友なるイエス

2012年1月6日(金) 
 日本キリスト教団 香里ヶ丘教会 新年祈祷会奨励

 説教時間:約23分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ヨハネによる福音書15章14~15節(新共同訳:新約p.199)

 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。
 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。





近況報告

 皆さん、新年明けましておめでとうございます。
 クリスマス・イヴの説教を担当させていただくようになってからもう10年以上が経ちます。また、この新年祈祷会でお話をさせていただくのも越智先生の時代からだったように思います。
 クリスマス・イヴの礼拝では、久しぶりに教会に帰ってこられた方、初めて教会に来られた方がたを意識して、あまり突っ込んだお話はしませんで、割と入門者向けのクリスマスのお話をするようにしています。
 その一方で、新年祈祷会では、諸先輩方に囲まれて緊張しつつ、しかし、長い事教会に通った人でないとわからないような思いも分け合うことができますので、これはこれで毎年楽しみにしております。
 私はふだんあまり、というよりほとんど香里ケ丘教会の礼拝には出席しておりません。しかし、聖日の礼拝には結構まじめに出席しています。他のあちこちの教会の礼拝に出席しております。
 特に今年度新しく加わったトピックスとしては、4月から日本キリスト教団徳島北教会という所に、月に1回礼拝説教を担当するということで協力に行くようになりました。
 私は教会担任の牧師という事を経験したことがありませんので、たった月に1回とは言いましても、継続的に同じ会衆の皆さんと一緒に聖書をひも解いてゆくというのは大変新鮮な経験なんですね。
 おまけに、その教会では説教のことを「説き明かし」と言うんですが、その説き明かしが終わるとすぐに「分かち合い」と称しまして、いま話したばかりの説教に対してみんなが意見や感想を言ったり、互いの言う事を聴き合ったりして、話し合いを持つのですね。
 これが最初の頃は恐怖でありましたが、半年も続けて慣れてくると、集まっている方々お一人お一人のパーソナリティというか性格や物の考え方というものが少しずつ見えてきます。また、自分の説教からどんな想定外の反応が出てくるんだろうと楽しみにするような心のゆとりもできてきました。
 そして、そのご意見を拝聴しながら、「では次回はこんなテーマで説教をしてみよう」と心に思い描くこともできるようになってきまして、なかなかこのスタイルが最近は気に入っております。
 思えば、この祈祷会などもお話をした後、自由に話し合うことができるわけで、そういう意味では非常に似ていて、今日も私は、自分のお話が終わった後、皆さんからどんな言葉が発せられるかをとても楽しみにしています。

和やかな教会

 さて、学校でノンクリスチャンの生徒、ノンクリスチャンの大人を相手にしながらキリスト教教育に携わっていて、また、いろいろな教会に出席させていただく中で、最近の都会における教会の伝道について思っていることをまとめて述べてみたいと思います。
 現在、いろいろな教会で、信徒の高齢化、若い信徒の減少、教会の未来を担う人材がいない……といったことが問題になっています。
 これに加えて、地方部の教会では、社会全体でも若い人がせっかく成長するとみんな都会に行ってしまいますから、いよいよ苦しい状況になっているようです。
 しかし、都会の教会が潤沢に人材も資金も集めているのかというと、決してそうではなく、都会の人口が増え続けているにも関わらず、教会の成長はジリ貧です。特に、日本キリスト教団の教会は右肩上がりの成長をしている所は無く、全くダメと言っても言い過ぎではありません。
 カトリックや聖公会の礼拝に出てみた事のある方はいらっしゃいますか? 荘厳な儀式を通じて聖なるものに触れ、毎週の聖餐あるいは聖体拝預によって恵みを体で味わい、そして信徒が互いに愛情豊かな交わりを体験することができます。
 何より、信徒さんたちのお互いの交わりが和やかです。信仰理解について論争する事がほとんどありません。その雰囲気の柔らかさに初めて教会に来た人もほっとすることができます。
 また、若い人が集まる教会はそれなりの特徴がはっきりしています。非常に情熱的でエネルギーにあふれていて、アートやエンタテインメント性に満ちていて、しかもはっきりと何が正しくて何が間違っているかを教えてくれる。これが若者の求めているものです。
 若者は元気が有り余っていて、今は特にそれを発散する場所が今の時代は非常に限られているし、また人生経験が足りないので、人生何が正しくて何が間違っているかはっきりさせられるわけではない、ということがわかっていません。だから答えが無いということに耐える力がまだ無いんですね。だから、答をはっきりと与えてくれるリーダーについてゆくのです。
 こういう教会は、若い人にはいいですが、ある程度人生経験を重ねた人にはだんだんと必要とされなくなっていくでしょう。でも、世代交代をうまく続けて行ければ生き残れるでしょう。いつも若い人が入ってきて、卒業するように入れ替わってゆくような教会です。

気難しい教会

 これに対して、プロテスタント、特に日本キリスト教団の教会は最低と言ってよい。はっきり言って、神がおられない。神がおられるということを感じないです。
 みんな自分の学んできた信仰や神学や教会形成や運営についての知識が絶対だと思っているので、他人の信仰理解、教会理解に対して寛容ではありませんし、論争ばかりやっている。たまには発言を意図的に封じるという暴力的な行為まで行ったりする。
 だから、安らかで和やかな雰囲気がなかなか作れず、形の上では仲良さそうに取り繕っていても、本心から安心できない、どこかで人間関係的に緊張感が漂う、しんどい教会になってしまいがちです。
 では、カトリックや聖公会の教会では論争や対立はないかというと、そういうわけではないんですが、それでも概してプロテスタントほど論争的ではありません。信徒の間にそんなに深刻な対立は(もちろん内部に入り込んで見聞きしたわけではありませんが)無いように思われます。
 また、司祭さんたち教役者の先生たちも、良い意味で「いいかげん」というか、礼拝の儀式を離れてしまいますと、ほんとに俗っぽい、チョイ悪親父みたいな人ばかりです。
 これは礼拝や礼拝後の交わりの会などに参加してもわかることですが、カトリックや聖公会の人たちは、穏やかでのんびりした、あるいはにこやかで人の良さそうな人が多いです。その代わり、あまり教義とか聖書学の知識とか、あまりお詳しい方はいません。キリスト教の知識的な事を求めて行く人は、ちょっと不満足に終わるかも知れません。
 それに対して、プロテスタントでは何か気難しげな、あるいは厳しい戒律でも守っているかのような、しかもプライドが高そうな印象の人をよく見ます。知的な人の割合が多くて、よく本を読んだりして勉強はしているのですが、どこか緊張感を漂わせている、それがプロテスタントです。だから、何か間違いをしたら怒られそうで、何となく安心できず、居心地が悪いのです。
 そんな教会に、今後新しい人がどんどん来るという事は、私は個人的な感想ですが、まずあり得ないだろうと思っています。あるいは教会に来ても失望して去ってゆくでしょう。
 そのような教会は、世の中の人がイエスや神に人びとが素直に向かうのを邪魔している状況であると言っても過言ではありません。

本当の安らぎ

 今必要とされているのは、本当に人に安心と休息を与える場所。
 打算も利害も無い、信頼できる友と出会えるような場所です。
 あまり深く考えなくても、「あの人はあの人、私は私」ということが安心して言えるような場所であることが大事です。そういう風に精神的に自立した人が集まっている所の方が、実は人は仲良くなれます。
 自分の考えていることの正しさや、自分が慣れ親しんだ習慣にしがみついて、それを人に押し付けたり、自分とは合わない人の存在に耐えられず、相手を否定するような人は、本当は精神的に自立できていない人ですね。
 人に自分の正しさを認めさせないと自分の正しさが実感できないという人間。このような人間は、自分の正当性を実感するためには、他人の服従が絶対に必要なので、これは一種のいわゆる依存症なんです。
 薬物や酒に依存しやすい人がいるのと同様に、他人が自分に服従したり、同調してくれるという状態に依存して生きているのです。自分とは合わない人を自分に従わせる、あるいは排除するには、力を必要とします。ですから、この手の依存症の人間は権力とか権威にも依存します。
 そして、そういう人が教会を牛耳ってしまいますと、教会に平和と安心を求めて来る人は、離れて行きます。教会はさびれてゆきます。そのままでは教会は滅びてしまいます。
 「真の正しさ」「真の信仰」「真の正義」「真の教義」……そんなものを世の中の人が求めているのではないのです。
 そうではなく、どんな人でも神さまに愛されていますよ、「みんな違って、みんないい」んですよ、ということを緩やかに伝えるような場所でなくてはならないのではないかと私は思っています。

権威なんて棄てよう

 その為に私たちがしなければならないこと、できる事は色々あると思いますが、その一つに私たちの信仰におけるキリスト:イエスの位置づけを少し変えてみるということを提案したいと思います。変えてみるというとちょっと強制的なニュアンスもあるかもしれませんので、言い直すと、新しいオプションを強調してみたいと思うんですね。
 それは、「イエスは私たちの友である」という面です。
 イエスがどんな方であるかということは、昔からいろいろな表現が取られてきました。例えば、「主」であるとか「王:油注がれたる者」であるとか「ラビ:先生」とか「羊飼い」、あるいは「神の子」「子なる神」「人の子」であります。
 この最後の「人の子」というのは、旧約聖書のダニエル書に出て来る、この世の終わりに天からやってくる存在を指していますので、これも「神の子」と同じように、天からやってくる人間を超えた存在です。
 このように、これまでイエスというのは、どこか人間を超越した、権威と栄光と支配力を持ったご主人様であるかのように表現されてきました。そして、イエスがご主人様なら、我々人間はイエスの「僕」であり「弟子」であり「迷える羊たち」であるという認識とワンセットになっています。
 しかし、その事が結局、歴史を通じて教会が権威主義に陥ったり、正統か異端かといったような論議を巡る薄汚い覇権争いや、政治的な派閥争いによって対立や憎しみが増幅されたりする原因の一つでもあったのではないかと思うわけです。
 そして、誰が正しいのかを常に争っている中で、一人一人の信徒は、自由で自分らしいのびのびした信仰を失い、ビクビクと権力を持つ人の顔色をうかがって暮らすようになってしまうわけです。
 こういう考え方を、一部の人たちは「垂直思考」と呼んで非常に重んじます。しかし、私はこの「垂直思考」を全く否定はしませんが、あまりこれに依存するのではなく、「水平思考」すなわち、イエスが天から降りてきて、私たち人間の隣人になってくれた。友達になってくれたということに、もう少し着目してみたいと思うのです。

友なるイエス


 讃美歌にもあるように「いつくしみ深い友なるイエス」ということを、もっと強調しても良いのではないか。
 実は昨年の12月始めごろ、ちょうどそういう事を考えている時に、偶然、神学部での恩師の勉強会で、恩師の口から「ドイツの神学界では今、『友なるイエス』の再発見が神学上の話題として活発化している」ということを聞きまして、私は意を強くしました。
 本日の聖書の箇所にもあるように、イエスは「わたしの言った通りにすれば、あなたたちは私の友ですよ。もはや僕ではありませんよ」と言って下さっています。
 イエスは、私たちに親しみを込めて近づいてくださって、「私たちは互いに友人になろうじゃないか」と言ってくださっている。これはとてもありがたいことではないかと思えませんでしょうか。
 とても頼りがいのある兄貴のような友人としてイエスが来てくださったのですから、私たちも、教会をそんな風に、互いに友達を作り合うような群れにしてゆくようにしたほうがよいのではないでしょうか。
 友達の輪を広げて、楽しく過ごす。それでまずは十分なのではないかと、今の私は感じています。
 お話は以上です。祈りましょう。

祈り

 愛する天の神さま。
 本日こうして、敬愛する信仰の仲間の方々とともに、新年の祈りを合わせる事ができます恵みを心より感謝致します。
 私たちの教会の未来を導いてください。この香里の地における宣教をどうか導いてください。この地に住む人びとに、あなたにおける安らぎと和らぎを分けて差し上げることができますように、どうか私たちの信仰を整えてください。
 イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

 





 

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