大群衆を満腹にさせた男

2012年1月22日(日) 
 日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし

説教時間:約25分(音声版およびスライドショーはありません)

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聖書:マルコによる福音書6章30~44節(口語訳:新約p.60-61)

 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
 イエスは舟から上がって大ぜいの群集をごらんになり、飼う者にない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。
 弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。
 するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。
 彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。
 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。
 それから、イエスは五つのパンと二ひき魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
 みんなの者は食べて満腹した。そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。パンを食べた者は男五千人であった。





大群衆を満腹にさせる奇跡

 今日、お読みしました、5000人の給食の奇跡物語は大変有名なお話ですね。5つのパンと2匹の魚があったのですが、それをもってイエスは、男性だけで5000人いたと言いますから、ひょっとして家族と共に来ていた人もいると考えたら7〜8000人いたかも知れない。そのような大人数の人たちを満腹にさせたというわけです。
 子ども向けの聖書物語の本の中には、イエスがどんどん膨らんでゆくパンを人びとに分けている絵が描いてあるものもあります。本当にこんな風にパンがどんどん膨らんだら面白いでしょうね。
 しかし、残念ながらこのお話は歴史的な事実であると考えているという聖書学者は少ないようです。私も事実だとは思っていません。
 また、そもそもこの奇跡が行われたと言われているガリラヤ湖周辺には、5000人規模の集落は存在しなかったという調査結果もありますので、男性だけでも5000人をかき集めて来るというのは、かなり難しいという話です。
 おそらくこの奇跡物語は、イエスがパンを増やしたという事実を伝えようとしているのではなく、何か別のことを伝えるために、あえて事実を記録するという方法ではなく、奇跡物語という形式で何かを象徴しているのでしょうね。

場所と数字

 その象徴的な意味を解読する上で重要だと思われるのが、この奇跡が行われた場所と、物語に出て来る数字です。
 マルコは4つの福音書の中で一番最初に書かれた本ですが、この中で5000人の給食の奇跡は6章の後半にあります。それは、イエスが生まれ故郷のナザレに帰って、田舎の人たちに信じてもらえなかった話(6:1-6)、そして付近の村を巡り歩きながら、弟子の中から12人を選び出して派遣する話(6:6-13)、その後、使徒たちがイエスのもとに帰ってきて、そこで5000人の給食が起こります。
 つまり、これはガリラヤ地方のユダヤ人の土地で起こった事になっています。ガリラヤ湖西岸地区の話です。
 この後、イエスはすぐに弟子たちを、湖の「向こう岸」(6:45)に派遣し、自分も湖の上を歩いて向こう岸に渡ります。向こう岸というのは、ガリラヤ湖東岸地区、ユダヤ人から見れば異邦人/異教徒の土地です。
 そこで今度は4000人の給食の奇跡が起こされます(8:1-10)。つまり、ユダヤ人の土地で5000人、異邦人の土地で4000人が満腹した、という物語なわけです。

ユダヤ人と異邦人

 マルコは丁寧な事に、この物語を解釈するヒントを与えてくれています。8章14節以降を見てみましょう。読んでみますね。
 
「弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。そのとき、イエスは彼らを戒めて、『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ』と言われた。弟子たちは、これを自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。イエスはそれと知って、彼らに言われた、『なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。また思い出さないのか。五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか』。弟子たちは答えた、『十二かごです』。『七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか』。『七かごです』と答えた。そこでイエスは彼らに言われた、『まだ悟らないのか』」(マルコ8:14-21)
 5つのパンが5000人のユダヤ人を養い、残りが12の籠になった。
 7つのパンが4000人の異邦人を養い、残りが7つの籠になった。
 ここで私たちがまず簡単に連想できるのは、使徒行伝の6章1節以降、初代教会で、「ヘブル語を使うユダヤ人」つまりユダヤ人の土地で生活している生粋のユダヤ人の信徒と、「ギリシャ語を使うユダヤ人」つまり異邦人の土地で異邦人と混じって暮らしているユダヤ人の信徒の間で対立が起こり、12人の使徒とは別に食事の分配係が7人選ばれたという記事です。

食事の分配

 面白いのは(面白いと思っているのは私だけかも知れませんが)、この使徒行伝の記事でも食事の事が話題になっている事ですね。ちょっと読んでみます。使徒行伝6章1節から。
 
「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、『わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう』」(使徒6:1-4)
 ここだけを読むと、12使徒が信仰の指導や礼拝の司式などを執り行い、7人が食事の世話などを任されたようにも受け取れますが、実際にはここで選ばれた、ステパノ、ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオの7人はいずれも異邦人伝道に出て行きます。
特にステパノは最初の殉教者として知られていますし(使徒7:54-60)、フィリポはエチオピアの宦官を改宗させて、教会で最初に性的少数者を受け入れた伝道者として描かれています(使徒8:26-40)。
 ですからこの7人は、実際には食事の分配をするスタッフというよりは、12使徒とは違う伝道活動を始めたグループと見るべきです。
そして、2つの派が分かれる原因となったのが、初代教会における「食事」の「分配」のことと書かれています。「教会」における「食事」と言えば「聖餐」の問題を無視して通るわけにはいかないでしょう。

命のパン

 給食の奇跡と聖餐が結びつくことは、ヨハネの福音書ではもっとはっきりと押し出されています。
 ヨハネの福音書では6章に5000人の給食の話が載っていますが、その物語に続いてイエスが「命のパン」についての教えを語ります。
 「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(ヨハネ6:26-27)
 「『天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである』。彼らはイエスに言った、『主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい』。イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない』」(ヨハネ6:32-35)
 「わたしが命のパンである」とイエスが言っていますね。この言葉はヨハネ福音書の中で何度も繰り返されます。ですからヨハネはここで、大群衆が満腹になった物語は、聖餐と絡めて理解すればいいんだよ、と教えてくれているんですね。
 というわけで、大群衆を満腹させる奇跡物語は、男性の信徒の数が5000人とか4000人とか、そういう数を的確に表しているかは疑わしいですが、それぞれ12人の使徒に導かれた、ヘブル語を話すエルサレムのユダヤ人信徒と、7人の福音伝道者に導かれた、ギリシア語を話すユダヤ人信徒が、どちらもイエスという命のパンをいただく聖餐によって豊かに養われたという事を伝えようとしているわけです。

割礼と無割礼

 では、なぜヘブル語を話すユダヤ人教会と、ギリシア語を話すユダヤ人と異邦人混合の教会は、袂を分かつことになったのか。それについては、パウロによるガラテヤ人への手紙が手がかりになります。
 パウロは回心してから3年後、エルサレムに行って、ケパ(つまりペテロ)を表敬訪問しています。また、更に14年後、彼は再びエルサレムに行って、自分の異邦人伝道について、エルサレム教会の「重だった人たち」に意見を求めたようです(ガラテヤ2:1-2)。そしてその時、
「わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシャ人であったのに、割礼をしいられなかった」(2:3)と記しています。
 その「重だった人たち」は、パウロたちに何の義務も負わせず、
「それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め」たと(2:7)、そして「そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである」(2:9)

律法を守るか否か

 ユダヤの律法によれば、男子は出生後8日目に割礼を受けます。
 ご存知かも知れませんが、キリスト教というのは、ユダヤ教と全然別の神を信じる新しい宗教としてできたのではありません。
 最初にイエスを信じた人たちは、ユダヤ人が昔から信じてきたユダヤの神がイエスにおいて人となって現れたのだと信じたわけです。ですから、生粋のユダヤ人だったイエスの弟子たちは、割礼の律法、あるいは食べてはいけない物の規定や安息日などの律法を守るのは当然でした。
 ところがイエスの教えは、異邦人の国々に住むギリシア語を話すユダヤ人、さらには異邦人にも伝えられ、広まりました。そこで、異邦人たちも律法を守るべきか否かが問題になります。
 ユダヤ人にしてみれば、律法を授与された神を信じるのですから、この道に改宗した者は皆、割礼の律法を守るべきだという事になります。
 しかし、異邦人にしてみれば、イエスという方は、ユダヤ人であるとかないとか、律法にかなっているとか罪人であるとか、そんな壁をどんどん超えて、あらゆる人びとに愛と赦しの福音をもたらしてくれたじゃないか。それなのに「この道に入るなら律法を守らねばならない」というのはおかしいではないか、という事になります。
 そこで異邦人に伝道しているパウロがエルサレムにやってきて、協議しようということになり、会談の結果「相互不可侵」、つまり割礼を受けた人びとへの福音はペテロらに任され、割礼を受けない人びとへの福音はパウロらに任されるという形で、お互いに立場の違いを認め合って、互いに何も強制しないという決議をしたというわけです。

対立の激化

 ところが、そのガラテヤ書2章11節以降には、こうあります。
 「ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、『あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか』」(ガラテヤ2:1-14)
 つまり、ペトロはパウロがいるアンテオケ教会(異邦人の教会です)を訪問している間、「食を共にしていた」(2:12)。これは単に律法で禁止されている食べ物を一緒に食べていたとも受け取れるし、やはり聖餐を共にしていたという意味とも取れます。とにかく共に食べていた。
 にもかかわらず、エルサレム教会の人間たちがやってくると、ペテロは急に態度を変えて「これは、本当は食べてはいけない物だ」と言ったか、あるいは「本当は割礼を受けていないものは聖餐に与ってはいけないのだ」と言ったか。
 とにかくパウロは異邦人教会でそういう二枚舌としか言いようのない態度を取られるのに相当頭に来たんでしょう。公衆の面前でペテロに対して、「あなたはなぜ異邦人にユダヤ人のようになることを強いるのか? なぜ異邦人が異邦人として生きてはいけないのか?」と問いつめたのですね。

命のパンはひとつ

 しかしその一方でパウロは、コリント人への第一の手紙で「パンは一つだ」と言っています。10章16〜17節にこうあります。
 
「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである」(1コリント10:16-17)
 教会の中には色々な信仰の人がいる。しかし、どんなに私たちが互いに異なる考えや生き方をしていても、私たちが与えられたキリストの体としての命のパンは一つなんだ、とパウロは言っているわけです。
 ここでやっと、再び
マルコの福音書に戻りますが、8章14節
 
「舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった」……「舟」というのは教会の事です。「舟」は箱船です。洪水のような荒々しい危険に満ちた世の中で、生きる物を囲って守り、運んでくれる箱船です。その箱船の中にはパンが1つしかありません。しかし、1つで十分なんです。それはイエスという1つの命のパンです。1つのパンを分け合うから、教会は1つの体です(1コリ10:17)。
 ユダヤ人教会に元々あった5つのパンと2匹の魚、また異邦人教会に元々あった7つのパンというのが何を表しているのかは、残念ながらまだ分かりません。
 しかし、イエスが自らの体を引き裂かれるために渡した結果、ユダヤ人も異邦人も十分に満たされ、その千切れた破片が12人の使徒と7人の福音伝道者のもとに託されたという事です。
 片や「割礼がなければ信徒ではない」と言う人びと、片や「割礼など必要ない。律法の行いではなく信仰によって神に義とされるのだ」とした人びと、どちらもイエスが命をかけて愛を与えた人たちなんですよ、ということです。
長い説き明かしになりました。色々な事をいっぺんに言い過ぎたかも知れませんが、それだけにどこからでも良いので、どんなご意見でもおっしゃっていただければ結構かと思います。どうぞよろしくお願いいたします。








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