重荷を下ろそう

2012年8月26日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

説き明かし:約25分間(録画・録音はありません)

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聖書:マタイ福音書11章28-30節 (新共同訳・新約p.21)

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。



自殺者9万人

 おはようございます。今日も聖書の言葉の説き明かしをさせていただいて、その後、皆さんと共に分かち合いをしたいと思います、どうぞよろしくお願い致します。
 さて、日本では年間の自殺者が3万人を超えるという話を、ご存知の方もいらっしゃると思います。これは1つの国の国民における数字としてはずば抜けて高く、よくマスコミなどで話題にされます。
 あるジャーナリストの話では、紛争地帯でも年間3万人も死ぬということはあり得ないと言います。ということは、日本は実は紛争地帯よりもひどい、紛争が起こっているわけでもないのに、年間3万人が死ぬ戦場なんだということが言えるかも知れません。
 また、このような報道もありました。18歳以下の若者の死因の中で、病気や事故などではなく、自殺という理由が飛び抜けて高いのが日本だそうです。
 そして、もっとショッキングな話ですが、実は警察発表で自殺者はおよそ3万人と言われておりますが、これは「自殺である」と確定した数なのであって、実はその背後に12万人の変死体が見つかっているそうです。これをWHO(世界保健機構)は、半数が自殺であろうと推定しているといいます。もしその推定が当たっているとすれば、日本では年間9万人が自殺をしています。
 よく、自殺者は交通事故による死者より多いと言われますが、交通事故死者は、今は年間5000人を下回っています。酒酔い運転に対する罰則の強化を始めとして、取り締まりの強化の効果が出ていると言えるのかも知れません。
 しかし、自殺というのは取り締まって禁止できるようなものではありません。人間がただ絶望するということだけではなく、自ら自分の命を断つというのは、並大抵のエネルギーでできることではないと思います。死ぬという事を実行するほどまでに絶望が深く、また激しい感情が働いて死んだのだと思われます。
 年間9万人の人に「死んでしまおう!」「死のう!」と決断をさせるまでに、日本という社会には、重荷を背負った人が多いのか、また重荷を背負わせてしまうような社会なのか、それを思うと暗澹たる思いにかられます。

頑張れ

 全ての日本人に会って確かめたわけではありませんが、自分が今まで日本で生きていて、もちろん地域差はあるでしょうけれども、日本には「相手の重荷を軽くしてあげよう」という気持ちを持っている人が非常に少ないんじゃないかなと思う事が多くあります。
 そのひとつの証拠に、日本人は「頑張ってください」「頑張ろう」という言葉が好きですね。人と話をしていて、話し終わると「じゃあ、頑張って」と言って別れるというような場面が多々あります。
 確かに、「『頑張れ』という言葉はやめた方がいい」……という事も一部では盛んに言われるようになってきました。これは私の感覚では、阪神淡路大震災の直後くらいからよく聞くようになったような気がします。
 震災後、家がつぶれるとか、焼ける、あるいは人が怪我をするといった物理的な被害の他に、もっと長引く影響として心の被害:PTSD(心的外傷後ストレス障がい)も相当に深刻なのだということが言われて、その時に「頑張ろう」とか「頑張れ」という言葉は、PTSDを抱えた人にはかなり辛いので、やめた方がいいという話が広まりました。
 その後、「人はどんなトラウマを抱えているか分からないから、どんな時でも人に『頑張れ』とは言わない方がいい」といった極端な反応なども含めて話題にはなりましたが、あまりその後国民の間できめ細かい議論が深まったわけではないようで、昨年起こった東日本大震災の後も、ずいぶんあちこちで「頑張ろう日本」とか「負けるな東北」といったスローガンがよく見られました。
 学校で働いていて、同僚の教師たちが子どもたちに何を求めているか観察していても、基本的にはまず「頑張れ」ということだと分かります。
 勉強を頑張れ。クラブも頑張れ。頑張れば成績が上がる。頑張れば試合に勝てるし、コンクールでも入賞できる。担任の先生との三者面談でも「頑張れ」。頑張る人はいい人で、頑張らない人はダメな人。あるいは、頑張「れ」ない人は許されるけど、頑張「ら」ない人は許されない。
 あるいは、根性を鍛えるという名目で、わざと遠回りをさせたり、わざと長時間待たせたり、わざと答をはぐらかしたり、理不尽な要求を突きつけて困らせたり、「しんどい思いをさせることが教育だ」と思っているのではないかと思われるほど、意味もなく子どもに負荷をかけている教師もたくさんいます。
 理不尽な世の中を、もう少し生きやすい世の中にしてゆくために、新しい考えの若い人たちを送り出す、というのではなくて、世の中は理不尽なんだから、理不尽さに適応しろと言っているわけです。
 何か、日本では楽をすること、しんどいことを回避することが悪いことだというような風潮があるんですね。そして、しんどい事をしている人が偉いんだみたいな雰囲気。楽しみながら仕事をしてはいけないみたいな。だから、「同じことをするなら、できるだけ楽にしませんか」という事が言いにくいのですね。
 でも、結果としては、まあそれだけが原因とは言えないかもしれませんが、青少年の自殺率はダントツだし、全ての世代での自殺者数もダントツという結果があるわけです。

重荷を負わせない

 聖書に照らしてこの事を考えますと、聖書というのは、あまり「しんどい事はいい事だ」とか言ってはいないなという印象をぼくは持っています。
 聖書の一番最初、アダムとエバの物語で、神との約束を破ってしまったアダムとエバ。エバには苦しみを経ないと出産できないようになるという罰が与えられ、アダムには苦労しないと食べ物を得る事ができないという罰が与えられたと言います。
 つまり、人間が生きる上で味わう苦労というのは、神からの罰なのであり、その原因は人間が神から離れた罪のためなんだ、という発想ですね。ということは、人間は本来神のもとで神の御心と共に歩んでいる状態では、苦労しなくてもいいはずだという発想があるわけです。
 そういう形で、人間が苦労せずには生きられないということを受け容れつつ、しかし苦労することに積極的な価値があるわけではないということも確認しているわけですね。
 この姿勢は聖書の中では旧約聖書、つまりユダヤ教においては割と一貫しておりまして、旧約聖書の中で「重荷」「労苦」といった言葉を検索してゆきますと、だいたいネガティブな捉え方になっていますね。不当に課せられた義務であるとか、税金とか、強制労働とか、あるいは人生の苦労など、あまり嬉しくないもの、という扱いなんですね。
 そして逆に「重荷をおろす」とか、「重荷を負わせない」という言葉が、人に対する人や神の愛や優しさ、また配慮の表現になっています。

休ませてあげよう

 新約聖書を見てみると、イエスも基本的にはこのユダヤ教/ユダヤ人の伝統を受け継いでいて、例えば、マタイによる福音書では
「重荷を負っている人は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言っていますね。
 それから別の場面では、地位の高い宗教指導者たちを批判して、
「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23:4、ルカ11:46)とも言っています。
 イエスも基本的には、「重荷というのは下ろしていいんだよ。私の所に来て休みなさい」と言っているわけですよね。そして、人にわざわざ重荷を与えるような事はしなさんなよ、とも言っているわけです。
 自分の荷物も下ろしていいし、人の荷物も楽にしてあげなさいということですね。
 それからルカの作品である使徒言行録(使徒行伝)によれば、初代教会の使徒たちが、他の宗教から改宗してきた人たちに、「聖霊とわたしたちもあなたがたに重荷を負わせないことにした」(使徒15:28)と言う場面があります。この場合は、改宗者にユダヤ人と同じような戒律を守らせるかどうかという事が話の主題で、そこで「重荷を負わせないよ」と宣言したわけです。やはりここでも「重荷」という言葉は、人が本来負わなくてもいいような苦労の意味で使われています。
 イエスや使徒の言葉以外にも、たとえば
ヘブライ人への手紙(12:1)では「全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」という言葉が使われていますし、ヨハネの黙示録(2:24)でも「あなたがたに別の重荷を負わせない」という神の啓示された言葉が語られています。
 ということで、「重荷を負わせる」というのは、大体良くない意味で使っているのが聖書の中でも主流だということは言えます。

重荷を負えと言う男

 ただ、何事にも例外があるというのは聖書においても言えまして、聖書の中で唯一「重荷を負いなさい」と言っている人物がいます。
 それはパウロです。彼はガラテヤの信徒への手紙で、「共に重荷を負いなさい」(ガラテヤ6:2)と言ってみたり、「めいめいが自分の重荷を担うべきです」(同6:5)と言ったりしています。
 イエスは「自分の十字架を背負いなさい」とは言いましたが、「重荷を負いなさい」とは言わず、「重荷を下ろしなさい」と言いました。
 パウロは「自分の重荷を担い、またそれを共に負いなさい」と言います。なぜこのような違いが出てくるのでしょうか?
 イエスとパウロの大きな違いとして、ひとつ考えられるのは、まずイエスは教会を作ろうとはしなかったけれども、パウロは教会の形成に非常に熱心だったことです。
 イエスはキリスト教会という新しい宗教組織を作ろうとはしていません。イエスは当時の、豊かな者が貧しい者から搾取して苦しめ続ける格差の構造や、人が病気にかかるのは病気にかかった人の罪によるものとして病苦を抱えた人を虐げたり、排除したりする風潮、また旧約聖書に書いてある律法を、どうしても職業上あるいは経済上、文字通りには守れない階層がある人たちを「罪人」と呼んで蔑む差別……そういったものの根底に、当時の自分たちの宗教のあり方が大きく関わっている事を感じ取って、それを痛烈に批判しました。
 そして、その宗教によって「罪人だ」「穢れている」と言われ、裁き捨てられている人たちに、「あなたは赦される」「清くなれ」と宣言し、病人を癒して回り、「重荷を下ろしなさい」と説いて回って、抑えつけられた人間性を宗教から解放する、あるいは失われてしまった人間性を回復するということをして回りました。
 ですからイエスの活動は、「人間を解放する」すなわち「解き放つ」という方向性を持っています。
 これに対してパウロの活動は、「教会を形成する」という事に関心が移っています。もう既にイエス・キリストによってわたしたちは解放されたのだから、次は他の人を解放しに行こう。あるいは他の人の人間性を回復しに行こう。その為には、教会を形成して、いろいろ担わなくてはいけない役割もある。それは、人によってはともすれば重荷になることもあるかもしれない。しかし、私たちはお互いに自分の重荷は自分で担おうじゃないか、と呼びかけているわけですね。
 あるいは、イエスの言っている重荷とパウロの言っている重荷は意味が違うのだとも言えるかも知れません。イエスの言っている重荷とは、人間を抑圧する重荷です。しかし、パウロの言っている重荷とは、人間を解放し、生かすために働くという意味での重荷です。
 ただ、聖書の中で積極的に重荷を担うべきだと言っているのはパウロだけですから、パウロのこの言葉の使い方はちょっと苦しいかなという気はします。イエス自身は「私の荷は軽いからである」(マタイ11:30)と言っていますからね。イエスの場合、担うべきなのは「重荷」ではなく「軽い荷」ですから、イエスの方が魅力的だなと私は思います。

重荷を増す教会、減らす教会

 さて、現在の日本の教会は、重荷を下ろしてほっと一息できるような場所になっているでしょうか。それとも、人に重荷を増し加えているのでしょうか。
 私はこうして教会でお話ししたり、学校で教えたりする以外に、インターネットでも教会仕立てのホームページを開いていますが、そこには毎日とは言いませんが、平均して3日か4日に1回は新しい問い合わせのメールが来ます。今年はもう既に60人ほどの方からメールをいただきました。
 メールをくださった方のほとんどは、教会では切り捨てられたけれども、神さまをあきらめる気持ちになりきれなくて、ネットを通じてぼくのサイトを見つけた方々です。
 ある人は、「あなたは同性愛者だから治るように祈ってあげよう」と言われたとか、またある人は「亡くなったあなたのご主人は洗礼を受けておられなかったから、その魂はどこにおられるかわかりません」とか、またある人は、病気が治るように祈ってくださいとお願いしたら、「キリスト教はご利益宗教ではありませんよ」と断られたとか、「堕胎するかどうか悩んでいるけれども、教会で相談したら絶対に叱られるから、相談できない」と一人で悩んでいるとか……教会の人間が正しいと思い込んでいること、あるいは教会の人間が善い事だと思っていることが、多くの人たちを切り捨て、その人たちが抱えている重荷を更に重くするような結果になっていることを、多くのキリスト者が知らないのだなと思います。
 多くのキリスト者が自分では善かれと思いながら、実際にはイエスがズバリと批判しているとおり、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23:4、ルカ11:46)という、まさにそれをやっているのですね。ですから、もしイエスが、今日の日本のキリスト教会の多くを見たら、きっと「こんなものを私は望んでいない」と首を振ったでしょう。
 イエスは教会を作りませんでしたし、教会を作れと命じた事もありませんでした。ただ、残された人びとがイエスのことを伝えたくて教会を作っただけです。
教会が自己目的化し、人の重荷を増やすようなことをやっていては、イエスの心を踏みにじることにもなりかねません。教会は来た人が楽になれるような場所でありたいものです。そして、そのために誰かに偏った重荷を担わせることもあってはなりません。
 互いに重荷を下ろし、必要ならば「軽い荷」を共に協力して担うような、そのような教会でありたいと思うものです。
 説き明かしは以上です。あとはみなさんの思いをお聞かせください。




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