敵を友にすることはできるか

2012年7月1日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝説き明かし

説教時間:約23分

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聖書:マタイによる福音書5章43—44節 (新共同訳・新約p.8)

  「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」




宣教「敵を友にすることはできるか」の録画(約23分間あります)

礼拝の始まりから終わりまでの録画はこちらです (Ustream)

非核三原則の崩壊

 おはようございます。今日また皆さんとご一緒に礼拝を守ることができます恵みを感謝いたします。
 突然ですが、皆さんは現在開かれている国会で、非核三原則が破られたのをご存知でしょうか?
 関心のある方はご存知でしょうし、特に関心の無い方が知らなかったとしても不思議なことはありません。これは消費税法案で荒れる国会のドサクサにまぎれて、そして原子力発電所の管理をするための法律を改定する論議の中で巧妙に隠されて、去る6月20日に衆議院で可決されてしまったからです。
 原子力の研究や利用を「平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に」としていた原子力基本法第二条に一項を追加して、原子力利用の「安全確保」は「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として」行う、という文言を加えました。
 問題は「我が国の安全保障に資することを目的にして」という部分です。つまり、原子力を軍事目的で使いますよ、ということを決めてしまったのですね。
 非核三原則というのは、言わずと知れた「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」という原則ですね。1955年ごろから論議され、1967年の佐藤内閣の時に成立したようです。
 広島と長崎という、実戦で2回も核兵器を投下された日本に住む者の感情として、核兵器を持つ、作る、持ち込まれるといったことは、特に敗戦後間もなくは、とてもではないが耐え難いというのが正直なところであったと思います。
 しかし、最近では核兵器というものへの恐怖を実感する世代の人が減り、戦争を知らない世代が社会を動かすようになりました。そして、狭い海を隔ててすぐ隣の国が、ミサイルの開発や実験に一生懸命になっている。失敗はするけれども何度も繰り返しミサイルを発射して見せる。ミサイルを発射した後は核実験をするというパターンを既に2回繰り返していますし、現在もアメリカの制裁措置を引き上げないなら核実験もあり得るとも受け取れるような声明を出しています。
 このような状況で、もともと民主党案には無かった「安全保障」という文言を、修正協議でついた自民党の意見を呑む形で追加した国会議員たちの間では、対北朝鮮の戦略において、「きれいごとを言ってはおれない」という偽らざる気持ちがあるのではないかと思われます。

抑止力

 国際社会において、きれいごとが通用しないのは、私たちも知っています。特に紛争の危険がある地域で、「こちらが丸腰になれば、相手も丸腰になってくれるだろう」という甘えた予測は全く通用しないでしょう。自分が丸腰になった瞬間に敵に撃たれるということを想定しておかないと生き残ってはゆけません。
 これはキリスト教会の中の平和運動においてもよく見られることですが、「全ての武器を放棄せよ」という主張をしている人がいます。確かにそれができたらどんなにいいでしょうか。世界中から武器、兵器が無くなれば、どんなにいいでしょうか。私も世界がそうなってほしいと思います。
 しかし、事はそう単純ではなく、相手が武器・兵器をちらつかせ、理性的な言葉による対話や交渉が通じない相手である場合、どうしても相手の攻撃に対する抑止力としての武装がこちらにも必要になってしまうというのが現実だろうと思います。戦わないために武力が必要だということです。
 このような私の発言は不謹慎であろうと思います。日本のキリスト教会の中では危険な考えと非難されても仕方がありません。
 しかし、私も戦争はあってはならないと思っていますし、例えば自分の息子や娘が武力紛争の現場になど絶対に行って欲しくありません。自分や自分の子どもたちが戦線に立つのが嫌なのですから、他人の子どもだったら戦線に立ってもいいというのも理不尽な話です。ですから、自分の子どもも、よその子どもも、ましてや教え子に戦線に行って欲しくありません。
 しかしそうは言っても、例えば自分の家に強盗が入ってきたり、暴漢が襲ってきたら、やはり家族を守るために私は戦うでしょう。そうなると、子どもが戦場に行くくらいなら自分が行った方がいいのかなとか、いろいろ考えが巡ってしまってまとまりません。
 現時点では武装解除をお互いにすることは無理だとしても、やはり将来的にはこの地球上から武器と兵器が消えて欲しい。そういう思いまで捨てているわけではありません。
 願わくは、日本や世界の政治家たちが、北朝鮮に武力行使をさせずに安全を確保していってほしいのですが、日本の政治家がその力を持っているかは未知数であります。

敵を愛する

 イエスは「敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」と私たちに教えてくださいました。
 しかし、この短い言葉を現実にするには、どれほどの忍耐と努力、そして犠牲が必要でしょうか?
 イエスご自身がまずこれを実践して命を奪われました。イエスは十字架にかけられて殺されながら、自分を殺す者たちのために「神よ、どうか彼らをお赦しください」と祈りました。
 インドの独立の父:マハトマ・ガンジーは、英国人の武力を用いた支配に対抗する際、一切の武器を捨てて、非暴力で抵抗せよと国民を指導しました。しかし、ガンジー自身は拳銃で撃たれて死にました。
 イエスへの信仰とガンジーの方法論に学んだアメリカのキング牧師は、最初白人の暴力に対して非暴力で抵抗し、晩年はベトナム戦争に対する反戦運動で知られましたが、彼も銃で撃たれて死にました。
 武器を捨てて、敵をも愛するというのは、結局自殺行為ではないのかという絶望的な思いが心をかすめます。
 イエスは一体、どういうつもりで、このような「敵を愛しなさい」という言葉を人びとに語ったのでしょうか。

贖罪の死
 
 1963年(9月15日)、アメリカのアラバマ州、バーミンガムという街の「16番通りバプティスト教会」で爆破事件が起こり、日曜学校に来ていた4人の黒人の少女が聖歌隊の衣装に着替えている最中に即死しました。また、礼拝に集まっていた会衆20人が怪我をしました。
 その3日後、4人の少女の合同葬儀がその教会で行われ、キング牧師が弔辞を述べたと言います。その弔辞の中でキング牧師は「この少女たちの死は贖罪の死だ」(贖いの死だ)と述べたそうです。イエスが人間の罪に対する罰を身代わりで受けるために十字架にかけられたのと同じように、この4人の黒人の少女たちも「私たちの罪のために死んだのだ」と言ったのだそうです。これが理解できますでしょうか?
 私は初めてこの話を数年前に聞いた時、全く意味がわかりませんでした。20本のダイナマイトで木っ端微塵にされて即死した子どもたちの死が贖罪の死であったと言うことは、「その少女たちが死んだのは、神さまの御心であった」と言っているのと同じで、「じゃあ神がこの子たちを死なせたのか」という疑念を起こさせるからです。
 何でもかんでも「御心ですから」「御心ですから」と神の意志のように言うクリスチャンはいますが、こういう事を神の御心にしたらあかんやろ、と思いました。
そしてその後、このキング牧師の「贖罪の死」発言はずっと私の頭の中に消化不良のまま残り続け、長い間提出できない宿題のようになりました。
 何年この問題で悩んでいたかわからないのですが、今でもスッパリと答えが出たわけではありません。今でも疑問が澱のように残っています。
 ただ、最近思うのは、「神がこの4人の少女の命を奪ったのではなく。それは爆弾を仕掛けた人の罪に違いないのだけれど、罪は爆弾を仕掛けた犯人だけにあるのではなく、私たち人間皆にあるのだ」ということをキング牧師は言いたかったのかな、ということです。
 あくまで推測に過ぎない私の解釈ですが、キング牧師は、人間の暴力が罪の無いイエスを十字架に追いやったように、人間の暴力が罪の無い4人の少女たちを死なせてしまった。イエスの死によって人間がいかに醜いかが明らかになったように、4人の少女たちの死によって人間の人種差別がいかに惨いかが明らかになった。
 本当は罪の罰を受けて死ぬべきなのは人間なのに、イエスが代わりに死んでくださった。それと同じように、本当は人種を理由にして差別し、対立する私たち人間が罪の罰を負って死ぬべきなのに、私たちの代わりにあの少女たちが死んでくれたのだ。彼女たちは私たちが受けるべき罰を代わりに負ってくれたのだ……と、それがキング牧師の言いたい事なのかなと思うようになりました。
 本来は死ぬべき罪深い人間の代わりに、罪の無い人びとが殺される。もうこんな事はやめよう。暴力の無い社会を作ろう。今こそ悔い改めよう。
 そういう叫びを、キング牧師の言葉から汲み取ることができるのではないかと思います。

平和を造り出せない罪

 そう考えると、平和を作り出せない私たちは、本当に罪深い。
 自分の身の回りだけが見かけ上平和で無事ならばそれでいいと思うのは罪深い事です。
 全てはつながっています。原発が無いと電気の受容がまかなえないと経済界が言うと、政治家は逆らえません。その政治家を選んだのは私たちです。そして原発が作った電気を使っているのも私たちです。
 政治家は核エネルギーの使用を正当化する理由を、この6月にもう一つ付け加えました。それが安全保障です。現に北朝鮮がミサイル実験や核実験を重ねているではないか、と。
 しかし、政治家たちはどこまで交渉で平和を造り出す努力をしてくれているのだろうか? 敵対心をあおって、世論を操作しカネを動かすほうが彼らにとっては簡単であり、利益が大きいはずです。軍事衝突が起こらないまま、冷戦のような状態が続く方が、原子力を動かし続ける理由ができ、利権に群がっている者たちが金儲けをするのに都合がいいはずです。
 ですからある意味、北朝鮮が頑なに頑張ってくれていたほうが、原子力ムラの利権に関わっている人は美味しい汁が吸えるわけですから、今後、相当勇気と力と良心を兼ね備えた人間を何人も育て上げないかぎり、こういう馴れ合いのような中途半端な冷戦が続いてゆくのでしょう。
 そして、そうこうしている間にも、東京や神奈川や名古屋や大阪や福岡などの寄せ場から、日雇い労働者が「ええ仕事あるで」と騙されて原発に連れて行かれ、暴力団が何重にも下請け、孫請け、ひ孫請けでマージンを取っていたあとの安い給料で、最も被爆線量の高いエリアで仕事をさせられ、ガンや白血病でどんどん亡くなってゆくけれども、みんな無縁仏ですよ。
 そして、そうやって作られた電気で私たちは暮らす……。
 簡単にまとめますと、私たちは軍事技術をもてあそんで適度な冷戦状態を維持しようとする政治家と、原発で稼ぐ暴力団、及びそれと結びついている財界などが作り出す政策に乗っかって、最も貧しい人たちの命を使い捨てにしながら、便利な生活を享受しているわけです。
 もっと簡単に言いますと、本当の平和と人の命を犠牲にしながら暮らしているわけです。これ以上の罪があるでしょうか。
 本当は死ぬべきなのは自分かも知れないのに、私たちの代わりに一番貧しく追いつめられた日雇い労働者が殺されていっている。そういう見方ができるのではないでしょうか。

壮大なる夢

 残念ながら、今のところ、私たちには今の世の中を変える知恵も力も欠けております。
 ただできることは、北朝鮮にも人間が生きており、日本にも人間が生きている。北朝鮮と日本だけでなく、どこに生きていたとしても人間は日々食べて、寝て、起きて、働き、言葉を交わし、同じ部族、民族、国民の間では仲良く暮らしています。その事を改めて認識したい。人間が生きるということの本質は同じだと信じたい。
 そして、その仲良き絆を、海の向こうの人と、いつか国籍や民族や宗教の差を超えて結ぶ事はできないかと、いつも願い続け、それを人にも話し続け、何百年かかってもいいから、全ての敵を友にし、弱き者を誰一人犠牲にしないという究極の願いを実現するために、ほんの小さな力でも良いから協力し、また次の世代へとその壮大なる夢を伝え続けてゆきたいと思うのでございます。
 世の終わり、すなわち世の完成というのは、そういう事ではないでしょうか。まだまだ、なかなか世の終わり、世の完成は来そうにありません。まだまだ私たちの努力の余地は残っています。
 全ての敵意を捨て、敵意を権力者に利用されないようにし、敵を友にすべく、できることを行ってゆきたいものであります。
 祈りましょう。

祈り

 私たち地上の人間一人一人に命を与えてくださった神さま。今日も生かされ、ここに礼拝を持つ事ができますことを感謝いたします。
 あなたがせっかく作ってくださったこの地球の上で、私たちは互いに憎み合い、また自分の知らない所で誰かを犠牲にしながら、生きざるを得ない状況を作ってしまっております。この罪をどうかお赦しください。
 誰も殺さない、誰も憎まずに済むような世をどうか来らしめてください。その為に私たちにできることを、どうかお示しください。
 このつたなき祈りを、イエス・キリストの名によって捧げます。
 アーメン。




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