを敬うあまり、自分の勝手なメシア像をイエスに重ね合わせて理想化してみたり、イエスを過剰に美化して私自身の毎日のありふれた生活と関係のない高みへと祭り上げてしまったりしがちです。
 しかし、聖書を研究する中で明らかになってくるのは、イエスも一人の罪に悩む人間であり、過ちを犯す人間であったという事実です。
 ただ、彼の場合特筆すべきことは、彼は絶対に自分の過ちをごまかしたり、隠したりしなかった。要するに「ええかっこ」をしませんでした。
 改めるべき所があると気づかされれば、即時に改める。そうやって少しでも完成へと導かれてゆく。生きている限り、変化と成長を続けてゆく。そして、最後には自分の命を他人のために差し出すことができれば……。そのような道を求めてゆく彼の生き様が、改めて私たちの生き様に対して、「それでいいのか?」と問いかけているように思います。
 私たちは、いつも、いつまでも、変化と成長を続けてゆけるでしょうか。いつまでも若々しい育ち盛りのようなピュアな心を持ち続けられるしょうか。イエスはそう問いかけているように感じられるのですが、皆さんはイエスのこの試行錯誤の生き方から、どのような思いを抱かれますでしょうか。皆さんにお聴きしてみたいと思います。どうぞ、これからの分かち合いの時間、ご自由に思われた事を言葉にしていただければ、と思います。お話しください。

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