ぼくの後ろに道はできる

2011年11月8日(水) 
 同志社香里中学校高等学校 秋の宗教週間 早天祈祷礼拝奨励

説教時間:約12分(音声版およびスライドショーはありません)

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聖書:ヨハネによる福音書14章6節(新共同訳・新約p.196)

 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。




ぼくの前に道はない

 最近テレビでやっている車の宣伝、確かMAZDAの車の宣伝だったと思いますが、小学生くらいの男の子と大人の男の人が乗った車が雨の中を疾走するコマーシャルがありますね。見たことがある人、ない人いると思いますが。
 あのコマーシャルで語られるキャッチコピーが印象的です。
 「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」という言葉。なかなかかっこいいなと思いました。
 でも、あれは実はコマーシャルの制作に関わったコピーライターさんが作った言葉ではなくて、高村光太郎という有名な詩人の詩からとられた1節なんですね。
 高村光太郎という人は、明治時代から大正、昭和にかけて生きた詩人で、一番知られている詩集は『智恵子抄』という本です。
 いまぼくが紹介しようとしているこの詩は『道程』(「みちのり」という意味ですね)というタイトルの詩ですが、これは同じく『道程』という名の詩集に収められています。つまり、音楽のアルバムで言えば、タイトル・ナンバーのような位置づけの詩です。
 短い詩ですので、朗読してみたいと思います。

 「道程」
   僕の前に道はない
   僕の後ろに道は出来る
   ああ、自然よ
   父よ
   僕を一人立ちにさせた広大な父よ
   僕から目を離さないで守ることをせよ
   常に父の気魄を僕に充たせよ
   この遠い道程のため
   この遠い道程のため

……たった9行の詩です。でも、元々は102行もある長い詩だったそうです。それを削って削って、余分なものを削ぎ落して、約10分の1以下の長さに縮めたんですね。

誰かが行かねば、道はできない

 この9行のうち、最初の2行がコマーシャルに使われていました。

   僕の前に道はない
   僕の後ろに道は出来る

 確か「劔岳 点の記(つるぎだけ てんのき)」という山を舞台にした映画のキャッチコピーでも「誰かが行かねば、道はできない」という言葉がありましたが、「道」というのは、動物が通るけもの道ではなくて、人間が歩いてゆける道なわけですね。
 でも、最初から人の道になっているような所は無いのであって、誰かが最初に行って、「ここは通れるぞ」というルートを開拓しないと、他の人も通れるような道には絶対になりません。
 そして、最初に道を開こうとした人は、ともすれば危険な目に遭ったり、あるいはケガをしたり、命を落としたりすることもあり得ます。
 しかし、「誰かが行かねば、道はできない!」と勇気をふりしぼって進む人は必ず現れます。
 このように、道なき道を進み、誰も行かなかった新しい道を行く人の心情が、さきほどの高村光太郎の「ぼくの前には道はない。ぼくの後ろに道はできる」という言葉に凝縮されているんだなと思います。
 それは今日読んだ聖書の箇所、ヨハネによる福音書の14章6節「わたしは道であり、命であり、真理である」という言葉にも相通じる心ではないかと思います。

誰もが嘲笑ったとしても

 ぼくが聖書という本に関心を持つようになったのは、小学4年生の時に出会ったN君という友達との出会いがきっかけでした。
 ぼくもN君も小学校ではいじめられっ子でした。毎日のように暴力を振るわれ、バカにされ、物を隠され、笑われていました。
 しかし彼は、「聖書には『右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい』と書いてあります」といって、絶対に仕返しをしませんでした。そして、いつでも微笑んでいました。
 殴っても、蹴っても、彼はいつも微笑んでいます。それで、いじめっ子たちは、「こいつ、笑ってるで! 蹴られて嬉しいんやで! もっと蹴ったれ!!」と言って、ますます暴力を加えましたが、N君はいつまでも微笑んだまま、痛みに耐えていました。
 そんな彼を見ていてぼくは、なんだかスゴいショックを受けていました。激しいショックではありません。静かなショックでした。でも大きなインパクトがありました。
 彼はキリスト教の信徒ではなく、キリスト教の聖書は使いますが、キリスト教とは違う新興宗教の信者でした。ですから、ぼくが関西学院中学部というキリスト教の学校に入学した事から、次第に彼とは距離ができてゆき、やがて連絡も取れなくなりました。
 しかし、彼のどんなに激しく暴力を受けても復讐をせずに相手を赦すという壮絶な微笑みは、その後のぼくのキリスト教理解に大きな影響を与えました。
 ぼくはそんな人間には今でもとてもなれませんが、なれないにも関わらず、ぼくは彼の後を追いかけてゆきたい気持ちによくなります。

誰もが行かない道を行く

 彼は誰もが行かない道を行く人でした。
 その道のりは苦しかったと思います。しかし、彼を見てぼくが大きな衝撃を受けたように、一人で頑張っているつもりでも、誰かが見ていてくれて、誰かが後を辿ってくれて、そうして道ができてゆくものなのではないかと思います。
 誰もが行かない道であったとしても、勇気をもって進んでゆける者になりたいものですね。
 祈りましょう。

祈り

 神さま。
 私たちをいつも守り、導いてくださることを感謝いたします。
 私たちが誰もが行かない道を進まねばならなくなったり、誰もが味方をしてくれそうにないように思われる道を進むことがあったとき、どうか新しい道を開く勇気を与えてください。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。





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