本当に人を愛せるか

2011年11月13日(日) 
 日本キリスト教団 枚方くずは教会 聖日礼拝宣教
 
(枚方くずは教会では、礼拝中のメッセージを「宣教」と呼んでいます)

説教時間:約20分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ヨハネによる福音書21章15~19節 (新共同訳・新約p.211-212)

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることは、あなたはよく知っておられます。」 
 イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。
 このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


ペトロよ、私を愛しているか

 本日お読みした聖書、ヨハネによる福音書の21章は、イエスがエルサレムで十字架にかけられて殺され、そして弟子たちが復活したイエスと出会った後、彼らがエルサレムから故郷のガリラヤ地方に戻って、自分たちがかつて漁師をしていたガリラヤ湖(別名ティベリアス湖)のほとりに来たときの出来事を記しています。
 21章の3節で一番弟子のペトロが
「わたしは漁に行く」(ヨハネ福音書21:3)と言い出します。昔の仕事を思い出し、またイエスと初めて出会った頃のことを思い出そうとしているようにも感じられます。他の弟子たちも、「わたしたちも一緒に行こう」(21:3)と言います。
 そして、夜通し漁をして何も取れなかったのですが、岸辺にいつの間にかイエスが立っていて、イエスのアドバイスの通り網を打ってみると、引き揚げることができないほどたくさんの魚が捕れました(21:6)。
 その後、弟子たちは岸に上がり、イエスと共に焼き魚とパンを食べたと伝えられています(21:9-13)。
 今日、説教のテクストとして取り上げますのは、その続きの部分です。
 イエスはペトロに
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねます。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます(21:15)。
 しかしイエスは、更に尋ねます
。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロは先ほどと同じように答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(21:16)。
 それでもイエスは三度目に尋ねます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロはイエスが三回も自分を愛しているかと尋ねたので
「悲しくなった」と記されています。そして彼は答えます。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(21:17)

3度の否認と3度の問い

 聖書に描かれていることが、全て事実であると信じる人と、実はほとんど事実ではないのだと断定する人との間の考えの違いは埋めることができません。
 私も、ここに描かれていることが事実のとおりであったのかということは正直疑っています。
 しかし、事実の記録ではなく文学であったとしても、そこに人間の真実が描かれているということは、古今東西の文芸作品を見ても明らかです。
 なので、私はここではこのエピソードが事実であったか無かったかということにはこだわらずに話を進めようと思います。
 この物語でイエスがペトロに対して、3度「わたしを愛しているか」と訊いたというのは、これはペトロがイエスのことを3度「知らない」と言ったということと明らかに結びついています(18:17,25,27)。
 ペトロが3度裏切ったのに対し、イエスが3度「わたしを愛しているか」と質します。ペトロは3度イエスに訊かれた時、「悲しくなった」と描かれていますが、まさにペトロは自分が3度イエスを裏切ったことの自責の念、罪の意識を思い出させられて、非常に辛かったことだろうと思います。
 実はここで、日本語で読み流すと、イエスが3度「愛しているか」と尋ねて、ペトロが3度「あなたがご存じのはずです」と答えたというやり取りに読めるのですが、ギリシア語では実はここでは2種類の「愛」という言葉が使い分けられています。

「愛」という言葉

 ギリシア語には一般に最低でも4つの種類の「愛」という単語があると言われていますね。1つはアガペー、2つめにフィリア、3つめにストルゲー、4つめにエロースです。
最後のエロースから見てゆくと、エロースは肉体的な愛、主に男女間の愛、恋愛、しかし自分本位な、見返りを求める愛でもあります。よく恋人どうしや夫婦などで、「私がこんなに一生懸命に尽くしているのに、あなたは全然わかってない!」と言ったりするのは、この見返りを求めるエロースの仕業です。
 ストルゲーというのは、従う愛、尊敬を込めた愛、親子の愛や師弟関係の中にある愛を指すと言われます。
 フィリアというのは、「友愛」と訳されたりもしますが、友情に近いものです。その友人のために多少の自己犠牲は払うこともいとわない、強い友情です。
そしてアガペーというのは、見返りを求めない無条件の愛、神が人間を愛してくださるその愛の性質をアガペーと呼びます。どんなに裏切られても、どんなに自分が損をしても、愛し抜く愛です。
「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」(Ⅰコリント13:2)と言われているのは、このアガペーです。
 そしてもちろん、イエスが十字架にかかりながら、自分を殺そうとしている者たちの為に祈り、赦しを願ったのもこのアガペーの愛ですし(ルカ23:34)、友の為に命を捨てることほど大きな愛は無いと言い(ヨハネ15:13)、敵を愛し、自分を迫害する者たちのために祈れ(マタイ5:43)と言ったイエスの言葉の中にある愛もアガペーです。
 
アガペーを生ききった、アガペーそのものであった人間、それがイエスであり、だからこそイエスの中に神があるとイエスに接した人は感じたのですね。

愛し切れなかったペトロ

 今日のテクストでは、この4つの愛のうちの2つが使い分けられています。
 まず1度目にイエスは、ペトロに「わたしを愛しているか」と訊いた時、イエスは「アガペー」、動詞にすると「アガパオー」という言葉を用いています。
 これに対して、ペトロは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えますが、ここで彼は「フィリア」の動詞「フィレオー」を使っています。
 そうなると、それを加味して翻訳しなおすと、こうなるのではないでしょうか。
 「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を、自分の命を捨ててもいいほどに愛してくれているかい?」とイエスが言う。
 これにペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたの事を大切に思っていることは、あなたがご存じです」と答えているわけです。
 イエスは自分のことをアガペーで愛してくれているか? と尋ねているのに、ペトロは自分の愛がアガペーであるとは言えないわけです。正直と言えば正直ですが。
 「私は、あなたと共に命を捨てることができなかった。私はあなたを3回も知らないと言ってしまった。私はそうやって逃げた卑怯者です。でも、私は仕事も親も捨てて、あの瞬間まではついてきました。私にとってあなたは、ずっと大切な人でした。その思いを、どうかご理解いただけないものでしょうか?!」
 ……そのような思いがペトロの受け答えに表れているのではないでしょうか。

ペトロへの赦し

 イエスはもう一度ペトロに尋ねました。「ヨハネの子シモン、わたしを命にかけて愛してくれているか?」
 シモンは答えます。「主よ、わたしがあなたを大切に思っていることは、あなたがご存じです」。
 そして、3度目にイエスはペトロに尋ねます。
 「ヨハネの子シモン、わたしのことを大切に思ってくれているのだね?」
 3度目にイエスは言葉を変えています。彼は、ペトロが2度「アガペー」では愛していない事を告白したのを受けて、最後の3度目に、自分のことをペトロは「フィリア」、つまり友情で愛してくれているのだね? と訊き直したのですね。
 だからペトロは
「悲しくなった」(ヨハネ21:17)
 そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを大切に思っていたことは、あなたがご存じの通りです」。
 この3度目の質問で、「アガペー」でイエスを愛し切ることはできず、土壇場でイエスを見捨てて逃げてしまったけれども、それでもイエスに出会って以来、いつも「フィリア」を抱いて慕ってきたペトロのことを、赦してくれたのではないか、裏切り者の苦しみを認めてくれたのではないかと、私には思われます。

命をかけて人を愛せるか

 考えてみれば、ペトロではなくとも、私たちも、1人の人を、命を捨てなければならなくなっても愛し切れる者が何人いるでしょうか。
 子どもを持つお母さんは時々、「私は子どもの為になら死ねる」と仰る方がおられますね。うちの連れ合いもそうです。「あんたの為にはとても無理やけど、子どもの為なら喜んで死ねるよ」とよく言っています。
 では父親はどうでしょうか。父親だって、子どものために死ねる人はいるでしょうし、死ねない人もいるでしょう。本当は、そんな事はいざという時になってみないとわかりません。
 かつて太平洋戦争の真っ只中で、敵艦に突っ込んでお前は死ぬのだと命令されて、命令に背けば味方に殺されるという状況に置かれてしまったら、自分は何のために死ぬのか、国家の命令で犬死にか、いや、自分は家族を守るために死ぬのだ、家族を愛するが故に死ぬのだ、と自分の死を位置づけざるを得なかった男性たちは多かったでしょう。
 もちろん、「国家のため」という美辞麗句で、結局は政治家のいい加減な判断で、300万人が戦地で飢えや病気で犬死にさせられた歴史を、今の私たちは知っておりますので、私などは常日頃から、「誰が政治家の決めた命令なんかで死んでやるか」と思っていますが、相手は国家権力ですから、警察でも軍隊でも使って、国民に何でもさせようと思えばできるわけです。
 いざ、選択の余地の無い所に追い込まれてしまったら、「同じ死ぬなら家族のために死にたい」と、やっぱり思うでしょうね。

愛の限界

 たとえば、地震が起こって、津波が迫ってきて、でも、自分の家族が動くに動けない時、自分だけ逃げてしまう可能性は、率直に申し上げて私には十分あるだろうと思います。
 東日本大震災の被災の真っ只中で、誰も言わないけれども、また、誰も言う権利は無いとは思いますが、誰かを見捨てて逃げてしまった、自分だけ助かってしまった、そういう辛さを抱えている人はいるはずです。
 また、私たちにとっては距離的に非常に近くで起こり、ある程度は私たち自身も被災者であった阪神淡路大震災(あるいは兵庫県南部地震)。あの時は津波ではなく火災が恐ろしい被害をもたらしましたけれども、その迫り来る火の手から逃げようとして自分の家族や大切な人を見捨てたり、あるいは助けることができなかった情けない自分を思い知らされた人は多かったのではないでしょうか。
 あの大震災の後、かなりの数の離婚があったそうです。いかに多くの夫婦が自分たちの愛の無さを思い知らされ、いかに多くの夫婦が経済的あるいは物理的な困難の前に崩壊せざるを得なかったかという事を想像すると、私たちは「愛」という言葉を、簡単には口にはできないな、と思うのであります。

ペトロの行く末

 ペトロは、自分が大切に思っていた先生を見捨てて逃げた、その愛の無さを思い知らされて、心底自分のことが嫌になったと思います。
 しかし彼は、そんな徹底的に自分に絶望した所から、再出発します。
 今日の聖書の箇所の後半は、その再出発したペトロの行く末を暗示しています。
 「イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた」(ヨハネ21:17-19)
 正典の福音書や使徒言行録には書かれてはおりませんが、外典とされている『ペトロ行伝』では、ローマでネロ皇帝の迫害で逆さ十字架につけられて殉教したとされています。
 もしこの伝承が事実であれば、ペトロはひとたびはイエスの受難においてイエスを棄てて、自分の命を取りましたが、最終的にはイエスと同じ道を辿って生涯を閉じることによって、イエスへの「アガペー」を完成させたと言うことができるでしょう。

我らの行く末

 人間は最後には必ず死ぬのですから、死によって何者かへの愛を表すことは、実は多くの人に開かれた道なのかも知れません。
 私自身、命に代えてでも人を愛するということをやって見せなさいと言われても、今はできません。しかし、いつか死が間違いなくやってきた時に、自分がそれまで生きている間に積み上げてきたものが、誰かのお役に立てるようなものとして残せるならば、本望だと思います。
 今、死んででも愛せと言われたら到底無理ですが、今から死ぬまでに、伝えるもの、残せるものを準備しなさいと言われたら、自分に出来る事をやってみようと思える人は多いのではないでしょうか。そしてそれができるならば、幸せなことではないでしょうか。
 そう思えば、死とは、人間に残された「アガペー」への最大のチャンスなのかも知れません。生涯の最期の瞬間には、アガペーを残して世を去りたいものです。
 祈りましょう。

祈り

 私たち一人一人に命を与え、この世に送り出してくださった神さま。
 私たちにこの世の様々な経験をお与えくださることに感謝致します。
 どうか私たち一人一人の生涯を意味深く、価値のあるものとなさしめてください。
 そして、私たちが互いの尊い命を褒め称えつつ、あなたのもとで愛と友情をもって共に生きる者とならしめてください。
 主の御名によって祈ります。
 アーメン。



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