心を高く上げよう

2012年2月19日(日) 
 日本キリスト教団近江金田教会 特別伝道礼拝説教

説教時間:約60分(音声版およびスライドショーはありませんが、礼拝ライブ録画があります)

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聖書:ヘブライ人への手紙12章4~7節(新共同訳:新約p.417)

 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。





今の時代をどう生きるか

 「今の時代をどう生きるか」という、大きな主題を与えられました。
 主題を横田牧師から聞いて、真っ先に頭に浮かんだのは、「今の時代をどう生きたらいいのかというアドバイスのようなものは、私にはできないな」という事でした。
 そんなに立派な生き方をしてきたわけではありませんし、どう考えても尊敬に値する人間ではありません。むしろ、失敗ばかりをしておりますし、その失敗は自分の人間性の未熟さ故に自ら引き寄せたもの、自分の至らなさ故に人に迷惑をかけたことばかりです。
 現在も私が存在しているために苦しんだり、大事な人生を浪費してしまっている人がおりますし、それに対して私自身がどうこうする術も知恵もありません。
 そんな人間ですから、「説教」とは「教えを説く」と書きますが、私が皆さんに何か教えを説けるような、そのような人徳のある人物ではございません。むしろ不徳の塊のような人間です。
 では、おまえは一体何をしにここに来たのか。なぜ横田牧師の呼び出しに応えたのかと言いますと、それは私が教会というものが好きで、特に初めての教会に訪ねてゆくのが大好きで、そこで初めて出会った人、久しぶりに再会する人と一緒に礼拝し、交わりを持つ事ができるのが好きだからです。
 ですから今日は、私自身は非常に楽しみにして参りましたが、その反面皆さんのお役に本当に立てるのか、やや不安な気持ちがあることも否定はできません。しかし、与えられた時間、がんばってお話をしてみたいと思います。

スルスム・コルダ

 本日の主題に加えて、私が自分で考えてきた標題は「心を高くあげよう」です。
 これは、ました讃美歌21の18番の言葉でもありますし、元々この讃美歌はかつてから歌われていた讃美歌第二編でも1番として収録されていました。
 この「心を高く上げよう」は、私自身が好きな讃美歌でありますし、自分が落ち込んだとき、苦しい思いをしている時に自分に言い聞かせる言葉でもあります。
 讃美歌21の27ページ、18番を開けていただきますと、楽譜の右上に
「SURSUM CORDA(スルスム・コルダ)」という言葉が見つかります。これはラテン語による「心を高く上げよ」です。
 この「スルスム・コルダ」という言葉に私が衝撃的に出会ったのは、九州の長崎においてでした。
 長崎の市街地中心部から少しはずれたところにある、西坂という丘の上に、「日本二十六聖人殉教記念碑」があります。
 1597年といいますから、今から415年前の、ちょうど今頃の季節のことですが、豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって24名のキリスト者が大阪と京都で逮捕され、左の耳たぶを切り落とすという拷問を受けて市中を引き回され、「長崎で処刑せよ」という秀吉の命令によって、厳寒の1月から2月にかけて京都から長崎まで貧しい身なりのまま約1ヶ月間歩かされ、途中で2名の逮捕者を加えて、合計26名で長崎に到着しました。
 そして、日本の西の端である長崎の、海を見下ろせる西坂の丘の上で、海に向かって、すなわち西洋諸国に向かって見せしめにするかのように、26人のキリスト者は十字架に縛り付けられ、槍で両脇腹を突かれて処刑されました。その殉教の場所に、現在26人の等身大のレリーフが施された記念碑が立っています。

殉教の地

 その幅の広い記念碑の裏側に、26個の実を持つ葡萄の房と、つるが彫刻されています。つるは、京都から長崎まで歩かされた道のりを象徴し、その道の上に「SURSUM CORDA」という11文字のアルファベットが浮かんでいます。
 これは殉教者たちが、つながれて長い道のりを、ただ自分が処刑される場所へ向かうだけの為に、長崎に向けて歩かされている時に、彼らが唱えた賛美の祈りの一つだったといいます。
 彼らはただ死にに行くためだけに歩かされていたのですが、そのような最中にあっても、泣きもせず喚きもしませんでした。
 十字架につけられる時、子どもたちは「天国に行ける」と喜び、大人たちは「太閤様をはじめ処刑に関わったすべての人を許します」と言いました。またその中でもパウロ三木というキリスト者は、「切に願うのは太閤様とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」と最後の説教までしています。
 私がなぜこれを見るために長崎まで行ったのかというと、今から11年前の2001年9月11日、アメリカのニューヨークなどで同時多発テロが起こったことの影響でした。
 このテロのために世界中がパニックに陥り、それまで11月に修学旅行でハワイに行っていた私の学校は、ハワイもアメリカ合州国ですから、入国できないということで修学旅行がキャンセルとなってしまいました。
 しかし、その学年の生徒だけ修学旅行無しのままで卒業させるというわけにはいかないので、代わりに国内で修学旅行をすることになり、行き先に九州が選ばれたわけです。
 そして、せっかく九州に行くのなら、行き先を変更した理由も理由だし、平和学習のチャンスにしようということで長崎にも立ち寄ることにしたわけです。そこで、私は下見の為に現地に入って、原爆資料館や地元の学校やいくつかの教会を回って、そして二十六聖人殉教の地にも立ち寄って、そこで「SURSUM CORDA」を見つけたわけです。
 実際に26人のキリスト者が4000人以上の群衆の前で虐殺されたという場所に立って、26人の姿が刻まれた記念碑を見つめて、クリスチャンであるというだけで、迫害され命を奪われるという時代があったのだと改めて思い知らされ、私は身震いを覚えました。
 そして、記念碑の裏側に回って、この「SURSUM CORDA(心を高くあげよ)」を見たとき、「このような絶望的な状況においても、なお心を高く上げて、希望を見出しながら死に立ち向かってゆくという心持ちは、どういうものだろう」と、一生懸命想像してみようとしましたが、とても実感することはできませんでした。
 しかし、何か自分の手の届かないような凄まじい心の葛藤が実際に起こり、どう考えても絶望でしかない事が、この人たちには喜びと希望に変わっていた、そういう奇跡が実際に起こったのだということに、私は心を打たれました。

一点の曇りも無い命

 その二十六聖人殉教の地における経験から11年経ちました。
 私は実は少しこの殉教者たちが羨ましく感じることがあります。それは、彼らはおそらく心の中に一点の曇りも無かったのではないか、と思うからです。
 彼らは確かに痛めつけられ、寒さに震え、過酷な旅に悩み、槍で貫かれる苦しみを味わって殺されました。苦しく痛い思いをしたと思います。しかし彼らは、自分たちが何のために苦しんでいるのかをわかっていて、それがとても大切な事で、命を捨ててでも守るべきものであると信じていた。
 彼らは自分たちが悪いことをしているのではなく、神の目から見て全く清い行いの故に苦しみを受け、その苦しみはイエスの苦しみに連なる大変尊いものであると知りながら死んでいったのでしょう。
 人間は、いつかは必ず死にます。拷問を受け、剣に刺されて死ぬ人は今の日本では珍しいですが、何の理由で死ぬにしろ、ほとんどの人の死において、苦しみは避けて通れません。
 同じ1度限りの人生なのに、己の人生について、一点の後ろめたさもなく、むしろ死ぬ事によって純粋で汚れのない生涯を全うする者になれることを信じて死んでいった人が、羨ましく思えるのです。
 この人たちに対して自分はどうか。
 己の未熟さと至らなさ故に、人を傷つけ、迷惑をかけ、自分のようなろくでもない人間が生きていていいのだろうかと問う毎日。今更どんな見栄えのよい行いをしたところで、これまでの罪業が消えるわけでもなし。ただ、順調に生涯の終わりが近づいていることの実感だけがいよいよ確かになる日々を生きながら、同じ生きて死ぬのなら、もっと汚れの無い人生を歩みたかったと、やや投げやりな気分になるのであります。

終わりから考える

 そもそも、私には少しネガティブ思考で暗い性格がありまして、子どもの頃から生きることよりも、死ぬことのほうに考えが捕われるようなところがありました。
 キリスト教の世界に足を踏み入れた原因のひとつにも、死に対する恐怖があったと思います。暗い場所が大嫌いで、夜寝ようとするたびに、死というのはどういう状態なのか、夢のない眠りが永遠に覚めない、完全なる無の状態なのかと想像し、「絶対に、絶対に、二度と目覚めることの無い眠り」というものに恐れ戦いて叫び声をあげて起き上がってしまう、ということを小学生の頃から毎晩のようにやっていました。
 そんな私に、ある友人が近づいてきました。その子はあるキリスト教系の新宗教の信者さんでした。その子は私に、「聖書」という本がある事を教えてくれました。
 彼は私に、「神さまを信じてその教団に入れば、もうすぐやってくるこの世の終わりを生き延びることができる。あるいはそれまでに一度死んだとしても、世の終わりの後に来る復活の時によみがえらされて、その後は永遠に若いまま生きるのだ」と教えてくれました。
 私は「永遠の命」というものがあるのだと教えてくれるこの宗教に魅力を感じました。そして、その子と2人で学校の片隅で聖書研究をするようになりました。小学校の先生から見ると、かなり変わった2人というか要注意児童だったのではないかと思います。
 その後、ぼくは聖書を教えてくれるという私立の中学校に入りましたが、彼の所属していた宗教が、キリスト教の側からはカルト指定された教団だったことを知らされたのは、入学してからのことでした。
 その子が教えてくれた聖書の解釈と、学校の聖書の授業で教えてもらった聖書の解釈は少し違っていて、学校で教えてもらった方が、やや合理的に思えましたので、私はそちらの方に引きつけられてゆきました。
 それと反比例するような形で、私はかつて自分に聖書を教えてくれた子とは次第に連絡を取り合わなくなり、いつの間にか住所もわからなくなって、そのまま行方知れずになってしまいました。
 その子の属していた教団の人がよく家に訪ねてくる事がありましたが、その度に私は、学校で仕入れた付け焼き刃の聖書の知識を元に意地悪な質問をぶつけてばかりいました。

永遠の命は永遠ではない

 学校で習う聖書の授業では、最初に小学校の友達に教えてくれたような、「もうすぐ世の終わりが来て、信じる者は永久にいつまでも歳をとらずに生きることができる」というのは、現実的ではないと教えてくれました。
 私は、「どうやらキリスト教で言う『永遠の命』というのは、永久に死なない事ではないみたいだぞ」と気づき始めました。
 キリスト教の、それも保守的ではない、比較的自由主義的な神学の理解によれば、永遠の命というのは、永遠に生き延びることではないらしい……。
 この場合の「永遠」というのは、時間的な永遠ではなく、人間の認識の範囲を超えている、という事を意味する象徴的な言葉のようです。
 ひとりの人間の生涯に留まらない、もっと大きなスケールと意義を持つ命の存在、それを永遠の命と呼び、ぼくらはその命に加わったり、つながったり、ひとつに溶け合ったりすることができ、その事が自分の生まれてきた事の意味と喜びを与えてくれる、そういう状態のことを「永遠の命を得る」と表現したのですね。
 今思えば、おそらく長崎で処刑された26人の聖人たちは、自分たちがこのいわゆる「永遠の命」のもとに行けると思っていたのではないでしょうか。そして、その「永遠の命」のもとに行って、戻ってきて証言した人はいないのですから、それがどういう状態なのか知る人はこの世にはいません。
 とにかく「永遠の命」は、この地上でいつまでも歳をとらないで生きていられるという意味ではありませんでした。
 正直がっかりしたことは否定できません。
 私はそんな事よりも、いつまでも若いままで生きていられる方がうれしかったのです。

死の準備

 アメリカでは、大金持ちは自分の遺体を冷凍保存してもらい、いつか遠い未来に死んだ人を蘇らせるほどに医学が発達するまで待つという人が本当にいるそうですね。
 そんな事が実現したら、世の中金持ちばかりが永久に生きて、貧乏人は短命……まあ、それはいつの時代もそうだったので、何も変わらないと言えばそれまでかも知れませんが……
 私は私なりに医学的な死についても少し調べたりしましたが、どうも医学が発達しても死人が蘇るという希望は薄そうな気がしました。少なくとも自分が生きている間には絶対に間に合わないなと悟りました。
 そこから先は、どうしても避けられない自分の死に対して準備をしなければならないと考えるようになりました。
 どうしても死ぬのが避けられないなら、とりあえず死を恐れる気持ちが無くなればいいと思いました。
 そして死を恐れなくなり、自分の死を受け容れることを一生懸命考えるようになりました。
 しかし、それでもなかなか死ぬ覚悟というものはできません。

エイジング

 そうこうするうちに、私にも老化が始まりました。
 髪に白いものが混じり始め、顔の肉もお腹の肉もたるんでまいりました。体力も衰えてきました。毎年毎年「今年が今まで一番しんどかったな」と思うようになりました。
 私が最初に「今年が一番しんどかったな」と思ったのは28歳の時ですが、それ以来ずっと毎年「今年が一番しんどかったな」と思い続けて、そのまま20年近く過ごしてきました。
 白髪はここ2−3年であれよあれよと言う間に増えました。それで、さすがに自分も老いているのだと認めざるを得ませんでした。
 「死ぬ」というより、「終わり」という言葉を意識するようになりました。自分があとしばらくで終わる、いなくなるということです。
 そうなると、心に浮かぶのは、「この後何をしようか」という事と、「自分がいなくなったあと、まだ生きてゆく残った人たちに何を残せるだろうか」という事でした。死ぬ覚悟がまだ定まっていないにも関わらず、焦りが心の中に広がり始めました。

生きる目的

 若い時は、あれもやりたい、これもやりたいと思っていました。
 映画を作りたい、小説も書きたい、絵も描きたいし、旅行もしたいし、キャンプもしたいし、美味しいものも食べたいし、美味しいお酒も飲みたいし、まあ牧師もしたい。そんな風に思っていました。
 でも、生きていられる時間がだんだん少なくなってくる事を実感するにつれ、まず「これからはそんなに色々はできないな」と思いました。出来る事が限られてくるので、何が自分の一番やりたいことなのかをはっきりさせざるを得なくなってきます。自分の本音の価値観が姿を現します。
 また、自分のやろうとしていることが、残される人びとに対してどのような意味あるいは値打ちを持つものなのかという事も考えざるを得ませんでした。
 私は基本的に欲の深い自己中心的な人間なので、自分が楽しいとか面白いとか思うこと以外のことは、もともとあまり興味がないんですね。ところが欲の深さも私くらい貪欲になってきますと、自分だけが楽しい、自己満足というのでは物足りなくなります。
 自分以外の人も一緒に喜んでくれないと、満足できなくなります。ですから、より大きな自己満足を得るためには、他の人にとっても意味のある事をしなければいけないと思うようになりました。

最期にやっておきたい事

 そうすると、死を意識すればするほど、自分の人生のあらゆる要素が、遺言のような重みを持つように感じられるようになってきました。
 自分の話す事、書く事、やる事、教え子や同僚らとの会話、すべてが、これで最後になってもいいや、と思えるような内容になってきました。
 だからといって、格別に大層なことを言ったりやったりしているわけではないのですが、それでも、「これで最後になってもいいかな」と思っていると、自然と人との応対もそれなりに、ただ惰性的な流れでやっているのとは違ったものになってきます。
 よく、「自分が今日までの命だと知ったら何をやりたいか。それが君の本当に望んでいることだ。それを今すぐやりなさい」という言葉がビジネス書とか金言集に載っていたりしますが、私は今、私が今晩死ぬとわかっても、毎日やっている仕事などを放り出して何かに専念するということはないと思います。
 というのも、どちらにしても、今晩までに片付くような仕事ばかりではなくて、長い時間がかかる事ばかりをやっているので、いつも通りの一日を過ごすか、それとも、どれも完成しないと悟って全てを中途半端なままで放り出して、上手いウィスキーでも飲みながら、感謝の気持ちを伝えたかった人に手紙など書きながら、最期を迎えたいと思います。

死ぬことの意味

 しかし、人間というのは幸いにして、今晩死ぬかどうかはわかりません。「死ぬ、死ぬ」と言いながら案外長く生きていけるかも知れないなと感じることもよくあります。そして、現在の生活が結構長く、あるいはいつまでも続くような安心感の中に浸ることができるようになると、確かに安心であるのは良い事なのかも知れませんが、その反面、自分の中に「このままでもいいや」「明日でもいいや」という妥協が生まれます。
 また、自分はいつ世を去るとも知れない存在であるという緊張感がなくなると、周囲の人に対する配慮が失われ、狭い意味での自己満足しか求めないようになり、それこそ本当に自己中心的な視野の狭い人間になってしまうような気がします。いつまでも幸せが続くと錯覚した時、逆に自分から幸せが逃げてゆくのです。
 「自分の人生がどうすれば一番良い形になるか工夫してみよう」と思うようになる為には、死ぬということ、自分が終わるということを強く意識することが必要でした。
 死を強く意識すればするほど、「一期一会」という言葉がリアルに響いてきます。
 死を強く意識するほど、自分の言う事、やる事に真面目に取り組むようになります。そして真面目に取り組んでいて結果がついて来ないということは、方法が間違っていないかぎり、ありません。
 結果がついてくると、非常に生きるのが面白くなってきます。
 つまり、死をリアルに感じれば感じるほど、自分の人生が輝いてくるような気がしてくるのです。
 死が近づくほど、自分の生きている目的と意味がはっきりさせられるようになります。
 これは素晴らしい事だと思いました。
 死が無ければ、こんな風に自分の人生が味わい深くならなかったのではないかと思います。まさに人間の人生には死が無くてはならないのではないかと思うようになりました。
 そして私は。そりゃあもちろん、殉教した26人の聖人とは全く比べ物になるような人間ではないのですが、それにも関わらず、日々自分の終わりを目前に意識して生きることで、自分の人生をある程度純粋なものにできるのではないかと思うようになりました。

月並みなこと

 先ほど、一番の自己満足は、人と喜びを分かち合う生き方だと申しました。
 では、何がいちばん人に喜んでもらえる事でしょうか。
 これもあれこれ試して色々失敗しているうちにわかってきました。
 人に「あなたは私にとって大切な人ですよ」「あなたのことを大切に思っていますよ」そして、月並みな言葉ですが、「あなたは一人ぼっちではありませんよ」と伝えること、今の段階ではこれが一番大事な事だという気がしています。
 一言で言うと「あなたを愛していますよ」ということです。
 生きることで、一番大切な、私たちがしなければいけない仕事というのは、「あなたを愛しています」と伝える仕事ではないでしょうか。
 人間というのは「自分は愛されているな」「自分は大事にされているな」と感じると、生きている喜びや意味を感じるように神さまに作られています。
 ということは、人に「あなたを愛していますよ」とか「あなたのことが大切なんですよ」と伝える事は、人の人生に生きる意味を与える大事な仕事なのです。
 「私はあなたを愛している」……月並みな言葉です。でもそれが結局一番大事なことです。

言葉だけではなく

 では私たちはそれをどうやって伝えることができるでしょうか。
 言葉で伝えるのが一番簡単です。しかし、言葉では逆に伝わりにくい場合もあります。美しい言葉で巧みに「愛している」ということを人に言っても、その言葉が美しいが故に、心がこもっていないように思われることがよくあります。
 その手の失敗を、私はもう星の数ほどしているのですが、今でもよく失敗します。よくしゃべる人間なので、つい言葉の力に頼りすぎてしまうのです。口だけの人間です。
 言葉で「愛している」という事を聞きたいという人もいるのですが、それとは全く逆に、言葉ではない方が良いと感じている人もいます。
 私たちはそれを伝えるために、どうすればいいのか。
 それは、何気ない普通のことを、心をこめてやっていればそれでよいのではないかと、近頃は感じています。
 物を作ったり、それを売ったり、物事を知らせたり、教えたり、挨拶をしたり、健康を気遣ったり、握手をしたり、ちょっとした暮らしのお世話をしたり、話に耳を傾けたり、料理を作ったり、どこかに連れて行ったり、道を教えてあげたり、落とし物を拾ってあげたり、荷物を持ってあげたり、一緒に歩いたり、車いすを押したり、花を生けたり、お茶を入れたり、荒い物をしたり、掃除をしたり……あるいは何もできない場合でも、祈る事はできます。
 職業を通してであれ、職業ではない個人的な行為であれ、あらゆる行為を「あなたのために」という心をこめてやってみること。その心がけひとつで十分ではないのかな、と最近は感じております。
 そして、もしその思いがはっきりと相手に伝わらなくても、それはそれで「良し」としましょう。
 すぐには愛が伝わらなくても怒らない。基本的には自分が満足できたらいいのですからね。

罪とは神から離れること

 さて、本日お読みしました聖書のなかに、
「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗した事がありません」(ヘブライ人への手紙12章4節)という言葉があります。
また、
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(同5、6節)という厳しい言葉もあります。
 ご存知の方も多いと思いますが、聖書における「罪」という言葉は、いわゆる「悪事」のことではありません。「悪いこと」「法を侵すこと」ではなく、原語の意味は「的外れ」であることはよく知られています。
 「的外れ」とは神の目的に適っていない、あるいは神から離れている、ということです。
 例えば、旧約聖書に収められた天地創造の昔話のなかで、最初の人間として創られたアダムとエバが、禁断の木の実を食べて、その結果エデンの園を追い出される場面がありますが、このなかでも、「食べてはいけないと言われていた木の実を食べた」という神に背いた行為も「罪」なのですが、その後、エデンを追われて「神から離れた状態になっている」というのも「罪」の状態であり、「穢れた」状態なのですね。
 だからこの昔話は、現代の私たちにも意味を持って迫ってくるのです。
 私たちは皆、神から離れているじゃないか、と。誰も神の言葉を直接聞ける者はいないし、神のご意志のとおりに生きる者もいない。つらい時、苦しい時にも、神がそばにいてくださる実感が湧かない。本来の人間はエデンの園にいた時のように、神がすぐ近くにいて、その存在を実感していたはずだ。しかし今、私たちは皆、神を見失って、孤独に生きている。今や世の中そんな寂しい人間であふれているじゃないか、という事実を、この物語は示しているわけであります。
 そして、本日の聖書の箇所、
ヘブライ人への手紙12章4節は、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗した事がありません」、すなわち、「神と切り離されて生きている、この孤独と空しさとに、あなたはとことんまで向き合ってみたことがあるのか」と問いかけているのであります。

孤独と空虚

 人生の悩みは数え上げ出したらきりがないほどたくさんあります。
 お金の悩み、健康の悩み、この2つは私たちの心配事の両横綱と言えるのではないでしょうか。それから、家族や地域、職場などの人間関係の悩み、身近な人を信じられなくなった時の、その人の悲しみはいかばかりでしょうか。
 そのような苦しみ、悩み、悲しみを更につらいものにするのが、孤独と空虚です。
 つまり、「誰も私の苦しみを知らない」「誰も私のつらさを理解してくれない」という孤独。
 それから、「自分は一体何のためにこのような苦労を背負っているのだろう」「この苦しみに一体何の意味があるのだろう」という疑問。「この苦労の先には、一体何があるのだろう。何も無いのではないか」という空虚です。
 この孤独と空虚が、私たちの苦しみを、そのものよりも更に大きく厳しいものに感じさせます。
 しかし、本日お読みしました聖書の言葉は、私たちに、「その孤独と空虚と血を流してでも戦いなさい!」と呼びかけているのであります。
 私たちがなぜ孤独と空虚に心を支配されてしまうのか。それは神を見失うからです。
 「神は私の苦しみをわかっていてくださる」「全てが神のご意志である」「神が与えたこの苦悩には意味がある」……そのことを信じられなくなったとき、つまり神から離れた時、人間は孤独と空虚の中に放り込まれます。
 しかし、「そうではない! 断じて神と切り離されてはならない! あなたの苦しみを神はわかっておられる。神はその苦しみから恵みを引き出してくださるのだ! それを信じなさい!」と聖書は私たちにたたみかけているのであります。

人間の仕事

 でも、どうやって、私たちは神を再び見出し、信じることができるのでしょうか。神は私たちの祈りに応えて、姿を現し、力を振るって、苦しみを取り去ってくれたり、私たちの問いに答を与えてくださるのでしょうか。
 もうすぐ半世紀生きようとしている私ですが、その半世紀というのは、確かに人類の歴史、地球の歴史の中では、ほんの一瞬のような短い時間ではあろうと思いますが、それにしても、人間としてはおそらく平均的な寿命を過ごすのではないかと思われる私が、今まで見て来たところでは、どうやら神が私たち一人一人に対して、何か人生が明るくなったり、楽しくなったり、意味を与えてくれたりするために、具体的な措置を講じてくださるということは、まず無いのではないかと思われます。
 おそらく、神は私たちを愛してくださっているのでしょう。
 この宇宙、この地球、太陽、月、この自然、そして生命、それらを見て、その見事なできばえに、科学者も神秘を感じざるを得ないでしょう。誰かがこの世界を創り、私たちの生命を造り、心を与えてくださったと考えてもよさそうです。
 しかし、たとえ神が実在したとしても、私たちのうちの誰が交通事故に合うか、またその事故で誰が死に、誰が助かるのか、誰がインフルエンザにかかり、誰が健康でいられるのか、誰が津波にさらわれ、誰が逃げ延びることができるのか、それを決めているのは神ではないのです。
 神は、誰が犠牲者になるかを決めるような残酷な事はされませんが、その代わり、犠牲者を助けてくださる事もないのです。
 神は、ただ人間を愛しているのです。しかし、その愛を伝える手段を神は持っていないのです。その愛を神は自分で伝えてくださるのではありません。その愛は、神の手足となって働く人間によってしか伝えられないのです。

神の手足

 神には姿形がありません。口も手も足もありません。ですから私たちは神の顔も知らないし、神の声も言葉も直接は聞いた事がありません。神に触れてもらったこともありませんし、何かを見せてもらったり、どこかに連れて行ってもらったこともありません。
 いや、ひょっとしたら、昔話にあるようなエデンの園が現実にあって、そこにいれば私たちは神と直接対面できたかも知れません。
 しかし今、私たちが置かれている現実では、私たちは神から切り離されています。切り離されているということは、私たちが神に直接触れる手段もありませんが、神にも私たちに直接語りかける手段が無いということをも意味します。
 神が愛を人間に伝える時、たった一つ使える手段があります。それは何か。それは、人間です。
 人間が人間に愛を伝えることで、神の愛は人間に届きます。
 私たちが神の手足になって自ら動き、お世話をし、神の口になって言葉を語り、神の耳になって話をじっくりと聴き、神の目になって眼差しを向けることによって、「あなたは一人ぼっちではないんだよ」ということを証することができます。
 また、私たち自身がお互いに自分を、神の御用のために「どうぞ使ってください」「どうぞ仕事を与えてください」と自分を神に対して明け渡すことを通じて、私たち自身も神のことが少しずつ、だんだんと理解できるのではないかと思います。
 「私をあなたの道具にしてください」と自分を差し出す人が、苦しみの中にあっても神と結ばれる不思議な喜びを感じることができるでしょう。

神の代わりに、神と共に、神を生きる

 いずれ私たちは誰もが皆、神のもとに帰ります。
 人生の答はその後、初めて私たちに与えられるのかも知れません。
 なぜ私たちは苦しみ抜きに生きることができないのか、いつも孤独で空虚な思いを抱えて生きなければならないのか。
 大昔の人はその問いに対して、「それはアダムとエバが、食べてはいけないと言われていた木の実を食べたからだよ」と説明しました。しかし、それだけでは、私たちはどうしたらよいのか分かりません。
 ただ、やがて来る自分の生涯の終わりまで、恐れ戦いて過ごすだけなのでしょうか。いいえ、断じてそうではないのです。
 私たち全員一人一人が神の一部分なのです。ぶどうの木に房が、そして実がたくさんなっているように、私たちは、元々は一つの神の命からこの世に押し出されて生まれてきました。
 ですから、一人の苦しみは一人だけのものではないし、一人の喜びも一人だけのものではありません。
 しかし、その事は私たち人間自身が、人に触れたり、話しかけたり、見たり聴いたりすることをしないと、人には分かりません。実感として伝わりません。
 ですから、私たちは迫り来る孤独感、襲い来る空虚感をかなぐり捨てて、うなだれそうになる心をあえて高く上げて、「私たちは皆同じ、神に愛された人間だよ!」と声をかけ合いながら、たった一人の小さな存在をも滅ぶことがないようにと互いに互いの存在を心に留め合いながら、一緒に生きてゆかなくてはなりません。
 神の手足となって、また神の口、目、耳になって、神の代わりに働き、語り、聴き、祈り、それによって神と共に生きる。あるいは神そのものを生きる、そういう事ができるように、日々鍛錬を受けつつ生きてゆきたいものであります。
 祈りましょう。

祈り

 私たちにそれぞれの人生を与えた方、主なる神よ。
 今ここに敬愛する方々と共に礼拝の時を守れますことを感謝いたします。人生の旅路において、このような出会いと分かち合いが持てます恵みに深く感謝いたします。
 私たちに、あなたの愛を信ずる心、あなたの愛を分かち合う力を与えてください。あなたに造られた一人一人の命を大切に守り合う者とならしめてください。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。








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