相通じる祈りの心

2012年12月2日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 アドヴェント第1主日礼拝宣教

約30分間
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聖書:ルカによる福音書19章1-10節 (新共同訳・新約)

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。






宣教「相通じる祈りの心」録画(約30分間)


美しい季節
 本日:12月2日(日)は、今年のアドヴェントの始まり、クリスマスを待ち望む季節の始まりの聖日です。
 クリスマス、と聞くと、もうそんな季節になったのか、と時の流れの早さに驚くように私もなりましたが、それでも、まだまだ京都などでは紅葉の季節でありまして、あちこちの紅葉の名所は全国から来た観光客でごったがえしています。
 つい先日、私も北野天満宮や永観堂、また知恩院の、夜の紅葉のライトアップを観に行きましたが、とてもとても見事なものでした。紅葉の赤い色もさることながら、その紅葉の中に混じる黄色や緑が非常に美しく、感動いたしました。
 北野天満宮の中には竹林もありまして、紅葉の赤、黄色と、竹の緑が絶妙のコントラストを作っていました。また永観堂では、ちょうど朧月夜の状態で、薄く雲のかかった満月の青い光と紅葉の赤、黄、緑が互いを引き立て合い、心が洗われるような気持ちになりました。
 紅葉を見た帰りに、そのような神社や寺の本殿にも立ち寄りました。また、知恩院の近くには八坂神社もあるので、そちらの方にもふらりと出かけたりしました。
 さすがにクリスチャンであり、牧師でもありますので、そのような宗教施設で参拝をしたわけではありませんが、それにしても長い歴史を持つ建物や仏像、また灯籠などの工芸品は、いくら眺めていても見飽きるということがありませんでした。昼間見るのではなく、夜中の静かな時に、ライトアップされた宗教的な建築物を見たので、余計に神秘的な荘厳さを感じたのかも知れません。

神仏とのおつきあい
 実際私は、神社やお寺が好きなのですね。建物も好きですし、宗教的な雰囲気、神秘的な空気が漂うのを感じるのも好きです。
 もちろんキリスト教の伝統的な建物も大好きですが、伝統があり、歴史を感じさせるキリスト教建築は、日本国内よりは海外に出た方がよく出会えるので、海外では伝統ある教会を訪ねるのが好きですが、日本ではどうしてもキリスト教よりも歴史の長い宗教が他にありますので、宗教的な雰囲気を味わうことのできる広くて古い場所というのは、神社やお寺の方が多いということになってしまいますし、私はそういう所に行くことに抵抗を感じません。
 キリスト教にも色々な教派があり、個々のクリスチャンも実際かなり人によって考え方が分かれるところだと思いますが、まだ今でも、神社やお寺を訪ねること自体に抵抗を感じたり、お盆や正月に先祖の墓参りをしようと家族や親戚に誘われて、お墓の前で手を合わせることは偶像礼拝だから罪であると教えられているので、手を合わせることだけはできない。神さまを怒らせてしまう……と真剣に悩んでいる人の方が、クリスチャンの中では多数派だと思います。
 しかし私は、確かに神社のお社やお寺の仏像に向かって手を合わせることは積極的にはしませんが、お墓や仏壇の前では割合素直に手を合わせます。というのも、そうすることが当然の礼儀であり、そうすることで遺族の方が安心をされるのですから、そこで自分の宗教的信条を主張して相手の心を傷つける事のほうが余程申し訳ないことだろうと思うからです。そして私は仏壇やお墓の前で手を合わせながら、仏像を崇拝しているのではなく、「亡くなった方の魂が神さまのもとで安らかに憩っておられますように、お願いいたします」という祈りを心の中で捧げています。

ご利益宗教
 毎年、年が明けて元旦を迎えると、何百万人もの人が初詣に出かけます。最近は大きな教会ではクリスマス・イヴに一般人も入るような所が出て来ていますが、お正月の初詣客の動員数には到底足元にも及びません。
 そこでは、商売繁盛や家内安全、無病息災、学業成就、縁むすびや縁切り、子宝や長寿への願いなど、ありとあらゆる人間生活上の願いが、余すところなく表現されております。
 そういう宗教のあり方を、日本のキリスト教信者は「私たちはそのようなご利益宗教ではございません」というような言い方で、ちょっと上から目線で批判的に見ておりました。
 「現世利益」と書いて「げんぜりやく」と読みますが、いわゆる「ご利益」をお願いするような宗教は本当の宗教ではない。キリスト教はそんなギラギラした欲求丸出しの宗教ではなく、もっと高尚な、哲学的な、立派な思想を伴う、愛と赦しと奉仕の宗教である。私たちはああいった「この世的」な欲望を捨てて、愛に生きるのです……ということなのでしょうか?
 しかし、私も今までのクリスチャン生活を振り返って思うのですが、クリスチャンも頻繁に現世利益を願っています。例えば、「商売繁盛」とはハッキリと言いませんが、「私たちの携わる事業が、どうかあなたの御心に適ったものとなりますように」と祈るのは、要するに事業の成功を願っているのです。
 あるいは、子どもが病気になった時、「わが子の病気を癒して下さい」と願わない親はいるでしょうか。
 あるいは、親しい友が遠方に旅をする時には、「あの人が無事、安全に目的地に到着し、息災のうちに私たちのもとへ帰って来ることができますように」というのは、交通安全、無病息災ではないでしょうか。
 おそらくほとんどのクリスチャンが実際には現世利益の内容を祈っているのですが、その時に「御心でしたら」という一言を付け加えることで、「最終的には神さまの御心に適ったことしか起こらないのですから、私たちは自分の欲望のままに願い事をしているわけではありませんよ」というジェスチャーをしています。「御心でしたら」という一言が、「私たちは現世利益志向ではない」という言い逃れをするための免罪符の機能を果たしているわけです。
 ただ私は、「キリスト教だって現世利益やってるじゃないか」と批判したいのではなくて、私が言いたいのは、「自分たちだって現世利益を願っているんだから、あの人たちを『現世利益を求めている』といって上から目線で批判する事はやめましょうよ、ということです。
 私たちが祈ることは何教の信者であるに限らず、ほとんどが現世利益なのです。また、現世利益を願うこと自体は悪いことではありません。それは私たちの暮らしに関わる大切な願いです。それを認め合って、他の宗教を軽蔑するのはやめましょうよ、私は言いたいのです。

相通じる祈りの心
 それに、現世利益をする人が、全てを全部神任せにして、自分は何の努力もしないかというと、そういうわけではないのですね。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もありますが、人間にできる努力は精一杯した上で、まだ足りない所があるかも知れないが、神さまに助けてもらいたいという人もたくさんいるはずです。「全ては神がなさることだ」と言って、自分自身の努力を放棄する人と比べると、どっちが立派かわかりません。
 商売繁盛を祈る人は、商売というのは生計を立てることですから、当然真剣にお仕事をされているでしょうし、合格祈願をする人は、わざわざ天神さんの総本山である九州の太宰府天満宮まで行って願い事をしてくる人もいますが、それにしてもそれは真剣さの現れで、当然その九州旅行の日を除いて、合格を目指して真剣に勉強していることは恐らく間違いないでしょう。
 神頼みとは言いますが、実際には、人は祈り、願うことで、自分の居住まいをただし、「お願いしたから大丈夫」と開き直るのではなく、日常生活も神さまから見て恥ずかしくないように整えてゆく、また努力するものではないでしょうか。
 特に、観光やデートで神社仏閣に来ている人よりは、深夜や早朝の、人影の少ない静かな時間に、恐らく毎日の日課にしておられるのでしょうけれど、真剣に祈りを捧げている人の姿には、見ているこちらの気持ちも引き締まるような清々しいものを感じます。

正統と異端を区別しない
 本日、礼拝で取り上げました聖書の箇所では、イエスが宗教的な行為において、いわゆる正統と異端についてどのように考えていたのかを物語っている箇所と言えます。もう一度読んでみましょう。
 
「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである』。」(マルコ9:38-41)
 弟子のヨハネは、自分たちこそがイエス直属のグループであり、元祖であり本家であり、要するに自分たちこそが「正統派」だと思っています。ですから、「本家の我々を差し置いて、勝手に先生の名前を使いおって!」というわけです。
 ところがイエスは
「やめさせてはならない」(9:39)と言うのですね。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(9:40)と。ここでイエスにとっては、本家と亜流の違い、どこが正統派で、どこが非正統派、あるいは異端であるかといった区別には全く関心が無い、ということがわかります。
 加えて、
「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(9:41)と彼は語っていますが、そのことで、「大切なのは何が本物のキリスト教かという区別よりも、喉の渇いている人に水を与えるという行為なのだ」ということが主張されています。
 では、何派であってもキリスト教でさえあればいい、ということなのでしょうか? キリスト教でないとダメなのでしょうか?
 私はそうではないと思います。大切なのは、水を求める人に水を与えることです。そして、それを行う人はイエスに逆らう者ではないのですから、イエスは止めないだろうということです。
 イエスなら、たとえ宗教の違う人に対しても、渇いた人に水を与えるという行いは大切だと認めたでしょう。
 そして、渇いている人が水を求める、飢えている人が食べ物を求めるというのは、一番基本的な現世利益です。また、イエスは病気を治して下さいと願う人に対して、「病気を治せというのは現世利益だから、私はそういうことはしない」と言って断ったかと言うと、全く逆で、実際には病気を治して回ったと聖書に記されています。
 そもそも「主の祈り」において、私たちが最初に唱える願い事は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」です。
 ですから、人が生きるために必要な物を求めること、またそれに応えて与えることは、宗教の違い、宗派の違いを超えて、普遍的なことであると、イエスもご存知だったのでしょう。

クリスマス
 加えて、「クリスマス」という祭そのものが、元はキリスト教の風習ではないものをキリスト教が取り込んだ結果できたものだということを皆さんはご存知でしょうか。
12月25日にキリストの生誕祭を祝うようになったのは、イエスが亡くなってから、およそ300年近くも後のことです。
 そしてこの生誕祭の起源として今最も有力だとされている説は、当時ローマ帝国に公認化されたキリスト教が、ミトラス教を迫害する上で、ミトラス教の冬至の祭を受け継いで吸収したというものです。
 ミトラス教のミトラスというのは太陽の神さまで、冬至というのはその日から日照時間が長くなり始めるので、太陽神ミトラスの誕生を祝う日にされていましたが、ミトラス教を追放しても、冬至のお祭りそのものは日照時間に強いこだわりを持つ特に農耕民にとっては非常に大事なものですから、これをキリスト教が受け継ぐことになるわけです。
 他にもローマの農耕神であるサトゥルヌスのための祭を吸収したという説もありますが、ミトラスにしろ、サトゥルヌスにしろ、農業を営む人々にとって重大な意味を持つお祭なので、これをつぶすわけにはいかないんですね。
 クリスマスツリーになりますと、もっともっと最近のことで、これが初めてキリスト教に取り入れられたのは、1419年のドイツにおいてだという説があります。それも、元々は古代ゲルマン民族の「ユール」という、やはり冬至の祭で使われていたモミの樹だそうです。これについては、例えば1700年代になっても、ピューリタンたちがクリスマスツリーを「異教の文化だ」と言って反発したという話もあります。
 ということは、例えばクリスマスに関して言うならば、キリスト教は土着化:つまり人々の生活に根ざした宗教として定着するためには、そこに住む人たちの宗教や慣行を積極的に取り入れて行った、ということが明らかなわけです。しかし、クリスマスだけではなく、マリア崇敬もそうですし、これに限らず色々な面で異教の取り込みというものはなされていたと考えられます。

日本のキリスト教
 これに引き換え、日本のキリスト教はどうでしょうか?
 特にプロテスタントは日本の宗教文化や年中行事を取り込むどころか、むしろ邪教扱いして完全否定しようとする人が多いのが現実です。日本人にとって、祖先の霊を大切にし、神々に日々の生活の幸福と安定、家族の健康、交通の安全、事業や勉学の成就を願うのは、日本人の心の基礎にある信仰心です。それをプロテスタントは拒絶し、間違った信仰であるとか、罪だと言って、多くの日本人たちを傷つけ、失望させ、嫌悪感を抱かせるに至っているわけです。
 カトリックはまだ幾分かプロテスタント諸教会よりはましと見えて、七五三をやったり、例えば大阪の玉造にある聖マリア大聖堂の正面の大壁画にあるように、和服を来たマリア様などを描いたり、そういう絵がクリスマスカードになっていたりしますが、それでもどこか中途半端な感が否めません。
 しかし、日本人にキリスト教を浸透させたいと思えば、日本人が古来から持ち続けている信仰心、昔から受け継いでいる願い事、それを吸収し、引き受けなくてはならないでしょう。
 それに対するキリスト教の内部にいる者の抵抗感は非常に強いと思います。しかし、キリスト教を本当に日本に土着化させたければ、日本人の基礎にある信仰心をキリスト教が引き受けなくてはなりません。
 それがどうしてもできないならば、日本ではキリスト教は非常に少数派の人々による特異な宗教集団であるということを甘んじて受け止めないといけないでしょう。
 キリスト教は日本では少数派でいいのか。それとももっとキリスト教が日本でも広まるのが望ましいのか。どちらがいいとは明確に言い切ることはできませんが、少なくとも広めようとするなら、あるいは少なくとも多くの日本人に嫌われたくなければ、現世利益は絶対に否定してはならないということは言えるでしょう。
 何度も繰り返しになりますが、日々の生活の安定、事業の成功、学業の成就、無病息災や子孫の繁栄、そして亡くなった方々への崇敬と感謝と冥福を祈る心、こういった諸々の願いは私たちの生活に関わる大切な願い事ですから、決して否定せず、むしろ神さまへの祈りの中で、大いにこのような願い事を申し上げればよい、と思うのであります。
 みなさん、神さまにたくさんお願いごとをいたしましょう。
 祈ります。

祈り
 私たちの愛する神さま。
 今日も生かされ、ここに集い、あなたに礼拝をお捧げできますことを感謝いたします。あなたに与えられたこの命を互いに大切に守り、支え合いながら、仲良く生きてゆきたいと私たちは思っております。
 神さま、私たちの日々の糧を今日も与えて下さい。私たちに身体の健康も、心の健康もお与えください。私たち一人一人の願いをどうかお聞き揚げ下さり、もしあなたの御心に適うことがあれば、どうか叶えて下さい。
 私たちの人生の有様が、一見喜ばしいものであっても、悲しいことであっても、私たちには思いもよらない、あなたの時間の中で、あなたの御心がどのように成就するのかを、私たちにわかりやすくお示しくださいますように、お願いいたします。
 イエス・キリストの名によって、アーメン。




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