十字架を見た人びと

2012年3月18日(日) 
 日本キリスト教団 徳島北教会 受難節第4主日礼拝説教

 説教時間:約25分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マルコによる福音書15章33~41節(口語訳:新約p.80)

 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った。「そら、エリヤを呼んでいる」。ひとりの人が走ってゆき、海綿に酸いぶどう酒を含まれて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った。「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセの母マリヤ、またサロメがいた。彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。




12弟子の史実性
 先月、ユダのお話をしました時にも、少しお話をしましたが、実は福音書に描かれているイエスの受難の物語というのは、ほとんどが歴史的に実際に起こった事ではないという説があり、私もどちらかと言えばその考えのほうに賛成する立場です。
 まず私は弟子が12人いたということから事実ではなかったのではないかと思っています。
 というのも、主だったメンバーである漁師のシモン・ペテロとゼベダイの子ヤコブとヨハネなどは、各福音書のリストでも共通していますし、いろいろな場面で必ず名前が出てきますから、この3人は間違いなくイエスの側近としてついてきていたのだと思います。しかし、それ以外の弟子たちの名前については、福音書の間で食い違いがあったりします。
 ゲツセマネの園で逮捕された時も、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を伴って園に入り、祈っている間に弟子たちが寝てしまっていたという物語がありますが、私はこの3人が中心的メンバーで、それ以外は正確には12人ではないけれども、何人かの弟子や女性の弟子たちもイエスと行動を共にしていたのだろうと推測しています。
 それが12人であるとされるようになったのは、恐らくイエスが殺されたあと、弟子たちが中心に成って設立したエルサレム教会が12使徒の座を主張し始めたからでしょう。ユダヤ人社会のど真ん中であるエルサレムで「イエスはメシアである」とユダヤ人に伝道しようと思えば、メシアはイスラエル12部族の長であると主張しなくてはなりません。ユダヤ人が待ち望んでいたメシアはダビデのような12部族を治める王でなければならないからです。そこで、おそらく12使徒というアイデアが出て来たのであって、もともとイエスの弟子が12人であったということはなかったのではないかと思われます。
 実際には、男性ばかり12人ではなく、女性も男性グループと対等に位置づけられていたという研究報告もあります。そういう所から、キリスト教は男女共に礼拝するという風習が生まれたのかも知れません。ユダヤ教のシナゴーグでの礼拝は男女一緒にはしませんが、キリスト教はその男女の壁を打ち破って一緒に礼拝するという流儀を生み出したのですね。これには女性の弟子たちの力が働いていた可能性があります。とにかく男性中心的な12人の使徒というアイデアは、イエスの生前の活動にはなじまないのではないかと最近では言われ始めています。

創作されたユダ

 先月お話ししましたユダについても、実はこの人物も福音書を書いた人によって創作されたものである可能性があるという考えがあります。
 「ユダ」というのは、「ユダヤ」と同じです。日本語ではなぜか、民族や地域を表す時は「ユダヤ」で、個人の名前を指す時は「ユダ」と言っています。たぶんこれは英語の影響(Jews/Judas)なんでしょうが、実は元々ヘブライ語では「イェフダ」という同じ言葉です。
 ですから「ユダの裏切り」というのは「ユダヤ(人)の裏切り」とも読めるわけです。最初に書かれたマルコの福音書には、既に紀元後70年のエルサレムの陥落が神による裁きの始まりであるという考え方があると言われますが、その裁きがまずエルサレムから下されたのはなぜかというと、ユダヤ人たちがイエスのことを理解せず、イエスを裏切ったからだということを述べようとしているとも取れるのですね。
 ですから、ユダという登場人物は「ユダヤ」を象徴する記号として機能している可能性があり、本当にそういう名前の人がいたかどうかは確証はありませんし、何せイエスの死とほぼ同じ時期に死んだことにされていますから、誰もこの人の存在を確かめることができないわけで、そのあたりもこの人物の実在を疑わせる材料になります。

創作された裁判劇

 イエスが逮捕された真夜中、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)が招集され、大祭司、祭司長、長老、律法学者たち合計23人で構成される「小サンヘドリン」で裁かれたことになっています。場所は大祭司の屋敷の中です。
 まず夜中にサンヘドリンが招集されるということ自体がフィクションです。ユダヤ最高法院は夜招集されることはありません。夜に下される判決は全て無効です。彼らが裁判の正当性を装ってイエスに死刑判決を出したければ、会議は夜に開かれてはならないのですね。
 それに、仮にこの会議が実際に行われたにしても、たとえば福音書には、ペテロが大祭司の屋敷の中庭にまでついて来て、火に当たっていたと記されていますけれども、彼が行けたのはそこまでで、大祭司の屋敷の中に入って、裁判を傍聴するなどということは考えられないことです。すると、誰が一体裁判の様子を福音書作家に報告したのか、ということになります。教会の関係者でこの裁判を見た者はいないはずです。
 ですから、大祭司の屋敷で行われた夜の裁判というのは、史実ではなかった可能性が高い。ローマから駐留していた総督ピラトの尋問についても同じです。ピラトの官邸に入れるイエス関係者がいたはずがありません。そこでのピラトとイエスの談話も誰も発表するはずがありません。ですから、それ全ては創作としか言いようがありません。

唯一はっきりしていること

 そういうわけで受難物語の大半が創作によるものだと仮定すると、一体じっさいに起こったことは何だったんだろうと思うわけですが。
 まず、聖餐式のもとになった最後の晩餐ですが、これが12使徒に囲まれて行われ、ユダの裏切りが予告されるというのは、事実ではないでしょう。しかし、イエスがパンを取って、「これは私の体である」、ワインを取って「これは私の血である」と言ったのは実際にそういうことがあったのかも知れません。ただ、後でも述べますが、これは既に聖餐が儀式として行われている段階の教会で書かれた文書なので、逆に儀式をベースにして物語が書かれている可能性が高いのですね。ですから、最後の晩餐/主の晩餐は、書いてあるそのままではなかっただろうと。
 それから、ゲツセマネの園での逮捕は事実だったかもしれないれども、その時イエスが神に祈った言葉は創作でしょう。3人の弟子たちは眠りこけていたのですから、目撃者がいません。
 そして先ほども申し上げましたように、大祭司の屋敷とピラトの官邸における裁判については全面的に事実ではないと。しかし、ペテロが3回イエスを知らないと言ったということは事実だったかも知れない。これはエルサレム教会には都合が悪い報告ですが、ペテロ自身がそれを教会の人に語っていたとすれば、隠しようのない衝撃的な事実として記録せざるを得なかったかも知れません。
 そして、イエスが拷問を受け、血まみれになって十字架に釘付けにされ、さらし者にされて、やがて絶命した。これも事実でしょう。
 ということで、受難物語の中で、何が確実にはっきりしているのか。それは、イエスがたった1人で逮捕され、十字架につけられて、殺された。それだけです。
 事実、新約聖書の中で最初の文書を書いたのは、パウロですが、彼の手紙のどこを探しても、イエスの死については「聖書に書いてあるとおりにわたしたちの罪のために死んだ」(1コリント15:3)という以上のことは書いていないので、たぶんパウロ自身もイエスの死についてはそれしか知らなかったのではないかと言われていることと一致してきます。

ヴィジルのプログラム

 私がいま学んでいる研究者の説では、受難物語というのは、実は初期のキリスト教会が行っていた24時間のヴィジル(vigil:徹夜祭、徹夜の祈りの集い)のプログラムに沿っているのではないかと考えられています。
 マルコの受難物語を読んでゆくと、その物語の進行が3時間毎のユニットに分けられています。まず過越の食事すなわち最後の晩餐/主の晩餐の場面が日没時を想定して始まります。およそ午後6時です(マルコ14:12-21)。
 そして、約3時間の主の晩餐が終わって、一同が賛美の歌を歌ってからオリーブ山に出かけたというのが午後9時(14:22-26)。
 ゲツセマネで3人の弟子たちが眠っている間に、イエスが血のにじむような祈りを捧げていたのが約3時間。その後、祭司長たちがよこした人びとがユダに導かれてやってきて、イエスを逮捕したのが夜の12時(14:32-50)。
 大祭司の屋敷に連行されて、最高法院の裁判を受け、大祭司の尋問を受けてから、自分がメシアであることを認めるまでが約3時間で、朝の3時になります(14:53-65)。
 そして、明け方にかけて、屋敷の中庭でイエスの裁判が終わるのを待っていたペテロが、周囲にいた人たちに「おまえはイエスの仲間だ」と言われて、イエスのことを三度「知らない」と言うと、鶏が鳴きます。午前6時です(14:66-72)。
 夜が明けるとすぐに祭司長たちはイエスをピラトの官邸に連行します。そこで尋問を受けますが、ピラトはイエスを有罪にする証拠を見る事ができず、恩赦の対象にしようとしますが、群衆はバラバを恩赦の対象にし、イエスを殺せと叫び、そして
「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(15:25)と書いてありますので、ここまででやはり3時間(15:1-15)。
 十字架につけられたイエスは、
「十字架から降りて、自分を救ってみろ」(15:30)とか、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架を降りるがいい。それを見たら信じてやろう」(15:32)とののしられますが、そうこうするうちに約3時間がたち、「昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた」(15:33-41)とあります。その絶命の瞬間、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け(15:38)、百卒長が「まことに、この人は神の子であった」と告白します(15:39)。
 そして、
「既に夕方になった」(15:42)ので、アリマタヤのヨセフという人物がイエスの遺体を引き取りに行きます。その日の日没から安息日が始まりますし、木にかけられて死刑にされた者の遺体は、必ずその日のうちに埋めないといけないという律法もありますので(申命記21:22-23)、イエスの女性の弟子たちが慌てて布だけ巻いて、お墓に入れた。それが日没までに間に合って、午後6時です。これでちょうど24時間になりました。

十字架の道行き

 このように、受難物語というのは、24時間をかけてイエスの死を悼んで捧げられるヴィジル(祈りの集い/礼拝)を、そのプログラムに従って3時間毎に区切りながら、イエスの十字架の道行きをたどるための文書なのですね。
 よくカトリックの教会に行くと、壁画やステンドグラスや彫刻などで、イエスの生涯や十字架の道行きなどを視覚的にわかるように掲げてあったりしますよね。ああいうのと同じような機能を持たせるために24時間を8つの場面に分けて、わかりやすくイエスの受難を確かめるために作られたのがマルコ、つまり最初の福音書の受難物語であったというわけです。
 そして、この受難物語すなわちヴィジルが安息日の始まりを告げる金曜日の日没と共に終わり、福音書の物語は突然、安息日が明けた日曜日の朝に飛ぶわけです。これが復活の朝です。
 ですから、受難物語はむしろ儀式に基づいて作られた物語ですが、それ故に、イエスの死を悼む木曜の夕方から金曜の夕方までのヴィジルが、かなり早い段階から行われていた。イエスの死後20年ほどたってから書かれ始めたパウロの手紙の中には、聖餐式の制定の言葉が記されているわけですから(1コリント11:23-26)、その頃にはしっかり、聖餐式も含めた聖金曜日のヴィジルが確立していたであろうと考えることができます。
 いかに、イエスの死が、イエスを信じる人たちにとって強い衝撃を与えた事実であったかということを思わされます。

看取ったのは女性たち
 イエスは逮捕されるとき、たった1人で連行され、たった1人で十字架につけられ、預言者エリヤも助けに来ない、神も助けに来ない、その絶望の果てに「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びをあげて、死にました。
 男性の弟子たちの中では、せいぜい大祭司の屋敷に連れ込まれて行くあたりまではペテロが目撃していたくらいで、そのペテロも群衆にイエスの仲間であることを見抜かれて、3度「知らない」と言って逃げました。他の弟子たちもみんな逮捕されずに逃げ出しています。ですから、男性の弟子でイエスの十字架を直に見た者はいなかったでしょう。
 イエスの十字架を目の当たりにしたのは、少し離れた所から見つめている女性たちでした。その女性たちの中には
「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」(マルコ15:40)と記されています。この人たちがイエスを葬り、そして安息日の明けた朝に空っぽの墓を発見します。
 女の人たちがイエスの最期の目撃者になることができたのは、おそらく当時、男女差別が激しく、女性は一人前の人格として扱われていずに、一人前の判断や行動の自由も主体性も無いと思われていた時代なので、イエスと一緒に逮捕するにも値しないと当局も判断した。また女性たち自身も自分たちが逃げる必要はなく、むしろ新しい宗教運動の犠牲者という程度に扱われることを知っていたのでしょう。ですから、逃げずにイエスの最期を看取り、埋葬することもできたのです。
 ですから、イエスの十字架の死を最初に教会に伝えたのは、女性たちです。それを基にして、イエスの死が罪を贖うための生贄であるという信仰が生まれ、そしてキリスト教会が発生する源になりました。
 この女性たちがいなかったら、キリスト教は生まれなかったかも知れないわけですから、教会における女性の役割というのは、いちばん最初からものすごく大切だったということがわかりますよね。
 「大好きな、愛する先生、尊敬する先生であるイエスが、私たちのためにたった1人で命を捨ててくださった。あの方が命を捨ててくださったから私たちがこうして生きていられるのだ。そうでしょう?!」と、このご婦人方はペテロたち男性の弟子たちと再会した時に、詰め寄ったのでしょうか。
 とにかく「イエス様が身代わりになって、私のために、私の代わりに死んでくださった」という思いは、大変具体的でリアルな実感だったのではないかと思います。「あの人が死んでくださったおかげで、私はここに生きている。では生きている私は、この命を何に使おう?」と問わざるを得なかったでしょう。そして、そのイエスの死を語り継ぎ、追体験するために聖餐式と聖金曜日のヴィジルが生まれました。そして、現在私たちは、受難節をおぼえ、受難週を迎え、イエスの逮捕と死を思い起こす聖なる週を迎えてイースターを迎えるわけです。
 イエスによって命を救われた私たちが一体どう生きてゆくのか。それがとても大切なことになるわけで、それを問い直すのが、この受難節という季節になるわけです。私たちはどのように救われた命を使いましょうか……?
 というわけで、本日の説き明かしはここまでとします。この後は、皆さんのお声を聴きたいと思います。どうぞ分かち合いをいたしましょう。


 





 

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