友なき者の友となりて

2012年11月25日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

説き明かし:約25分間+分かち合い:約34分間=合計:約59分間
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聖書:ルカによる福音書19章1-10節 (新共同訳・新約)

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」





説き明かし「友なき者の友となりて」(25分間)+分かち合い(34分間)=59分間

徴税人
 おはようございます。今日も一緒に、説き明かしと分かち合いの時を持ちたいと思います。
 今日のテクストとして選びましたのは、有名な「徴税人ザアカイ」のお話です。
 徴税人というのは、ご存じのとおり、税金を集める人のことですが、ここで言われている税金というのは、ローマ帝国に納める税金です。当時ユダヤ人国家の独立は認められておらず、ローマ帝国の属州ユダヤとして帝国の支配を受けていて、ユダヤ人はユダヤ教の神殿税と、ローマへの人頭税など、二重に税金を取り立てられていました。
 そして、税金の直接の取り立ては、ローマ人ではなく、現地の人間にやらせました。ですから、ここは属州ユダヤなので、ユダヤ人にやらせたわけですね。
 これは、ローマ人が面倒な事を現地人に任せるという合理化の目的だけではなく、属州の人間を支配する一つの方法論でもあったのですね。みんなローマに支配され、ローマに税金を払うのを苦々しく思っていますが、その税金を直接ローマの役人が取りたてに来るのではなく、同じユダヤ人がそれを取りにやってくるというわけで、そのユダヤ人を恨むようになります。それでユダヤ人一般の怒りの矛先をそらす事ができるんですね。
 また、そうやってユダヤ人同志の間に対立を持ち込んでおけば、ローマに反乱を起こすためにユダヤ人が団結する、その団結の力も削ぎ落とす事ができるので、わざとユダヤ人の中に、怒りや敵意のはけ口を作っておくという仕組みでもあるわけです。
 まあそういうわけですから、この徴税人というのは、非常に可哀想な人と言えるでしょうね。

孤立
 ユダヤ人というのは当時一般に、「自分たちが神さまから選ばれた特別な民族で、自分たちは清い、異邦人は穢れている」と考えていますから、例えば、イエスの生まれ育った北部のガリラヤ地方の人たちでも、異民族との交易によって暮らしている人が多いですから、そうすると品物やお金をやりとりするので、当然異民族との触れ合いが多いわけですが、そのために、エルサレム近辺のユダヤ人社会の中に住んでいるユダヤ人からは「ガリラヤ人は穢れている」と見下げられていたほどです。
 ましてや、この徴税人というのは、異邦人の利益のために同胞からお金を取り上げる人間ですから、「穢れた裏切り者」であり、「罪深い男」として非常に忌み嫌われていました。神に選ばれた聖なる民族を裏切る者ですから、ユダヤ人を裏切ることは神への反逆であり、それ故に「罪深い男」と見なされたんですね。
 かといって、ローマ人からもユダヤ人は偏屈で珍奇な民族として見なされ、その中で更に虐められる惨めな徴税人というのは、卑しい人間として見下げ果てたような存在なわけです。
 こうなってしまいますと、徴税人という仕事をしている人間は、誰からも仲良くしてもらえず、誰からもまともに人間扱いされないで、日々を過ごすことになります。
 そういう人が、それでは何に執着しようとするかと言えば、もうお金しかなかったのではないでしょうか。


 この徴税人ザアカイは「金持ちであった」(ルカ19:2)と書かれていますが、実際、徴税人の税金の取りたての方法は、ずいぶんえげつなかったそうです。
 ローマの徴税の制度は、その町や村ごとの人口に基づいた税金を、徴税人にまず先払いで納めさせるんですね。そして、徴税人は自分の好きなだけ住民や通行人から税を取り立てることができるんですね。
 これはかなり酷い制度だと思いますが、要するに徴税人は、取れば取るほど利益が得られる、儲けになるという仕組みになっていました。
 そうなると、もう徴税人にとっては、日頃邪険に扱われている恨みもあって、ここぞとばかりに取り立てるわけですね。実際、通行人を呼び止めたり、家に押し入ったりして、財布を出させ、財布の中身をごっそり抜き取って行ってしまうという事もやっていたそうです。
 徴税人の「頭」という言葉でも分かるように、徴税人というのは、何人もの手下を従えていたのですね。ですから場合によっては複数のチンピラのような徴税人の手下が人を取り囲んで、お金を強奪するという、ヤクザまがいのことをやっていたわけです。

背の低いザアカイ
 しかし、この徴税人ザアカイは、そのヤクザまがいの行いとは裏腹に、人々に恐れられるというよりは、むしろ軽蔑されていたように感じられます。
 と言いますのも、彼は背が低かったので、イエスが自分の町にやってきた時に、その姿を見たいと思いましたが、群衆に遮られて見えなかったとあるからです。
 私の神学生時代の聖書学の恩師が、「ギリシア語で読むと、この『背が低かったので』という言葉は、イエスの背が低かったのか、ザアカイの背が低かったのか、わからないんですね」と仰っていましたが、まあしかし私は、ザアカイの背が低かったのではないかなと思うんですね。
 というのは、ザアカイがもしエリコの町の人々に恐れられるような、それこそヤクザの親分のような徴税人だったら、彼の背が高かろうか、低かろうが、手下に命じて群衆を押しのけさせて、前に出てイエスを見る事ができたはずですが、彼にはそれができなかった。ということは、彼は群衆に恐れられていたというよりは、バカにされていた面が強く、彼の背が低いので、前に出させてもらえなかった。
 町の人たちに愛されるような背の低い人、たとえば子どもが前で見たいと言えば、前の方に出させてあげたり、肩車をして見えるようにしてあげたりするような大人がいてもおかしくなかったのでしょうけれど、誰もザアカイに対してはそういう気遣いはしない。
 また、子どもを含めた背の低い人たちが、皆いちじく桑の木に登ったのかというと、そういう風には書かれていない。木に登っていたのはザアカイであり、だからこそイエスの目に留まったのだろうと思われます。
 ですから、背が低かったのはザアカイであり、その事も彼が群衆から軽蔑される材料になったのであろうと、私は思います。

イエスの気づき
 イエスは、一人でいちじく桑の木に登って自分を見ているザアカイを見つけました。そして、その一瞬で彼の置かれている状況に気づいたのだろうと思いますが、
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい」(19:5)と言いました。
 すると、群衆が呟きます。
「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った」(19:7)
 ユダヤ人は「罪深い」「穢れた」人と一緒に食事をしたり、その人のところで宿を取ったりしません。その人の罪や穢れが「うつる」と信じられていたからです。
 これは、いつかの説き明かしで、「重い皮膚病」の人を癒す物語の時にもお話ししましたが、イエスは「穢れている」と見なされた人に手で触れ、親しくなろうとします。その事でイエスは、「あの人にも穢れがうつった」と言われて、町から追い出されることになるのですけれども、ここでも同じように、イエスの行動は多くの人に、「何てことだ」といった、否定的な反応を引き起こすことになります。

いじめの論理
 こういう場面は、例えば私は普段は学校で働いていますけれども、子どものイジメの場合と非常に似通っていると思います。
 人間というのは、相当気をつけていないと、いつも誰か少数の者、あるいは一人の者をスケープゴート(生贄の山羊)にして虐めることで、残りの大多数の人が互いの結びつきを確認するという、原罪と言ってもいいくらいに染み付いた醜い習性があります。「人と早く仲良くなりたかったら、共通の知人の悪口を言えばいい」ともよく言われますが、誰か生贄を作って虐待するのが、グループの団結力を強めます。
 ですから、例えば1つのクラスの人間関係が、1人の子どもを虐めることで安定を保っているといった現象が起こったりするのですね。クラスの大多数の子どもは、その子とは友達になりたがりません。その子と連帯すると自分も仲間はずれにされたり、虐められたりするでしょうから、決して虐められっ子とは友達になりたがらず、一緒になってその子を攻撃したり、蔑んだりすることで、多数派のメンバーである事を積極的に主張しないと生き残れないわけです。
 そして、そういう自分たちの行動を正当化するために、「虐められている子には、それなりの理由がある」と主張します。幼い頃は「汚い」「臭い」「変わっている」といった直截な事が、排除の理由になりますが、これが上級生になってくると、「あいつは人の物を借りたら返さないから」とか、「あいつはみんなのチームワークを乱すから」とか「みんなの足を引っ張るから」といった、もっともらしい理由を挙げるようになります。
 これを教師が助長することもあって、「クラスの和を乱すな」とか、「もっと他の人との協調性を大事にしなさい」と少数派の子どもを指導している教員を見ると、私は「ああ、そういう言葉で、『この子を虐めてもいい』という理由を教師が与えることになるのになあ」と、非常に残念な思いをすることがあります。
 教師の集団にもこういうイジメの論理はまかり通っていて、やはり風変わりな個性を持つ教師が、他の教師から疎まれたり、明らかに排除されたりということは現実にあります。ある教師どうしの食事会や結婚披露のパーティにその人だけが呼ばれなかったり、どこのクラブの顧問からも外されて孤立していたり、その人だけが仕事上の重要な情報を知らされていなかったりすることがあります。
 そして、そういう事はよくないんじゃないかと発言する人が現われると、「いや、自分まで排除されたら困るから、仕方ないんだ」と言って、困ったような顔をして立ち去ってゆきます。教師がこの体たらくでは、生徒の間でイジメが無くなるわけがないですよね。悪い見本を見せているようなものです。
 生贄の味方をする人は、間違いなく、その人も一緒に生贄になる危険に巻き込まれるでしょう。そして、「あの人は、自分が仲良くなろうとしている人が何者かわかっているのか?」と蔑まれることでしょう。
 イエスがやった事は、そういうことです。みんながザアカイを虐めている。みんながザアカイを嫌うのにはちゃんと理由がある。ザアカイが徴税人をやっているから。ザアカイは裏切り者だから。だから彼をみんなが嫌がるのは当たり前だ、と。しかしイエスは、その嫌われ者の友達になろうとしたのですね。

不公平の必要性
 ここで大切なのは、「一方的に味方になる」ということだと思います。
 イエスはザアカイに対するイジメをやめましょう、と呼びかけているわけではなく、ザアカイの友達になろうとしました。そのことで、自分も一緒に蔑まれることをわかっていて、仲間になろうとしました。彼は「中立的な立場に立つ」ということをしなかったのですね。そうではなく、虐められている側に「一方的に味方になる」ということをしてくれたわけです。
 これもイジメについて語る時によく出てくる話ですが、「中立的な立場」というのはイジメの場合あり得ないですね。「中立」「公平」を唱えて、虐める側にも虐められる側にも立たないことが良いことだと思っている人がいますが、それは結局、被害者を助けず、加害者を止めることもないので、結局加害者を支持し、イジメに加担することにしかなりません。
 「中立」「公平」を唱える人は、結局は傍観者に過ぎず、傍観者は、結局は加害者の味方でしかないわけです。
 孤立させられている人に本当に必要なのは、イエスのように、「共に蔑まれることを知りながら、一方的に味方になる」ということではないでしょうか。
 中立的な態度が人を傷つけることもあります。私たちは不公平かも知れないけれど、誰かの味方にならないといけない時もあるのではないか。そういうことを必要とする瞬間もあるのではないか、と思うわけです。
 いかがでしょうか。説き明かしはここまでといたします。皆様の思いをお聴かせください。




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