まっすぐに見る

2012年7月22日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

説き明かし:約23分間+分かち合い:約58分間=合計:約1時間21分間


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聖書:マルコ1章16-20節 (新共同訳・新約p.61-62)

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
 また、少し進んで、ゼベダイの子やコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。




説き明かし「まっすぐに見る」(23分間)+分かち合い(58分間)=1時間21分


まっすぐに見る

 おはようございます。今日も聖書の言葉の説き明かしをさせていただいて、その後、皆さんと共に分かち合いをしたいと思いますので、よろしくお願い致します。
 さて、今日はマルコによる福音書の最初の方にある、イエスが最初の弟子をとる場面をテクストとしました。なぜかと申しますと、この場面に何気なく描かれたイエスの仕草に、私たちが一緒に生きてゆく上で、とても大切なことを学び取ることができるからです。
 故郷のナザレを捨てたイエスは、一時的にではありますが、洗礼者ヨハネの弟子になりました。そして、ヨハネ教団の方法に則って、砂漠で修行をしたりしていたようですが、やがて洗礼者ヨハネが捕えられて、ヨハネの教団が解体するに伴ってそこを離れ、再び故郷に近いガリラヤ地方に戻ってきました。しかし、故郷のナザレ村に戻るのではなく、ガリラヤ湖の岸辺の漁業の街、カファルナウムに住み着き、最初の活動を開始したようです。
 そして、ある日、ガリラヤ湖の畔を歩いている時に、漁師のシモンとアンデレの兄弟、またゼベダイの子ヤコブとヨハネに目を留め、彼らを弟子にしたというわけですね。
 この場面で、イエスはシモンとアンデレを、「御覧になった」と新共同訳聖書は訳してくれていますが、これは直訳すると「まっすぐに見た」という言葉になります。イエスはシモンとアンデレという人間を、「まっすぐに見た」わけです。

取るに足りない者

 当時のユダヤ人の間では漁師というのは蔑まれた職業であったということは既にご存知かも知れないと思います。
 漁師というのは、ちょうど日本の被差別部落に対する差別と似たところがありまして、生き物を捕えて殺して売る職業なので、生臭い匂いがすると言われて、卑しい職業とされていました。
 また、どちらかというとユダヤ人相手に商売するよりは、その魚を塩漬けにしてギリシアやローマに輸出していた関係で、異邦人/異民族と品物やお金をやりとりするということで、異邦人の手に触れることも多いので、そういう意味でも民族意識の激しいユダヤ人の間では「汚れている」と言われておりました。
 加えて、昔のことですので、人里離れた山や森の中、また夜の湖には悪霊が潜んでいるという迷信もありましたので、夜、火を焚いて漁をする事もある漁師たちは、悪霊にとりつかれているという噂も立てられたようです。
 そういう、同じユダヤ人たちから見下げられ、卑しまれ、しかもいわゆるインドのカースト制と同じで、漁師の子は漁師と決められていましたから、何か努力をしたり、チャンスをつかんだりして、成功するということもあり得ません。漁師として生まれ、漁師として魚を捕り、それを売り、それで今日のパンを手に入れる。明日も魚を捕り、それを売り、明日のパンを手に入れる。あさっても魚を捕り……という暮らしを続けて、そしていつか死ぬ。
 自分の人生はそういうもので、夢も無いし、希望も無いし、誰も自分の事を大切だと思ってくれる人もいないし、自分が生きていようが、死んでいようが、世の中の人たちには全く関係ない。この世の中で「何者でもない」存在。誰からも「まっすぐに見て」もらうことがなかった人間です。
 もちろん仕事を通じて誰の目に入ってはいたのでしょうけれど、誰でもない一人の漁師として人の視界の中に入ることはあっても、人間として彼らのことを「まっすぐに見た」人は今までいなかったのでしょう。
 ですから、イエスという人が「わたし」という人間に関心を持って、自分のことを「まっすぐに見た」時、彼らはびっくりしたと思います。彼らは初めて「わたし」という人間に関心を持ち、「わたし」に対して「あなた」と呼びかける人間に出会ったのでしょうね。
 そしてその不思議な人は、「あなたを人間をとる漁師にしてあげるよ」と言う。「人間をとる漁師」……何のことかわかりません。しかし、自分たちが今まで、漁師に生まれついたのも神さまの御心で、一生魚とりのこと以外の事は考える必要もなく、ただ死ぬまでそれを続けて生きてゆくという決まりきった人生ではなく、何か全く違うものに自分を変えてくれるような予感がする言葉です。「人間をとる漁師」。
 そして、シモンもアンデレも、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも、自分のことを「まっすぐに見てくれた」イエスについて、自分が今まで想像もしなかった新しい人生へと出発する決心をしたのですね。

12弟子の歴史性

 さて、イエスには12人の弟子がいたと多くのクリスチャンが信じていますが、ぼくはこれが歴史的な事実ではないかもしれないと思っています。
イエスに12人の弟子がいたというのは、イエスを新しいユダヤの王、すなわちダビデの再来であると信じる読者層を意識して、福音書作家たちが作った設定であろうと思われるからです。
 ユダヤ人の先祖:イスラエル民族はもともと12のバラバラの部族による連合体で、それが1人の神のもとに結集した所からイスラエルが起こったと言われています。この12部族連合の長に立つものがイスラエルの王です。ですから、イエスが新しいイスラエルの王ならば、当然その王のもとに集まる指導者たちは12人であるはずだという物語は必要とされたのですね。それで12人になったというわけです。
 12人の名前のリストも、マルコ、マタイ、ルカの3つの共観福音書を比べてみると、マタイとルカは、マルコを参照しているはずなのに、ルカはメンバーを入れ替えています。
 最初に書かれたマルコは、12人のリストの後半にアルファイの子ヤコブとタダイという兄弟が入っていまして(マルコ3:18)、マタイもこれを踏襲していますけれども(マタイ10:3)、ルカはあえてこのタダイというのを削除して、ヤコブの子ユダというのを持ってきています(ルカ6:16)。
 それから、福音書よりも先に書かれたパウロのコリントの信徒への手紙ですが、その第1の手紙の15章にこういうくだりがあるのですね。
「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(1コリント15:3-5)。ここですね。
 おかしいと思いませんか? ケファというのはシモン・ペトロのことです。
「シモンに現れて、それから12人に現れた」というのはシモン1人の時に現れて、それから今度は12人揃っている時に現れたという読み方と、そうではなく、シモンが12人の内に入ってなかったようにも読めるんですね。
 さらにその手紙を読み進んでゆくと、次に500人の前に同時に現れて、それからヤコブ(これはイエスの弟とされているヤコブ、「主の兄弟ヤコブ」というのが教会に入ってきています)に現れ、
「その後、すべての使徒に現れ」(1コリント15:7)と書いてあります。
 これも不思議ですよね。普通我々は12人の弟子のことを「使徒」と読んでいるわけです。しかしパウロは違うんですね。コリントの信徒への手紙においては「使徒」と「12弟子」は別なんです。
 そういうわけで12人の正体というのは意外と聖書の中では混乱しています。
 ぼくは実際に存在してた確率が高いのは、シモン・ペトロと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、この3人だと思います。あるいはシモンの弟アンデレも実在していたかも知れません。とにかく福音書の中で、特に最初の福音書であるマルコの中で、ちゃんと物語の登場人物としてリアルに描かれているのはこの4人だけ。そして山の上でイエスの姿が変わる時や(マルコ9:6)、イエスが受難のために逮捕される直前、ゲツセマネの園で祈る際に(マルコ14:33)、連れて行ったのもペトロとヤコブとヨハネの3人です。
 ですから、基本的にこの「ビッグ3」と呼ばれる3人がイエスの側近であったのは間違いないのではないかと。そして、他の男性の弟子たちはこの3人の下にいたんではないかと、ぼくは考えています。

弟子の条件

 でも、弟子が12人であるというのが事実であろうとなかろうと、この12人のキャラ設定というもの自体には、あるメッセージ性があることが読み取れます。
 たとえば先ほども申し上げましたように、漁師という被差別階級の人たちで、12人のうちの4人(3分の1)がこの人から蔑まれるカーストの出身です。
 フィリポ、バルトロマイ、そしてアルファイの子ヤコブと(マルコによれば、その兄弟である)タダイというのは、よく素性がわかりません。
 ただ、ヨハネによる福音書ではトマスという弟子のニックネームが「ディディモ」であると記されています(ヨハネ11:16)。これを有力な証言として採用するなら、「ディディモ」というのは「双子」という意味です。
 「双子のトマス」。しかし、彼のもう1人の兄弟はどこにいるのでしょうか? 実は、12人のうち実に半数の6人が、兄弟でイエスに弟子入りしていますね。シモンとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、アルファイの子ヤコブとタダイ。なのに、なぜトマスは「双子のトマス」と呼ばれながら、たった1人なのでしょうか。
 もちろんたまたま兄弟のうちの1人がイエスについて行っただけ、と見る事もできるのですが、実は双子というのは古代の社会では非常に気味悪がられて、嫌われたのですね。2人、あるいは3人が同じような顔をして産まれてくるというのが気持ち悪くて、何か悪いことが起こる不吉な前兆であるという風に言われて、双子の片方の弱く見える子が殺されたり、里子に出されたりということがなされていたようです。
 そういう事を鑑みると、このトマスという人物の素性も暗い設定であると思われます。彼が双子であることが周囲にも知られているのに、一人でいるのは、彼のもう片方の兄弟がどうなっているのか、悪い想像しか働かないわけですし、双子で片割れであることが知られているということは、彼も幼い頃からいじめられて育った可能性があります。
 続いて徴税人マタイ。徴税人というのは、当時ユダヤ人社会を属州として支配していたローマ帝国に収める税金を集める仕事をするユダヤ人のことです。ローマ人は自分たちで直接税を徴収するのではなく、その税を集める役割をユダヤ人自身にやらせたのですね。
 そのやり方もえげつなくて、この徴税人に例えばある村の人口は何人だから幾ら払え、とローマ人は徴税人に前払いで税金を召し上げます。そして徴税人は同胞であるユダヤ人からいくら取ってもよいのです。取れば取るだけ自分の利益が膨らみます。それで、非常に恣意的にと言いますか、ほとんど強奪のようなやり方、中高生で言うと「カツアゲ」ですか、そういう強引な方法でお金を取り上げるものですから、ユダヤ人同胞から大変嫌われ、異邦人の犬だ、民族の敵だと忌み嫌われるようになりました。そういう人間がイエスの弟子になったというわけです。
 そして、熱心党のシモン。熱心党というのはテロリストの組織の名前であると言われています。先ほど申し上げたローマ帝国の支配を打倒して、ユダヤ人国家の独立の為に戦う闘士ですね。ガリラヤ地方というのは、実はこのような反ローマの抵抗運動の根拠地でもあったそうです。
 しかし、テログループのメンバーというのは、民族的には気持ちの上では応援していても、実際に関わりを持つ事ははばかられる人たちです。もし反ローマの抵抗運動組織と関わっているという噂でも立てられたら、即座にローマ軍の取り調べを受けて、それこそ政治犯として十字架につけられる可能性もあったでしょう。ですから熱心党のシモンも、その存在自体を隠し通して生きてきたような、言わば「いないはずの人間」です。
 こうして見ますと、イエスの弟子としてリストアップされた人びとのキャラ設定でわかっているだけでも、相当くせ者の集団であるという事がお分かりいただけると思います。
 わかっているだけでも、人から蔑まれ、忌み嫌われる仕事、不吉な存在として避けられるような人、関わり合いになることを避けられるような人、12人であるなしはともかくとして、そういう人たちがイエスの周りに集まったのだよということが、この弟子のリストを見ればわかるのですね。

「あなた」と「わたし」

 このような、世の中の隅っこに追いやられたり、人から近づく事さえも嫌がられたり、存在そのものを無視されているような人たち、生きようが死のうが誰も顧みないような、そんな人たちをイエスはどうやって弟子にしていったのか?
 それは、彼らを「まっすぐに見る」ということによってでした。
 「あなた」という人間をまっすぐに見たい。「あなた」という人間に興味があるんだ。一緒に旅をしないか。新しい人生を歩まないか。新しい可能性に旅立ってみないか。そうイエスはたたみかけたのですね。
 イエスに「まっすぐに見られる」ことで、彼らは、「わたし」という人間がここに生きているということのかけがえの無さに気づかされたと思います。この「わたし」という人間に、イエスが「まっすぐに」眼差しを向けてくれたから、「わたし」という人間がここに命を神さまから与えられ、生きているということが、実はとても大切なことで素晴らしいことに気づかされたのではないでしょうか。
 そして、イエスは他の人にも同じことを伝えに行こうじゃないかと誘ってくれたわけです。イエスが彼らを「まっすぐに見た」ことによって、彼らは自分の命と一度きりの生涯の尊さに気づかされたから、今度は他の人にもそれを伝えに行こう。わたしたちも出会う全ての人を「まっすぐに見る」ことで、その事に目覚めさせよう。それが「人間をとる漁師になる」ということなのでしょう。
 ですから、私たちもお互いにお互いのことを「まっすぐに見て」、その人の生きている命そのものを愛でるように、たたえ合うように、生かし合いたいものだと思うのです。
ということで説き明かしは以上とさせていただきます。あとは皆さんの思いを分かち合いましょう。


 このメッセージは、2012年7月10日(水)、同志社香里中学校で行われたロング礼拝の奨励「まっすぐに見てる?」(鈴木ゴリ宣仁さん)に着想を得たものです。鈴木ゴリ宣仁さん、どうもありがとうございました。




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