終わりの時が来る

2012年12月30日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 歳末主日礼拝説き明かし

約30分間(礼拝全体の録画がUstreamでご覧になれます。説き明かしや分かち合いのみご覧になりたい方は、映像を先送りしてご覧ください)
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聖書:ヨハネの黙示録21章5-6節 (新共同訳・新約)

 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに読ませよう。



人の命は他人事
 おはようございます。本日、歳末礼拝ということで、ここで皆さんと共におれることを心から感謝しています。
 歳の終わりの礼拝ということで、単純に「終わりの時」という言葉を思いめぐらせて、浮かんできたことをお話ししてみようかなと思います。それは「日本の終わりが近づいているのではないかな」という予感です。
 先々週の日曜日に行われた選挙の結果、私たちは単に右翼というより「極右」と言っても良いような政権を誕生させてしまいました。
 確かに、結果的にはその政党が勝利をおさめるであろう事は予想されてはいましたが、それにしても選挙前から憲法を改訂し徴兵制を導入する事を検討すると言っていた政党が、徴兵されるとなると真っ先に兵役につかされる世代の若い人たちの支持を集めるとは、私も思ってもみませんでした。
 しかし、現在は総理大臣となった自民党の総裁が、選挙前の最後の演説を行ったのは、秋葉原というネットやコンピュータの好きな若い人がたくさん集まる繁華街で、そこでは無数の日の丸の旗を掲げた群衆が安倍コールで盛り上がっていたそうです。
 日中、日韓、日露のそれぞれの関係において、領土の問題が非常にややこしいことになっていますし、相手の国や民族に対する反感も高まっています。こういう時に、国民の兵役について検討するというのは、たとえ小規模であれ、武力衝突を想定していると推測せざるを得ません。
 そのような事態になった時、前線に行かされるのは自分たちだという感覚が欠けている若者が多いのですね。
 だいたい兵役が必要だとか、戦争もやむを得ないなどと言っている人は、自分が前線に送られる可能性を考えていません。これは若者でも年輩の方でも同じですが、戦争について語る時、全く司令官気取り、あるいは総理大臣気取りの人が多いです。大局に立ったつもりで、「武力の行使は避けられない」、「国のために命を捨てる事は時には必要だ」と簡単に言うわけです。
 しかし、自分が殺し合いの只中に放り込まれて、銃弾で穴だらけにされる。爆弾で身体を散り散りに引き裂かれる、ということを考えていない人がほとんどです。
 総理大臣は選挙前に、ある記者から「あなたは徴兵制推進論者ですが、自分の命令で自衛隊員に死者が出るということを、どう考えているのですか」と質問されて、「自衛隊の人は、最初からそのつもりでしょうから」と答えたそうです。
 「私が命を張るのだ」と言うのではなく、「あの人たちは、そのつもりなんだから命を落として本望だろう」と言うわけです。まるで他人事です。
 なるほど権力者というのは、こんな風に国民を一人一人かけがえのない命のある人間としてではなく、奴隷のように使い捨てて、その上に自分が君臨していて、それが空気のように当たり前なんだなということがよくわかりました。

世界滅亡の危機
 他にも、今度の政権には、大きな懸念があります。
 選挙前、自民党以外の全ての政党が、いずれも「原発ゼロ」を大きく掲げていました。しかし、では実際にどうやってそれを実現するのかというと、その具体的なシナリオを答えることのできる政党は1つもありませんでした。
 その具体性の無さに失望して、原発についての明言を避けて、最も現実路線を歩んでいるように思われた自民党が勝ったのではないかと言っているジャーナリストもいます。
 つまり、今の日本には原発を廃止する具体案を持っている政治家はいませんし、政党もありません。
 これについても多くの原発推進論者は、やはり政治家気取りです。自分が国を動かしているような大きな気持ちになって、「日本には化石燃料が乏しいんだから、原発を推進するしか他に道は無い。今の便利な暮らしを捨ててもいいのか」と言います。私の職場の同僚の中にも、「原発をやめるなんて、気が狂ってるよ!」と言い切る人がいます。
 日本には既に54基の原発があります。こんなに狭い国土で、しかも地震国なのに、世界で第3位の多さです。
 既に3.11で福島第一原子力発電所の事故によって、福島が住めない場所になってしまっていますが、実は全国的に放射線量は上がっています。私の知人の中に放射線を計る線量計を持って歩いている人がいまして、その人は大阪に住んでいるのですが、大阪でも確実に線量は上がっているそうです。
 実は福島の問題はまだ終わっていなくて、現在4号機の核燃料プールの問題が世界的に注目されていると言います。もし、次に震度6以上の地震が起こったら、4号機のプールは間違いなく崩壊し、チェルノブイリの10倍の放射性物質が撒き散らされます。
 また、4号機プールだけではなく、福島第一原発全体では、チェルノブイリの85倍の放射性物質があると言います。再び地震が福島を襲えば、それは世界的な放射能汚染を撒き散らすことになります。
 つまり、原発には文字通り「世界の終わり」を招く可能性がある、ということです。
 また、地震や事故が起こらなくても、今、日本のあちこちで、福島で汚染された瓦礫を分担して焼却処分をしようという動きが始まっています。汚染瓦礫を焼却した地域では、やはり線量が高まってきています。
 私が、「汚染瓦礫の焼却には反対だ」とインターネットで投稿したりすると、「おまえは自分の安全だけを考えるエゴイストだ!」、「福島の人たちの気持ちがお前にはわからない!」、「現地の人たちを見捨てる発言だ!」、「卑怯者!」と多くの人に叩かれます。
 しかし、チェルノブイリの時もロシアの人たちは結局みんな移住したわけですが、福島はチェルノブイリ以上の事故です。それにも関わらず、福島の人たちに現地で生活を続けられるかのような安心感を与えている方が欺瞞だと私は思います。
 汚染された瓦礫は、できるだけ原発の近くの狭い地域に集めて、その周辺に住む人は、別の土地で新しい仕事と生活を再開できるようにサポートされないといけないのだと思います。
 今の政策は、人を現地に留めたままで、瓦礫を全国にばらまいていますが、そうではなく瓦礫を現地に集めて、人をそこから助け出さないといけないのです。
 でも、現実にはそうなっていません。日本全国が汚染され、日本全国の人たちが安心して子どもを産み、育てることができなくなるでしょう。

貧者の切り捨て
 徴兵制・原発に続いて、3つ目の懸念は、労働問題です。
 今回の政権は最低賃金の引き下げを検討しています。それには「より多くの人に雇用の機会を与えるために」という、きれいごとのスローガンが付いています。
 しかし、絶対にそんなきれいごとで済むはずがありません。最低賃金が引き下げられたら、多くの企業経営者は、雇用を増やさずに賃金だけを引き下げられた額に下ろしてくるでしょう。そのほうが、自分が儲かるわけですから。
 現時点でさえ、「ワーキング・プア」と呼ばれる若者の増加が問題になっています。正社員になる/正規雇用される若者は年々減っていて、非正規雇用/アルバイト/派遣労働者がどんどん増えています。もう今の段階で既に、働いても、働いても、豊かになれない層が増えてきています。
 住む所も確保できない人が、野宿の生活を始めてしまうまでに、まずネットカフェなどで寝泊まりをしたり、一泊一泊整理券を配られて入ることのできるシェルターでお世話になるようになります。その時点で既に自分の住所がないのですから、広い意味で「ホームレス」です。
 住民票が消されてしまいますと、生活保護も選挙権も奪われます。ということは、一旦ホームレスになると、二度とそこから抜け出すことができず、しかも自分たちの意見を表明するために投票する権利も奪われます。つまり社会的に抹殺され、最終的には貧困の中で野たれ死にしていくしかないわけです。
 大阪にいるある牧師は、「住民票の無い人の選挙権を認めないのは、憲法違反だ」と訴える行動に参加していて、警察に逮捕されました。全くの非暴力の抵抗なのに、「威力業務妨害」という容疑で立件され、一審で有罪判決、控訴も棄却され、いま最高裁に上告する準備をしています。
 そんな風に徹底的に弱い者が切り捨てられる世の中に、既になっています。それに加えて、まだ企業が儲けるために、最低賃金の引き下げなどが行われたら、さらにホームレスは増え、日本のこれからを担う若者はどんどん経済的にも肉体的にも精神的にも追い込まれ、とても日本を背負って立つ人材を育てるという状況ではなくなります。
 国の未来というのは、結局その国の未来の国民、つまり次の世代、若い世代の国民がどのように力をつけていくのか、という事にかかっていますが、今の日本では、結婚できず、子どもも作れないという人がどんどん増えています。未来の国民を生み出すこともできないのです。
 しかし、それでも今の日本は若者をどんどん叩きつぶしながら、経営者や政治家だけが儲かる路線を突き進んでいます。つまり、経営者も政治家も本当に意味で愛国者ではないということなのだろうと思います。彼らは国の将来よりも自分の儲けの方が大事なのです。

弱者を利用する者たち
 私は、最初は、このような政治家たちを支持する有権者がいること、明日はわが身と言ってもいいような、いつでもホームレスに転落する危機にさらされている、生活の苦しい若者たちが、このような政権を熱烈に支持するのか、わかりませんでした。
 しかし、最近、徴兵制に対する反論をネット上で書いた時に、私を叩く人の意見の中に、「おまえに本当の弱者の気持ちがわかるはずがない」という言葉を見て、ハッとしました。
 そして、何ヶ月か前に、教え子の卒業生の一人が、原発に反対する私に対して、「先生には、本当にこの国のために命を捨ててもいいと思って原発で働いている労働者の気持ちがわからない」と言ったことも思い出しました。その卒業生には、実際命を捨てて原発で最も危険な作業を被曝しながら、自分は長生きできないことを知りつつ働いている友人がいました。その友人のことを考えると、私のような人間は高みに立って、上から目線で偉そうなことを言っている偽善者に見えるのだそうです。
 釜ヶ崎での炊き出しのボランティアに行って感じるのは、貧困に陥ってゆく人たちというのは、実は純朴で真面目で、不器用で人の好い人が多いという印象です。
 学校にいた時から学力の競争にさらされ、そこで負けて学歴社会から落ちこぼれ、就職の条件も良くない職場に働かざるを得ず、職場でも大量に若者を雇用しておきながら、業績が悪い者はどんどんクビにする、そういう方針の経営者に雑巾のようにこき使われ、また社員たちも自分がクビにならないためには、他の社員を蹴落とさないといけませんから、足を引っ張ったり、会社に居られなくさせるために虐め/暴力が起きます。しかし、いったんクビになったら生きていけませんから、必死に虐めに耐えながら働き続けて、経済的にも、肉体的にも、精神的にもボロボロになって、最終的には病気になるか、過労死するか、過労死したくないから仕事を辞めてみたものの、生計を立てられず貧困に陥るか、といった全く希望の無い状況に追い込まれます。
 「やめたかったら、やめろ。お前の代わりはいくらでもいる」と言われ続け、それでもそんな職場にしがみつかないと生きてゆけない若者、また実際にホームレスになりながら、ネットカフェなどを転々と漂流している若者たちの未来には、「絶望」の2文字しかありません。
 そんな中で、「この国を守り、この国を救うために、おまえの力が必要なんだ」と言われたら、嬉しいと思います。
 誰がそんな風に、若者に誇りと生きる意味を与えてくれるでしょうか。
 それが軍隊であり、原発なのですね。
 軍隊がなければ、国が守れない。家族が守れない。原発がなければ、国民全体の生活が成り立たなくなり、国が滅びてしまう。だから、この国を、家族を守るために、お前の力が欲しい。そう言われたら、その若者は、「よし、こんな俺でもお国のために役立つ道があるのなら、喜んで命を捨てようじゃないか。俺の命がたくさんの人の命を救うのなら、喜んでその役割を引き受けてやろうじゃないか」と思うのです。
 これが弱者の、純粋で真面目な気持ちです。その人の生きる意味と死ぬ意味がかかっているのです。軍隊や原発に反対する私が、「お前には本当の弱者の気持ちがわかっていない」、「おまえは非現実的なきれいごとしか言っていない愚か者だ」と言われるのも当たり前です。
 しかし私は、やはりそれは、若者たちをどんどん弱者に追い込むような状況を意図的に作り出し、兵役や原発労働者という、誰もが嫌がるような残酷な仕事をやらせる層の人間を作り出している政治家たちの罪の犠牲者だと思いますし、自分たちの利益を膨らまし、地位を安定させるためには国の将来をつぶしてもいいかのような仕組みを作っている人々に対する怒りを禁じることができません。
 労働問題と徴兵制と原発推進は、実はかたく結びついており、国や世界を滅ぼす悪魔の三位一体で言うべきではないかと私は思います。

この世の終わり
 さて、黙示録を書いたヨハネは、「もうすぐこの世が滅び、新しい神の支配がやってくる」というヴィジョンを見て、それを書き記しました。
 黙示録は7つの教会に当てた手紙で、それぞれの教会が、ローマ帝国の権力者たちの迫害に遭い、世間からは珍奇なカルト宗教のように扱われ、弱り果てていた状況に対し、この苦しみはいつか終わり、新しい世界が神の力によって実現されるという希望を語ったものです。
 仲間が殺され、教会がつぶされてゆく絶体絶命の状況の中でヨハネは、「それでも神が私たちを見捨てることはない。必ずローマは滅び、今まで無惨な非業の死を遂げてきた先達や仲間たちは、その神の支配の中で永遠の命を受け取るだろう」と、必死に希望を宣べ伝えようとしました。
 「見よ、わたしは万物を新しくする」(黙示録21:5)という神の声をヨハネは聞きました。
 しかし、この予言は外れました。
 まず、皮肉なことに、ヨハネの黙示録から200年近く経っての事ではありますが、ローマはキリスト教を迫害するのをやめ、最終的に国教にしました。これはヨハネがまず予想してなかった状況でしょう。
 また、ローマ帝国はやがて滅亡しましたが、世界はまだ終わっていません。ヨハネが待望するような神の支配は、まだ実現していませんし、ある意味、ヨハネが黙示録を書いた時代よりも、はるかに多くの人が地球上のあらゆる所で、人間の罪や過ちのために命を奪われています。
 このような歴史を眺めてみて、私たちはどのような希望を抱くことができるでしょうか。神の支配が本当に最終的には実現するという希望を抱き続けることができるでしょうか。
 私は、そのような神の力が、これまで働かなかった以上、今後働く可能性があるということも期待する気にはなれません。神さまが何か具体的な力をもってこの世の出来事に介入するということを、私は信じていません。
 もし可能性があるとすれば、神の愛を信じる人間が、その愛を自分たちで実行しようと努力し、その結果として自分でも「できない」と思い込んでいた事が可能になる、という奇跡があるという点に、それがあるのではないかと思います。
 「神は万能である」、「神にできないことはない」という古来から伝えられてきた言葉は、現代では「できるはずがないと思っていた事が、神を信じることでできるようになる」という言葉に置き換えることができるのではないでしょうか。
 私たちは、ヨハネのように、奇跡のどんでん返しのような神の介入を期待する事はもはやできませんが、それでも私たち自身の信仰の中に、この世を神の支配に向かって変えてゆくことのできる力があることを信じていたいと思います。
 ということで、私のお話はここまでとさせていただきます。皆さんはどのように思われるでしょうか。




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