泣く人と共に泣く

2012年5月20日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

説教時間:約33分(「分かち合い」を含めて67分間)
説き明かしと分かち合いの様子のビデオ収録映像


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聖書:ローマの信徒への手紙 12章15節 (新共同訳・新約p.292)

  喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。





「説き明かし」と「分かち合い」の録画(67分間あります)

被災地の第一印象

 3月の下旬に、近畿カトリック学校連盟の皆さんの企画に乗って、私の学校からも私と生徒4人で東日本大震災の被災地を訪問するボランティアに参加させていただいてきました。私が働いているのはプロテスタントの学校ですけれども、カトリックの皆さんが快く混ぜてくださって、楽しい交流も持たせていただきました。
 震災があってから1年もたってしまって、今ごろノコノコ行くのも恥ずかしいような気が少ししていたのですが、実際に現地に行ってみると、まだまだ全然震災の被害は終わっていない。むしろこれからだという気がしました。
 テレビなどでは、もう被災地の現状をニュースで頻繁に映し出すことも少なくなりましたし、むしろ復興のために努力していたり、地元の人たちが新しいイベントを開催したり、新しい商品を企画したりといった派手なニュースの方が目に付きます。
 もちろんそういうニュースにも意味があって、見ている私たちも励まされるし、そのイベントに協力しよう、その商品を買おうと思いますし、そういう私たちの行動が何らかの形で被災地の役に立つのは間違いないのではないかと思います。
 しかし、実際に現地に行ってみてまず感じるのは、やっぱり津波の災害に遭った地域は相変わらず何も無い荒れ野のままだということです。
 瓦礫こそ片付けられてはいるものの、家や店やその他の建物がひしめき合うように立ち並んでいたはずの街は、コンクリートの基礎部分だけを残して、それがどこまでも続くような荒れ野でしかありません。
 その、どこから手を付けたらいいかわからないような荒れ野が近いうちにまた街として復活するなどという事は、ちょっと想像し難い。そんな気配さえもないという気がしました。
 だからこそこの状況でできることをやろう、と頑張っておられる方々がおられる事には本当に頭が下がります。
 しかし、多くの人は、住む家を失い、家族を失い、住む所を失い、仕事も失って、どうやって生活を再建したらいいのか、全く目処が立たないまま、不安な毎日を過ごしておられます。
 見かけ上の街の復興はともかく、一人一人の生活の再建という意味での復興は、実はほとんど進んでおらず、むしろこれからいよいよ貧困の問題が深刻になり、飢える人、仮設で死ぬ人がどんどん出て来るのではないかという気がしました。

ボランティア

 被災地に向かうボランティアのメンバーは、10の学校から教師と生徒合わせて32名で参加しました。
 新大阪駅に集合して、そこから長距離バスで片道10数時間かけて行ったんですが、いまにして思えば怖い話でした。我々が帰って来て直後に、ああいう事故が起こっては……でも、往きも帰りもちゃんと運転手さんは2人いましたし、私たちは安全だったと思います。
 教員も生徒もバラバラに取り混ぜて3つのチームが編成され、南の方から、宮城県の大船渡、米川、岩手県の宮古に分かれて、カトリック教会が運営している「ベース」と呼ばれる救援基地で寝泊まりしながら、ボランティア活動に参加しました。
 私が行ったのは、岩手県の宮古市で……東北地方というのは本当に広いんですね。宮城県の中央部にある仙台から、その北隣の岩手県の真ん中へんの高さにある宮古まで行くだけでも、高速道路を使って4時間はかかります。四国もたいてい横長で、徳島と松山も遠いですが、東北地方の縦長はそれの比ではないほどです。
 あれだけ広範囲の沿岸部がほとんど全滅したわけですから、今回の津波の恐ろしさというのはものすごかったんですね。
 ……とにかく私は岩手県の宮古に配属され、そこで4日間を過ごすことになりました。
 宮古は他の地域に比べると非常に復興が早く進んでいると聞かされていました。しかし、行ってみてわかりましたが、それは単に瓦礫の撤去は終わったというだけの意味でした。
 津波で街全体が押し流されてしまうのですから、家や事務所などの建物の残骸、家具、車、樹々などの植物、土砂、そして人間やその他の動物の死骸……とにかく何でもかんでもその辺にゴロゴロ転がっていた状態だったのが、とりあえず全部取り除かれて、瓦礫集積所に集められている状態になった、というそれだけでした。被災地にはただコンクリートの荒れ野が広がっていて、風が吹いているだけです。
 ということは、他の「宮古市ほど復興がまだ進んでいない」と言われる地域は、1年以上経ってもまだ瓦礫や汚泥の片付けが終わっていないということです。実際、他の地域に回された、体の頑丈な男子の生徒らは、そういう肉体労働もやったようです。
 でも私たちのチームは、仮設住宅に訪問して出前カフェの店を出すというのが仕事の内容でした。肉体労働はこの人には無理そうやな、と判断されたのではないかと思います。
 固い言葉で言うと「傾聴ボランティア」というのですが、要するに珈琲や紅茶などとお菓子などを出して、仮設の集会所に自由に来られた方と、お話をするというものです。
 「傾聴」とは言いましても、とりたてて「あの時は大変でしたねえ」とか「いかがでしたか?」とか訊くのではなくてもいいのですね。もう1年経って忘れたいと思っておられる方も多いですし、下手に傷を開いて、流れ出た感情をどう収めてよいかわからなくなっても責任が持てません。
 とにかくこちらは関西から長距離を出かけて行きますし、全くのよそ者なので、何かと話題には事欠かないだろうと思って、逆に気楽な気分で行くことにしました。

カフェ

 最初に行った仮設住宅では、若手の人たちは仕事を探しに行ったりアルバイトに行ったりしているので、日中仮設住宅におられるのは、高齢者の方々と子どもたちだけでした。皆思い思いにくつろぎに来られて、好きな飲み物を飲みながら、囲碁や将棋をさしたり、おしゃべりに花を咲かせたりしておられました。
 高校生が珈琲を持って来て「どうぞ」と言うと、たいへん喜んでくださって盛んに話しかけてくださいますので、話題に困ったりすることはありませんでした。それを見てニコニコ笑いながら珈琲をすすっていた私にも、毎日来ているというお爺さんが親しげに話しかけてくれました。
 その仮設は中学校のグラウンドに作られているんですけど、そのお爺さんはその中学校の出身なのですね。そして自宅から持ち出された創立記念誌の年表をめくりながら、「春になるとみんなワカメ漁が忙しくなるので、学校が休みになった」など昔話をたくさんしてくれました。
 何時間かカフェで時間を過ごしていると、あるお婆さんたちが、「もっぺん嫁入りするとぎにゃあ浴衣着ていかにゃあね。どんな浴衣着ていぐべ?」などと笑いながら話しているのが聞こえてきます。お婆さんたちが話している言葉の方言がキツくて、実は最初の頃、半分くらいしか意味が理解できなかったんですね。それで、「へえ、こちらの方では再婚する人は浴衣着るんですか?」と尋ねると、「あんった何馬鹿な事言っとうね。あの世にもっぺんお嫁さ行ぐの!」と笑われて、それでやっとご主人が津波で亡くなられたんだなとわかりました。そして、自分も歳だからその内向こうでまだ会えるなあとおっしゃっているわけです。しかし、すかさず隣りのお婆さんが口を挟みます。「でもなあ、あっちでもうええ人見つけとるかも知れんで?」そしてみんなで「ギャーッハッハッハ!」と大爆笑です。話を聴いている高校生たちも笑顔が凍りついていました。
 翌日以降は別の仮設住宅のカフェにも行き、3日目は現地のスタッフが抜けて、そこのカフェを任されてしまいました。
 そこのカフェでもお婆さんたちが集まって、おしゃべりをしたり、手芸を楽しんだりしていました。また、小さな子どもがいる若い世帯もあり、子どもといっしょに遊んだりもしました。
 しかし、2日間だけでもじっくり話を聴いていると、仮設の中でも派閥が出来てしまい、あるグループがカフェを陣取ると、別の人たちがパッタリ来なくなって、カフェの役割が十分果たせなくなったり、あるいはその仮設は一般住宅地の中の公園に作られているのですが、その公園の周りの一般住宅の人びとが仮設のカフェに入って来て、それが仮設の中のある派閥と結びついて……というややこしい事が起こってしまったり、いろいろ面倒な事態が生じている面もあることがわかりました。
 そういうことを作業から帰って来て現地のスタッフの方に話すと、「そういう事が起こって来るのも復興へのプロセスでは必ずある事」「ゆっくりだがそうやって復興が進むんだからある意味仕方がない」という答でした。

てんでんこ

 4日目の最終日、私たちはまた別の仮設住宅の自治会長さんと数名の住民の方々のお話を聴く時間を持ちました。「もう思い出したくない」という人が多い中で、「聴いてくれる人がいるなら聴いて、知ってもらいたい」とおっしゃる方もいらっしゃって、そういう方々のお話を聴いたわけです。
 私たちもテレビでは津波の様子を遠巻きにとらえた映像を観たことはあり、それを観ただけでも「うわー、これは大変なことになった」と驚いていましたが、実際に体験を聴くと、それ以上に想像を絶するものでした。
 実は宮古市は明治と昭和に2度に渡って大津波の被害を受けているんですね。ですから、昔から住んでいる高齢者の方々は「地震があったら、てんでんこ」というのが皆の合い言葉だったんです。
 「てんでんこ」というのは、「てんでんばらばらに」という事です。地震があったら、すぐ後に津波が来るから、もう何も持たず、誰も助けようとせず、皆自分の身一つでとにかく高い所に逃げろ」というのが宮古の人たちの言い伝えで、結局それが、一人でも多く生き残る方法だったんです。
 ところが、昭和の15メートルの高さだったと言われる大津波の後、その15メートルにも耐える大規模な堤防が建設されたんですね。これは当時「世界一の堤防」「難攻不落の要塞」「万里の長城」ともてはやされたそうです。まさか15メートルを超えるような津波が来るはずはないだろうと思っていたわけです。そして、その堤防ができたからというわけで、堤防のすぐ内側まで住宅地や商店街が広がって街が出来上がってゆきました。
 ところが、今回その想定をはるかに上回る大津波が襲ってきました。入り江に入って来た上に、皮肉な事に堤防の両側で押し戻されて圧力が高まり、中心部の高さは恐らく20メートル以上には達していた大津波が易々と堤防を超えて、街を直撃しました。
 大地震があってから、お年寄りの方々は「これは津波が来る」とすぐ直観し、先代の教え通り「てんでんこ」に逃げて助かりました。地震から津波まで20分間近くあったと言いますが、「てんでんこ」に逃げていれば皆助かったのです。
 しかし、若い人たち、特に核家族で他の地域から宮古市に移り住んで来た新しい人たちは、「てんでんこ」という言葉も知りません。また、「世界一の難攻不落の要塞」の中に住んでいますから「大丈夫だろう」と思い、防災意識が低かったのでしょう。すぐには逃げなかった人が大半でした。
 また、いわゆる「人の良い人」もたくさん死んだそうです。防災放送を聴いて、逃げなければと思ったのだけれど、寝たきりの爺さん婆さんはどうする、子どもを助けなければ……そうやってあっという間に20分が経ち、津波に呑み込まれた人。一度逃げたのに、家族を置いて来た事に気づいて家に戻った人、犬を助けに戻った人。商売道具の 車で逃げようとしてあっという間に渋滞で動けなくなり、そのまま津波に巻き込まれた人。みんな死にました。
 津波と言っても、水が襲って来て、溺れて死ぬのではないそうです。
 めちゃめちゃに破壊された建物や家の、鉄骨、コンクリート、看板、電柱、自動車やバイク、民家の柱や壁、タンス、冷蔵庫、ベッド、洗濯機、ピアノ……そういったものが全部一塊になって猛然と押し寄せ、全てのものをなぎ倒して来るのです。それが先ほどの写真のような規模の水に押されて迫って来るのです。防災意識が低く、高をくくって逃げなかった人は、恐らく死ぬ瞬間、何が起こったのかわからなかっただろうと、生き残った方々は話しておられました。瞬時に家ごと押しつぶされて即死だったでしょう、と。そして、遺体が原形を留めるということもまずあり得ません。
 逃げのびた人たちは高台の上から、街がどんどん押しつぶされ、流されてゆくのを、ただ観ていることしかできませんでした。家ごと流されていくその中から「助けてーっ!!」と泣き叫ぶ子どもたちの悲鳴が聞こえていたと、泣きながら思い起こしておられました。その家が見る見るうちに粉々に潰されてゆきます。「でも、どうすることもできなかったんだ!」とポロポロと泣きながら悔やんでおられました。
 そうしてついさっき起こった事のように涙をこぼしながらお話をされると、思わずこちらももらい泣きをしてしまって、まあ私も最近何かと涙もろくはなっていたのですが、それにしても涙無しに聴くことはできませんでした。

避難所

 逃げのびた方がたは、とりあえず学校の体育館などの一時避難所に収容されていったわけですが、着の身着のままで寒い中逃げてきていますから、食べる物も体を温める物も何もありません。しかも、1人座布団1枚程度のスペースで、どうにもこうにも体が辛くてたまらない状況だったそうです。
 「市役所の連中は全く当てにならない」と皆さん口を揃えておっしゃっていました。役所の職員に何を尋ねても、「わからない」「私の担当ではない」そればかりで、何も状況が変わらないまま、どんどん体力も気力も消耗し、たくさんの人が倒れていきました。
 そんな中に翌朝早くとおっしゃっていましたか、自衛隊の先遣隊が着てくれて、食糧を配り始めてくれたときは、「神さまのようにありがたかった」と、これも涙を流しながら思い出しておられました。自衛隊の働きは本当に凄まじかったようで、不眠不休で生存者や遺体の捜索や被災者の支援に働き続け、風呂にも入らず雪の降る中でバケツの冷水を浴びて終わり、という状態で作業に当たったそうです。
 しかし、どうしたって場所と物資が十分に足りるということはありませんでした。例えば、パンにしろおにぎりにしろ飲み物のボトルにしろ、配給が始まると誰でも必ず自分一人の分だけを持っては帰りません。「子どもの分があるから」「爺さんがいるから」「婆さんがいるから」と言って、誰かが余分に持ってゆきます。食糧以外の物資にしても同じです。そうなると、「真面目な人が先に死んでいぐんだ」と言います。「みんなの為に我慢しよう」と思う人から先に死んでゆくのだそうです。「いやー避難所では、本当に人間として見だぐないものを嫌っちゅうほど見さされだなあ〜」とおっしゃっていました。
 私は質問しました。「避難所でそういう事が起こると、皆さん喧嘩になったり、あるいは市役所の職員の対応が悪いからと言って、暴動が起こったりはしなかったんですか?」
 すると、仮設の皆さんは、「喧嘩……?」と、きょとんとした目をされました。さっきまで涙をこぼしながら話していた人が、その涙目できょとんと。そして、それから涙を拭いてお互いに顔を見合わせながら、「喧嘩はながったなあ……?」「んだ、ながっだ、ながっだ」と頷かれました。
 「喧嘩、なかったんですか? え、じゃあ誰かがガバッとパン取ってったら、みんなで怒ったりしなかったんですか?」
 「しながっだな」
 「へえー。じゃあ我慢してたんですか?」
 「そう。涙こらえて我慢すでだ」
 「うわあ、それは、すごいことでしたねえ……」と私も言葉に詰まってしまいました。

「頑張れ」

 それから、いま日本全国で蔓延している「頑張れ、頑張れ」のキャンペーンにも不快をもらしておられました。
 「あれから1年経って、『さあ1年経ったし、俺たちも新しい気持ちでやっていこう!』って思ってんのに、『あれからもう1年が経ちました』ってテレビであん時の映像を、まーたこれでもかって流して、一体どういうつもりなんだよって怒ってんのよ。またあの時の気持ちに戻っちまうじゃねえかよって」と。
 「『頑張れ東北』とか『頑張れ日本』とか、みんな勝手な事言ってるけども、俺たちゃもう十分頑張ってきたんだよ! これ以上何を頑張れって言うんだよ!」と、また涙を流しておられました。
 涙を流しておられるのは話している方だけではなく、お話に来られた方がた皆でした。
 とりたてて男が女が、というのも今の時代おかしいかもしれませんが、話を聴いているだけの大の男たちも、頷きながらしみじみと涙を流しているのを見て、私は、黙して語らず、ただ涙を流しながら耐えるという生き方をしている人が何人もいる現実に、胸を突かれる思いでした。
 今の世の中、他人に負けないよう自分を主張し、不満があったらクレームをつけ、すぐに裁判に持ち込んで争う、という風潮が大都市では普通になってきていますが、今回私が出会った人びとは、涙を浮かべはするけれども、じーっと黙って、耐えて、ちょっと余裕が出来たら冗談を言って笑い飛ばしてみて……そんな感じで生きている人たちでした。
 でも、そういう我慢しがちな人たちが東北には多いから、実は全然復興が進んでいないという現状が伝わりにくいのかなとも思いました。ですから、今回出かけて行ってお話が聴けてよかったなと思うし、自分の聴いたことを、できるだけたくさんの人に話そうと思って、生徒さんたちと一緒にあちこちでお話をするような活動もしています。

泣く事しかできないが
 
 「復興」と言う言葉ひとつ取っても、街が賑やかさを取り戻したりするのも復興でしょうが、個々人が一人残らず快適な生活を取り戻すまでは本当の復興とは言えないとも思えたりもしますし、なかなか難しいんですが、少なくとも個人レベルでできる事として、そうやって人と人のつながりを広げてゆくというのは、やらないよりはずっといいような気がするんですね。何が縁で生活がより豊かになったり、明るくなったりするかわかりませんから。
 ですから、私はパウロが
ローマの信徒への手紙(12:15)に書いているように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」くらいの事しかできませんけれども、そこをベースにして、できる事をやりつづけたいと思っています。
 ボランティアで行くのも良し。買い物ツアーでお金を落としてくるのも良し。そして志と財力のある人は、地元に雇用を生むような産業の復興ですね。漁業の復興も含めて……でも本当に、被災地見物の観光で遊びに行くだけでも、地元に活気を生んでいいんじゃないかと思います。温泉もありますしね。
 今回のボランティア訪問は、パウロの「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」というのが、人と人をつなぐ一番単純な、全ての出発点なんだ、ということを学んだ旅でした。
 以上です。






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