自分は救えない

2012年9月23日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

説き明かし:約20分間+分かち合い:約34分間=合計:約54分間
礼拝全体のライブ配信時の録画もあります(1時間28分)

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聖書:マルコによる福音書15章29-32節 (新共同訳・新約)

 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。





説き明かし「自分は救えない」(20分間)+分かち合い(34分間)=54分間


自分は救えない

 今日読んだ聖書の箇所は、イエスが十字架にかけられて命を落とす直前、群衆がイエスに「他人を助けたのに、自分は救えない」と言って嘲った場面です。
 イエスは多くの人の病を癒し、悪霊を追い出し、穢れた者に「清くなれ」と告げ、罪の赦しを宣言して回りました。そうして多くの人を救いました。しかし、「自分は救えないじゃないか」と罵られているのであります。
 福音書の記者たちは、4人とも、イエスが不思議な超自然的な力を使って、癒しを行ったり、自然現象を操ったりしている場面を幾つも描いています。それなのに、なぜここでイエスは、手出しもせず、抵抗もせず、無惨に殺されていっているのでしょうか?
 もちろん、そこには、人間の罪を贖うために、人間の身代わりとして罰を受けるために十字架にかかった。それが神の御心であり、イエスの目的であったと説明する人はいるでしょう。しかし、それはそれとして、なぜ福音書記者マルコはここにこのような群衆の台詞を入れたのか。なぜわざわざ強調して、「自分は救えない」というイエスの情けない姿を知らせようとしているのでしょうか?
 それは、イエスが紛れもなく人間であることの証であると、私には考えられます。この聖書の箇所は、「イエスは神の子であるはずなのに、なぜ?」と落胆すべき場面ではありません。
 この聖書の箇所は、人間としての弱さ、哀しさを、イエスがいつも共にしてくれている事のしるしであります。

他者の存在の大切さ

 私は体の癒しと心の癒しの両面を、ある人たちにしてもらっています。つまりまあ、お世話になっているわけです。
 体の癒しは、とある整骨院にお世話になっています。ここの柔道整復師さんは、東洋的な施術をする人で、身体を触れたり押したりしながら私の反応を見て、痛いところとは全く別の場所にある経絡(ツボ)を揉んだり、疲労物質を絞り出したりしてくれます。
 そのマッサージは大抵激痛を伴い、私は毎回大声を上げて「助けて〜っ!」と泣き叫ぶのですが、術後は確かにかなり身体が軽くなっています。
 何度か、ここまで腰痛がひどくなる前に自分でできることは無いだろうか、と質問してみた事があります。
 それを教えたら、整骨院に来なくなるんじゃないかと考えて、その先生が言ったかどうかはわかりませんが、「ここまで触っただけで痛くてたまらないようになってしまったら、自分1人ではどうしようもないでしょうね」と、言われてしまいました。
 自分で自分の身体の痛みを取り除く事は、どうやらできないようです。ぼくはこの人のお世話になるしかありません。
 では、私の心の癒しはどうなっているでしょうか。
 私には2人の特別な友人がいます。
 その人には何を言っても構わないし、その人は何を聞いても絶対に秘密を守ってくれるし、何を聞いても絶対に非難したり裁いたりしません。どんな状態でもありのままに受け入れてくれます。
 ありのままの自分を自分で「良し」とするのは、なかなか難しいものです。1人で考えていると、どうしても罪責感や後ろめたさといったものにとらわれがちな人間なので、どんどん自分を責める方向に考えが向かいがちです。しかし、自分以外の信頼できる人に「大丈夫!」と言ってもらうと非常に助かります。
 自分一人で考えていても、良い方向に向かわない事が多いのですが、誰かがそばで話を聞いてくれているだけで、話しているうちに自分の中でも整理がついてきて、話し終わっている時には、自分の中で結論がでている場合があります。
 このような時も、やはり人は一人でいるよりも、誰かといた方がよいのだなと思わされます。
 「人が独りでいるのは良くない」創世記2章18節にあり、また「ひとりよりもふたりが良い」コヘレトの言葉(伝道の書)4章9節に書かれているのも、経験的な人間の知恵から来るものだと思います。人は孤独でいたままでは、癒され、救われるのは非常に難しいのですね。

群衆の真の姿

 自分のようにうつ病の人間は、薬が効いて調子のいいときはいいけれど、時々症状が重くなって、うつ状態に落ち込んだ時に、「周りの職場の同僚たちは自分よりももっとハードな仕事を苦労しながらもこなしているのに、自分は休憩ばかりしていたり、あるいは欠勤したりする。こんな自分は同僚たちにどう思われているだろうか」とよく悩んでしまいます。
 しかし、そんな時に、「大丈夫! 他の人はどんなに他人のことをいちいち観察してないよ。そんな所まで見てないって!」と誰かが言ってくれると気持ちが楽になります。
実は、自分が元気な時には、他の人が同じような悩みを抱えている時に、「大丈夫! 他の人の目なんか気にする必要ないよ。そこまで見てる人はいないって!」と言ってあげているんですね。
 ですから自分でもわかっているはずなんですが、いざ自分がしんどい時には、自分に言い聞かせても何故かうまくいかない。やっぱり誰かに言ってもらいたいわけです。
癒し、癒される相手としての他者の存在というのは、たいへん大きな意義を持つものだと感じさせられてしまいます。
 ある知人の話では、「自分で自分を救うというのは、自分の襟をもって自分を引き上げようとするようなもので、決してうまくいかない」と言います。確かに、自分を引き上げるためには、人の手を掴んだり、あるいは岩や木の根を掴んで頼りにしないと、体が持ち上がらない。人間単体でできることというのは限られていいます。
 ですから、「他人は救ったのに、自分は救えないじゃないか!」といって人びとはイエスを嘲ったけれども、実は「自分は救えない」というのは多くの人に当てはまる事で、実はあまり珍しいことではありませんし、そんな事をわざわざ嘲りの対象にすること自体、恥ずかしいことではないのかと思うわけです。
 「自分は救えないじゃないか」と言っている群衆のほとんどの人も、やっぱり「自分は救えない」人たちのはずです。
 「自分は救えない」というのは、言っているその人自身の姿でもある。そこに私たちは気づいているでしょうか。

できなくて当たり前

 私が勤めている学校で、よくボランティア活動に生徒さんを勧誘すると、その日はやる気になって帰るのに、翌日には「親に『自分のことも満足にできないのに、人のお世話なんかあんたにできるわけない』と言われました」と言って、断りに来る子がいたりします。
 子どものやる気を削いでいる親御さんの言葉にも残念ですが、それと同時に「まず自分のことができてから」と言うけれども、「自分の事を十分にできる人」なんてどれくらいいるだろうか? と思ってしまいます。
 医者でも散髪屋や美容師でも、人が自分の目や手では届かない所をお世話するのが仕事です。カウンセラーだって牧師だって、人の話を聴くだけではなくて、自分の話を別のカウンセラー(スーパーバイザー)に聴いてもらったり、相談に乗ってもらったりする事が絶対に必要です。
 カトリックには、司祭を養成する上で、「聴罪司祭」というスーパーバイザーが設けられるそうですね。司祭自身の犯す罪を告白し、神に赦しを取り次いでもらうための指導者です。こういう事が制度として確立されているというのは大変良いことではないかと思います。
 こういう事を考えてゆくと、実は「自分のことも満足にできないのに」というのは当たり前のことで、元々人間というのは自分のことは満足にできないものだから、人にしてもらうのだし、同じように人には、その人が自分でできないことを何かしてさしあげることができるからこそ、それが職業として成り立つわけです。
 だから、「人にしてもらいたいと思う事は、あなたが人にしなさい」と言う聖書の言葉があるが、あれは本当に正しいんですね。
 人は自分では自分のことを満足にできない存在なのだから、お互いに自分がして欲しい事、あるいはしてくれて嬉しかった事をし合えばいいのです。

徹頭徹尾、人間らしく

 イエスは「自分は救えない」となじられています。しかし、だからこそ実はイエスもまさに正真正銘の人間であった、イエスも人の子であった、という現実が迫って来ると言えます。
 イエスは最期の最期まで、徹頭徹尾人間らしい人間として生ききった、そして人間としての弱さのままで死んだのだということです。
 このことに感謝をしたいと思います。
 もしイエスが普通の人間ではなく、本当に不思議な力を使って、十字架から生きて無傷で戻ってきても、私は特にすごいとも思わないし、感謝したいとも思いません。そんなものは、我々人間の現実とはかけ離れた、絵空事のファンタジーに過ぎません。
 しかし、イエスは徹底的に人間の弱さの中で生き、人間として最もむごたらしい苦痛を味わって死んでくださいました。その苦しみの故に、私たちも「イエスなら私が今味わっている苦しみをわかってくれる」、「イエスなら私が苦しい時にこそ、私の気持ちがわかってくれる」と思えるのではないでしょうか。
 そして、「自分で自分を救うことは元々できない」のですから、お互い自分以外の人間の存在を大切にしようと思うことができるのではないでしょうか。
 「自分は救えない」ということは、少しも恥ずかしいことではありません。人間は皆、自分のことは満足にできなくても、他者のためにできることはあり、それで世の中成り立っているということを、希望をもって確認したいと思います。
 それは、ただ言葉をかけるだけでもいい。ただ祈るだけでもいい。イエスは「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」(マタイ6:6)、祈れと言っています。奥まった部屋で誰にも知られずに、たった1人神さましか知らないような祈りを、誰かにために捧げるのであってもいいわけです。それも人のためにできる立派な奉仕です。
 人間は往々にして自分は救えません。けれども、「人間って、そんなもんだよ」とこの聖書の箇所から教えられるような気がする。皆様においてはいかがお考えになられるでしょうか?




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