古代人の癒し

2012年10月14日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

説き明かし:約26分間+分かち合い:約30分間=合計:約56分間
礼拝全体のライブ配信時の録画もあります(1時間22分)

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る



聖書:マルコによる福音書1章40-45節 (新共同訳・新約)

 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。





説き明かし「古代人の癒し」(26分間)+分かち合い(30分間)=56分間

古代人の病気観
 おはようございます。今日も聖書を読み、説き明かしをさせていただいて、その後、みなさんと分かち合いの時を持ちたいと思います。
 今日のテクストは、イエスの癒し物語の中でも典型的な様式を持った物語なので、取り上げてみました。
 まずここで「重い皮膚病」という言葉が出てきますが、これはあまり適切な訳とは言えません。その事は日本聖書協会も認めているそうで、暫定的な訳であると言われています。現在、新しい日本語訳の聖書を作る準備がなされていまして、そこでどうなるかは、まだ私には分かりません。
 なぜ適切ではないかと言うと、この部分に使われている単語は、必ずしも人間の皮膚病のことだけを指している言葉ではないからです。
 今から2000年近くも前のユダヤ人の話なので、今の我々が考えるような病気や医学の観念とは全く違う物事の捉え方をします。
 ここで「重い皮膚病」と呼ばれている病気は、旧約聖書ではレビ記の13章から14章にかけて「穢れた」(けがれた)病気として指定されています。
 当時、病気というのは、悪霊がとりつくか、本人が神さまから離れた結果、穢れてしまうか、神さまに罰を与えられるか、ということが原因であると考えられていたんですね。
 当時は我々現代人が考えるような意味での医学というものがありませんでしたし、そもそも病気のもとになる病原菌とかウィルスといった、目には見えないような微生物やカビの胞子といったものがあるとは思いもよらなかったんです。
 ですから、病気にかかると、たとえば内科系の病気で自覚症状があれば、その自覚症状の実感から、何らかの悪い霊か穢れた霊が入ってきたんだろうと考えたり、皮膚になにか正体不明のできものができると、それは穢れたせいだと考えたわけです。
 そういうわけで、例えば、ある種の皮膚の異変が現れると、まず人は祭司のところに行ってその症状を見せると、祭司は「確かにおまえは穢れている」と言い渡します。穢れた患者は町や村から排除されないといけません。そこで追い出されて、人の来ない森の中や洞窟の中などで雨露をしのぎ、時々町に物乞いにやってきます。
 治療しようという発想が無いんですね。それは本人の罪の結果であったり罰であったりするので、それを治そうなどというのは、神への反逆なわけです。ですから穢れてしまった者は、他の人にその穢れがうつらないように社会から追放するだけです。
 でも、病気が自然に治る場合もあります。そうすると、またこの元患者は祭司のところに行って、自分の体を見せます。そして、治っていれば、「おまえは浄められた」、「おまえの罪は赦された」と判定し、浄めの儀式を行なった上で、再び社会に戻るわけです。

ツァラアト
 ここで穢れの結果起こる皮膚病とされているものについて、旧約聖書の原語であるヘブライ語では「ツァラアト」という言葉が使われています。この「ツァラアト」という単語が、新共同訳では「重い皮膚病」として訳されているわけです。
 ところが、ここがまた古代人の感覚なんですが、この「ツァラアト」というのは、実は人間の皮膚にできるものとは限らないんですね。
 人間の皮膚だけではなく、たとえば人が使っている革袋の表面とか、家の壁などの表面に生じた異変のことも「ツァラアト」と呼んでいるわけです。
 我々は皮膚病と革製品や家の壁にできる異変とは全く別のものだと知っています。でも、古代人は人間の皮膚に起きる異変も、革製品や壁にできる異変も同じ「穢れ」から来ていると考えていたわけです。そういう「穢れた」状態そのものを「ツァラアト」と呼んでいたわけです。
 そうなると、「ツァラアト」を「皮膚病」と訳すのがベストなのかという問題が生じます。皮膚病じゃないものまで含めて「ツァラアト」と言っているわけですから、それを「皮膚病」と訳していいのか、ということですね。

レプロス
 さらにこの問題をややこしくしているのが、新約聖書のギリシア語です。新約聖書はギリシア語で書かれています。
 今日読んだ聖書の箇所で「重い皮膚病」と表現されていた皮膚の異変は、レビ記における「ツァラアト」であることは間違いありません。
 しかし、新約聖書はギリシア語で書かれています。ヘブライ語の「ツァラアト」を、福音書の記者は「レプロス」というギリシア語で表現しました。今日の聖書の箇所の「思い皮膚病」も「レプロス」です。
 しかし、これは英語の「レプロシー(leprosy)」という単語の語源になっている言葉で、現在のハンセン病の事を指します。もともと何の症状の事を表しているのか分からない「ツァラアト」だったのを、「ハンセン病」という意味に解釈して、そういうギリシア語に訳したわけです。
 それで、日本語の聖書は長い間、この言葉を「らい」あるいは「らい病」という言葉に訳してきました。実はぼくが持っている新共同訳聖書は改訂前のもので、この「らい病」という言葉が使われているんですね。
 でも、「らい病」というのは、差別用語です。日本ではハンセン病への対策は世界の動きと逆行していて、日本以外の国では特効薬も開発されて、通院でも短期で治せる病気とわかっていたんですが、日本では、日本中から「らい」の患者を無くせということで、各都道府県が「無らい県運動」というのを展開するくらい差別意識がキツかったんですね。

らい
 「らい予防法」という法律がありました、患者は人里離れた療養所に隔離されて死ぬまで出られない、そうやってらい患者を日本から絶滅させる、というのが国家、政府の方針でした。
 この病気の特効薬が開発されたのが1943年、絶滅政策を続けさせた「らい予防法」が廃止されたのが、1996年ですから、国際社会から50年以上も遅れていました。
そして、その50年の間、栄養面でも衛生面でも改善された日本では新しく患者がほとんど出なかったので、今、療養所におられる元患者さんたちは、平均年齢が80歳前後、家族と縁を切られ、一般社会から追放されたまま人生の大半を過ごして、歳をとってしまわれた方々です。
 「らい」という言葉は、そうやって本来は隔離しなくてもよいとわかってからも50年以上も隔離政策を続けて、あたかも治らない恐ろしい病気であるという観念を国民に植え付けたまま来てしまった国の犯罪を象徴する言葉なので、これを「ハンセン病」という呼び方に変えるよう元患者さんたちや支援者が働いて、今では「ハンセン病」という呼び方の方が普通になっています。
 それで、聖書からもこの「らい」という言葉を消してほしい、そもそもこれはハンセン病のことではない、という運動が起こり、新共同訳聖書の「らい病」と書かれていた部分が、全て「重い皮膚病」という言葉に改訂されました。
 でも、実際は我々現代人が言う意味での皮膚病をさしていた言葉ではないので、厳密には「重い皮膚病」と言うのはちょっと違う。それで現在作業が進められている新しい翻訳に期待がかかっているわけですね。
 ちなみに、福音派の教会でよく使われている「新改訳」という聖書では、ここは現代の日本語に当てはまる言葉が無いということで、「ツァラアト」というカタカナで書いてあります。

けがれ
 さて、聖書に戻りますが、ここで「ツァラアト」にかかった人がイエスのところに来て
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)と言いました。
 すると、イエスは
「よろしい。清くなれ」(41節)と言いました。ということは、イエス自身もこの患者さんが穢れていると思っていたということですね。このセリフでイエスも古代人であった、微生物もウィルスもアレルギーも知らなかった古代人であるということがわかります。
 するとツァラアトは去って、この人は清まりました。イエスは
「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」(44節)と言います。これはレビ記に定めてある通りです。祭司が浄いと認めれば、この人は社会復帰し、家族のもとに帰ることができます。
 ところがこの元患者さんは、イエスに「誰にも言うな」と言われていたのに、喜びのあまり
「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(45節)といいます。
ここで「言い広める」と訳されているのが、「ケリュッソー」というギリシャ語で、後々キリスト教会で頻繁に使われて、「宣教する」という日本語に訳されるようになる言葉です(名詞「宣教」はケリュグマ)。
 つまり、宣教というのは、イエスに救われた人がその喜びを他の人に伝える、というのが基本だという事ですね。宣教においては、別にわざわざ「あなたは罪深いのですよ。悔い改めなさい」と人を貶める必要はなくて、解放されて自由になった人が、その喜びを人に伝えるということでいいんですね。

手で触れ、深く憐れむ
 再び41節に戻りますが、イエスは
「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」たと書いてあります。
 この「深く憐れむ」という言葉は、よく福音書に出てきます。元のギリシア語を直訳すると「腸(はらわた)が千切れる」という言葉になります。不思議な偶然ですが、ちょうど日本語で言う「断腸の思い」と同じ意味になります。この言葉は、例えばイエスが自分のところに集まってきた群衆を見て、
「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコ6:34)とか、あるいは「善いサマリア人のたとえ話」のところで、追いはぎに襲われて半殺しにされた被害者を見たサマリア人が、「その人を見て憐れに思い」(ルカ10:33)という所に使われています。
 というわけで、イエスはこの患者さんの姿を見て、断腸の思いにかられたわけですね。それで手を触れる。
 この手を触れるという行為に及んだだけでも、イエスという人は当時の社会において革命的なことをやってしまっているんですね。
 「穢れ」というのはうつると思われていましたし、だからこそ街から排除されていましたし、それを癒そうとするのは神への冒涜です。それをイエスはやってしまったのですね。それは、穢れがうつることなど全く恐れていない。既に穢れの力に勝ってしまっているかのような態度です。また、神をも恐れぬ大胆な行為です。みんな、「うわっ!」とびっくりして目を覆いたくなったのではないかと思います。
 この「ツァラアト」の人も、驚いたでしょう。誰からも忌み嫌われ、社会から追放され、治る見込も無い、もう生きている間、人と話す事も、人の愛情を受けることも無い。そんな人間には絶望しか無いです。しかし、イエスはその人を見て、断腸の思いにかられ、手を触れた。誰からも見放され、誰からも嫌われた人間に、イエスが触れてくれたわけです。
 「黙っておけ」と言われても、黙ってはいられないのは当然だっただろうと思います。

2つの運命
 さて、この癒しの結果、イエスは街から追放されてしまいました。
 
「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」(45節)と書いてあります。
 これを読むと、このイエスの癒しの行為で、世間の評価がはっきりと2つに分かれたことがわかります。
 つまり、イエスが穢れた病人に触ったので、イエスに穢れがうつっているんだと考えて、イエスを恐れた人びと。あるいはイエスの行為は神が与えた罰を勝手に赦してしまうようなことだから、あいつは神をも恐れない冒涜者だ、ということでイエスに対して怒りと敵意を燃やした人びと。こういう人びとが「イエスを十字架にかけろ!」と叫ぶ群衆になってゆくんですね。
 しかしその一方で、イエスに赦しと癒しを与えられて、この人は神のような愛情を持つ人だ、神から遣わされた人だ」と信じ、この人に触れてもらって治してほしい、赦してほしい、浄めてほしい。そういってイエスを求めた人たち。こういう人たちが、後々、ユダヤ教の中の
「ナザレ派の分派」(使徒24:5)と呼ばれる動きにつながり、キリスト教の始まりの一つの流れになってゆくわけです。
 このようにイエスに触れていただくこと。イエスに愛され、癒されること。そして、それを他の人たちに言い広めること。その事によって、イエス自身に対する世間の評価が二分したわけですが、これはイエス自身だけではなく、イエスのことを人に言い広める人自身の運命でもあるわけです。
 もちろん今の日本で、キリスト者のことを面と向かって非難したり、迫害したりするような人はいません。しかし、キリスト教というのは、どこか異質な集団で、「何かが違う」、「外国の宗教だし」という感覚を持って見られているようです。
 今日のこの物語は、別段私たちに、自分とイエスとの関係を「人に言い広めなさい」と強制するものではありません。ただ、言い広めた場合に、世間の評価ははっきりと二分するでしょうね、と告げているだけです。そこから先、自分の振る舞いについては、それぞれの者が自分で判断することです。
 あるいは、「言い広める」ということはそれだけ辛い面もあるよ、と。人にイエスとの出会いについて言い広めるのは、大変だよということをイエス自身が身をもってわかってくださっているよ、と。そういう風にこの物語を読む事もできます。
 皆さんは、どのように思われるでしょうか。説き明かしはここまでにいたします。




礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール