ユダの復権

2012年2月26日(日) 
 日本キリスト教団 徳島北教会 受難節第1主日礼拝説教

 説教時間:約25分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マルコによる福音書14章17~21節(口語訳:新約p.76)

 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。
 弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
 イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」。




裏切者

 受難節に入りましたね。受難節に入ると思い起こすのは私の場合、ユダという人物が気にかかります。イスカリオテのユダです。
 イスカリオテのユダと言えば、「裏切り者」の代名詞のような男です。
 しかし、裏切り者の汚名を着せられているが故に、気になる存在でもあります。
 だいたい、ドラマでも小説でもそうですが、裏切り者が主人公になったお話はたくさんあります。
 例えば、私の小さい頃は『タイガーマスク』というアニメ番組がありましたが、この主人公のタイガーマスクというのは、虎の穴というプロレス界の悪の秘密結社の裏切り者です。
 また、『デビルマン』というマンガもありましたが、これも悪魔界の中の裏切り者ですね。
 『仮面ライダー』のシリーズは今でも続いていますから、もう猶に40年近くの歴史がありますが、あれも元々最初の仮面ライダー1号は、改造人間の中の裏切り者ではなかったかという記憶がうっすらとあります。
 そういうわけで、「裏切り者」というのは、実は物語の中では大きな役割を果たすことが多いんですね。正統派の正義の味方も必要なんですが、裏切り者は現実をちょっと普通の視点とは違う所から見ている面があって、それが意外に物事の真実の側面を浮かび上がらせたりします。
 それで私たちは、裏切り者あるいは悪役につい魅力を感じてしまったりするわけです。

ユダ

 そして、イスカリオテのユダも、物語の隠れた主役、あるいはハッキリと表舞台を立ち回ることもあります。
 例えば、『ジーザス・クライスト・スーパースター』というブロードウェイ・ミュージカルがあります。映画化も何度かされました。日本では劇団四季が「エルサレム・ヴァージョン」と「ジャパネスク・ヴァージョン」という2種類の全く違う演出で上演してくれています。
 私はJR京都駅の中にある「京都劇場」という所で、2種類とも観たのですが、どちらも素晴らしいものでした。片方は岩と砂の荒れ果てた大地を舞台に汗と埃にまみれた登場人物たちが熱演します。もう片方は真っ白の舞台に歌舞伎風のメイクと和服をアレンジしたような衣装の、日本でしかありえないような演出のもので、これも大変面白かったです。
 そして、この『ジーザス・クライスト・スーパースター』、題名から明らかにナザレのイエスが主人公なのですが、その主役のイエスにも増して魅力的なのが、ヘロデ、ピラト、そしてユダという3人の悪役なのですね。
 中でもユダは、本当はこちらの方が主人公なのではないかと思わせるほどに存在感があります。イエスに素直についてゆくペトロなどの弟子たちよりも、イエスの危ない魅力を見抜き、イエスの終わりを知らない勢いを持つ人生の展開が恐ろしくて、自分の手で止めなくてはと思ってしまい、イエスを死に追いやってしまう、何とも言えない複雑な心理を見事に描いています。

駆込み訴え

 それから、ユダを語るなら絶対に外せないのは、太宰治の『駆込み訴え』という短編ですね。これはご存知でしょうか。面白いので是非お読みいただければありがたいです。文庫本で『走れメロス』という短編集の中に入っています。
 「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ……」という駆込み訴えの言葉から始まって、そのままずっと最後まである男の独り台詞で行ってしまいます。
 話を聞いていると、どうやらこの男はある人の弟子で、自分の師匠を売ろうとしています。そして、他の弟子たちの悪口を言い立てます。
 「ペテロに何が出来ますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、馬鹿な奴らだ。その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか」
 最後まで読んでゆきますと、この男は「あの人」は酷い、酷いと言いながら、実は「あの人」の魅力、美しさに非常に打たれていることもわかってきます。本当は「あの人」を愛し、「あの人」とずっと一緒にいれたらどんなにいいだろうということも申します。
 しかし最終的にはこの男は「あの人」を銀三十枚で売り渡してしまいます。今日はその最後の部分を朗読してみようかな、と思っていたのですが、それでは実際にこの小説を読む楽しみが無くなってしまうので、やっぱりやめておきます。落語を聴いているような面白さがありますよ。

イエスひとりが捕まった

 ところで、よく福音書の受難物語を読むと、裏切り者はユダだけではありません。少なくとももう1人、ペトロもイエスを裏切っています。
 イエスに「あなたは一番鶏が鳴く前に、3度私を知らないと言うよ」と予告され、「そんな事はありません。私はあなたと一緒に死にます」と威勢のいい事を言いますが、結局3度イエスのことを「知らない」と言って逃げてしまいます。これも立派な裏切りです。
 他にも、ゲツセマネの園でイエスが逮捕されるとき、少なくともペトロ以外にヤコブ、ヨハネがいたはずですが、彼らはどこに行ったのでしょうか?
 マルコによる福音書には、名も無い一人の弟子が裸で逃げていったという記事がありますが、他にも逃げた弟子はいた可能性があります。
 そもそも私は不審に思っているのですが、普通このような危険な新しい宗教運動のグループというのは、一斉検挙されるものではないでしょうか。
 豊臣秀吉が禁教令を出した頃、当時の日本のキリシタンは数十万とも言われていますが、それらを豊臣、徳川で根絶させたわけですから、それはそれは物凄い迫害と棄教への圧力があったと思います。
 今でもオウム真理教の教祖が逮捕され、一部の幹部も収監されていますが、まだ何人かの幹部は追われている状態です。
 イエスの存在は、当時のユダヤ人社会の、特にその指導者層の大祭司および最高法院にとっては、オウム真理教に匹敵するくらいのカルト集団という扱いです。
 それなのに、なぜ、イエスだけが逮捕されて、他の幹部クラスの弟子たちは逃げることができたのか。イエスと一緒にいたと言われているペトロたちも捕まっていません。そして、ユダが登場し、イエス逮捕の手引きをする場面を読んでも、大祭司たちがよこした兵士たちは、最初からイエス独りを逮捕する目的で来ているように読めます。
 これは、私は不自然ではないかと思います。
 ここから先は私の全くの推測ですが、私は恐らくイエスは「弟子たちを見逃してくれ」という取引をしていた可能性があるのではないかと思っています。
 そして、その交渉に出されたのがユダではなかったかと思います。

みんな裏切った

 皆さんは『ユダの福音書』という書物があるのをご存じでしょうか。初期キリスト教文書の一つで、1978年にエジプトで写本が発見されました。
 『ユダの福音書』という本があって、それが異端の書としてキリスト教の正典から外されたという事は随分前からわかっていたのですが、現物が見つかったのは今からごく35年ほど前のことです。
 それはイスカリオテのユダ自身が書いたものではないらしいのですが、その内容によれば、実はユダこそがイエスの弟子たちの中の誰よりも真理を授かっていて、裏切り自体もイエス自身が主導したものだ、と書いてあるのですね。
 もしそれが事実であったなら、ユダは本当は裏切り者ではなく、イエスの贖いの十字架を実現するために一番大きな役割を果たした人物であるということになります。
 少なくとも、イエスを裏切ったのは、先ほども申し上げましたように、ユダだけではありません。イエスを3度「知らない」と言ったペトロは言うに及ばず、その他の弟子たちもみんなイエスを見捨てて逃げました。
 そして、なぜ彼らが逃げて生き延びる事が可能だったのでしょうか?
 イエスが連行されていった後を追いかけていったペトロは、顔も出身地も割れていてイエスの仲間だと大騒ぎされました。それでも彼が逮捕されなかったのは何故か? それを考えると私は、イエスは最初から一人で死に、仲間は全員助けると決めていたのではないかと思ってしまうのです。

陰謀

 しかし、あろうことか、イエスを売って逃げおおせた弟子たちは、イエスの死後、エルサレムで新しい宗教運動を始めました。と言っても、イエス自身の実践よりは、大幅にユダヤ教に逆戻りする内容であったことは間違いないようです。だからこそ、エルサレムの教会は、キリスト教に対する迫害があったにも関わらず、エルサレムの街そのものが陥落するまでは持ちこたえることができ、またユダヤ的だったからこそ、異邦人へのキリスト教の浸透に励むパウロなどと対立しました。
 エルサレム教会の指導者たちの中で、ペトロはイエスの直弟子、それも一番弟子として権威を持ち始めます。すると、エルサレム教会やイエスの直弟子たちにとって都合の悪いエピソードは公文書から削除されてゆきます。
 そして同時に、誰に責任があるのか、という疑惑が高まります。そして、ユダにその疑惑が向けられたのではないでしょうか。
 ユダはイエスを銀三十枚で売った後、銀を神殿に投げ返し、自分の行いの結果を見て泣き、死んだと言われていますが、その死因については2つの矛盾する記事があります。
 マタイは福音書で、ユダは「首をつって死んだ」(マタイ27:5)と書いていますが、ルカは使徒言行録で転落死だった(使徒1:17)と書いています。他の3つ福音書はユダの死については何も書いていません。
 つまりユダがどのように死んだのかということは、謎のままであるけれども、とにかく弟子たちのうちで死んだのはユダだけで、その死はイエスの死と関係があるのだろう、ということだけは当時の人も思っていたということでしょう。
 そのような思考過程から、ユダがイエスに当局に売ったのではないかという憶測が生まれ、それが一人歩きして、「裏切り者のユダ」というイメージが造られていったのではないか、と私は一人で推測しています。
 死人に口無しですから、誰も「ペトロ! お前だって裏切っただろう!」と言うような人はいません。むしろ、ペトロは教会の指導者になっていますから、彼を誹謗中傷することは許されません。
 いやむしろ、ペトロの権威を守り、教会の権威を守るために、ペトロの裏切りはさらりと流しておいて、弟子たちの中でたった1人イエスと同じ時期に原因不明の死を遂げたユダに、一番大きな罪があったかのように見せかけるような工作がなされていったのではないでしょうか。

裏切りの教会

 そういうことを考えてゆくと、私たちは、ペトロらに率いられたエルサレム教会の実体とは何であったのかということを、かなり厳しい批判の目で見なければならないのかも知れません。
 それは、ひょっとすると、全員イエスの身代わりの死によって命を救われたにも関わらず、自分たちもイエスを裏切ったことを覆い隠すために、ユダ一人に罪を負わせて口を拭っているのではないか。
 イエスは死に、ユダも死に、死人に口無し。あとに残った弟子たちが作ったエルサレム教会では、彼らは好きなことが言えます。
 しかし、パウロも自分の手紙の中で、エルサレム教会の使徒たちが、イエスの大胆な言葉と行いから後退して、ユダヤ教の伝統に再び収まることで迫害を避けようとしている様子を批判していますし、マルコによる福音書はずいぶん昔から、12人の弟子たちがイエスのことを全く理解していないという様子を何度も強調しています。
 マルコ福音書に関して言うと、最終的にエルサレムがローマ軍によって陥落し、同時にエルサレム教会も跡形も無く滅びてしまったのは、エルサレムの使徒たちがイエスを裏切ったからだ、というニュアンスを読み取ることもできる、という学者もいます(佐藤研など)。
 私たちは「天罰」という発想は捨てたほうがよいとは思いますので、エルサレム教会が滅びたのがイエスの呪いであったとは考えたくありませんが、それにしても、エルサレムの使徒たちがやっていることのどす黒さから目を背けてもいけないと思いますがいかがでしょうか。

いただいた命

 受難節に入り、私たちはイエスの十字架の苦しみを思い起こし、自分のあり方を見つめなおす季節を迎えておりますが、私たちは「自分の罪のためにイエスが十字架にかかったのだ」ということと同時に、「身代わりになってくださった方を、なお裏切り続ける罪もあるのだ」ということにも、深い反省をしなければいけないと思います。
 「私みたいに罪深い人間は死んだ方がいいんです」と言っている人に、イエスは「私が代わりに罰を受けてあげるから、あなたは生きてください」と言ってくださり、代わりに十字架につけられた、ということを私たちは信じています。
 「あの方は私の身代わりなんだ」という申し訳なさ。また「あの方を十字架につけたのは私なんだ」という反省を抜きにして、「イエスは罪の力を打ち砕き、栄光を勝ち取られた!」とか、「私たちはその栄光を継承しようではないか!」などと浮かれたことを言っているクリスチャンは、はっきり言ってエルサレム教会と同じような勘違いをなしているのではないかと思われます。
 そうではなく、「自分の身代わりとして死んでくれたあの方が、あえて『私の代わりに生きてゆきなさい』とおっしゃっているのだから、いただいた命として生きていこう」と謙虚に頭を下げて生きてゆく。そういうことを受難節に今一度思い起こすことが必要なのではないかと思っております。
 可哀想にユダは、「自分がイエスを十字架につけた。それによって自分が助かった」ということを、誰よりも痛烈に感じていた人だったのかも知れません。しかし、彼は原因不明の死によって姿を消してしまいました。彼には、イエスによって守られた命を生きるチャンスがありませんでした。
 しかし、私たちは「生きたい」と思います。イエスの思いを大切にする意味でも、生きてゆかねばなりません。「いただいた命」をしっかりと生きてまいりましょう。

 説き明かしはここまでです。あとは皆さん、ご自由にご発言なさってください。

 





 

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