終わりの始まり

2013年1月10日(木) 

 日本キリスト教団香里ヶ丘教会 新年祈祷会奨励

約28分間
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聖書:マルコによる福音書1章1-15節 (新共同訳・新約)

 神の子イエス・キリストの福音の始め。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に死者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』
 そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地法とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰の革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
 それから“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。



イエスが抱いた終末感
 歳も明けました。皆様、今年もどうぞよろしくお願いいたします。嬉しい思いもあり、悲しい思いもあり、様々な人生の事情を抱えて、私たちここに参集しておりますけれども、まずはこうして顔を合わせて、共に祈りと交わりの時を持てます事を、神さまに感謝したいと思います。
 さて、新しい歳の始まり、ということで、最初に書かれた福音書の一番最初の部分を本日のテクストとして選ばせていただきました。
 このマルコ福音書の1章の前半には、イエスの誕生の物語はありません。まず洗礼者ヨハネがユダの荒野に登場し、そこにイエスが来て彼から洗礼を受け、40日間誘惑を受け、そしてヨハネが逮捕されるとイエスはガリラヤに行って独自の活動を始めた、ということが、簡潔に描かれています。
 歳の始まりに、初めの福音書の初めの部分を読んだのですが、実はここの聖書の箇所の底に流れているのは、「終わりの時が来ている」という考え方です。
 洗礼者ヨハネが人びとに悔い改めのバプテスマを受けよ、と教え、洗礼活動を始めたのは、「世の終わりがもうそこまで来ている」という切迫した意識が彼の中にあったからですね。
 「早く神の前に自分の罪を告白して、罪を洗い流す洗礼を受けないと、あなたがたは永遠に滅びてしまうぞ」、「救われたい者は、私のもとに来て洗礼を受けなさい!」と急かしたわけです。
 イエスがこの洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということは、ヨハネの終末論に大きく共感する所が多かったからでしょうし、ヨハネが領主のヘロデ・アンティパスに逮捕され、惨殺された後、イエスはガリラヤで独自の活動を始めた時も、その呼びかけは
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という言葉でしたから、イエスもヨハネと同じように、「もうすぐこの世は終わる」と信じていたことになります。

はずれた予言
 結論から言いますと、この終末の予感、「もうすぐこの世は終わり、神の国、神の支配が実現される」という予感は、外れました。
 洗礼者ヨハネも、イエスも、そして使徒パウロも、自分が生きている間にこの世の終わりがやってくると思っていた様子ですが、実際には彼らは皆、この世の終わりが来る前に殺されてしまいましたし、また私たちはそれからもう2000年近く経った現在に生きていますが、まだこの世は終わっていませんし、たぶん来年の1月にも、そのまた次の1月にも、またさらに次の1月にも、たぶん「あけましておめでとうございます」と言葉を交わす事になるだろうと思っています。
 むしろ今の時代は、「もうすぐこの世は終わるのですよ」と言って回ったりする、たとえば「エホバの証人」のような団体はそう言いながら家々を訪ねて回っていますが、ああいう考え方はカルトだ、ということに今の世の中ではなっています。
 けれども、イエスは、洗礼者ヨハネは、パウロは、というと、「もうすぐこの世が終わる」と切実に思い込んでいたという点では、私たちよりもむしろエホバの証人さんたちの感覚の方が近かったのですね。
 「もうすぐこの罪深い世は終わり、神の国がやってくる。そこで、救われた者たちで幸福にいつまでも暮らそう」と思っていた。だから「時は満ち、神の国は近づいた」、「今すぐ悔い改めなさい」という言葉が出てくるわけです。
 残念ながら、まだこの世は終わりませんし、神の国が来る予兆も感じられません。予言は外れたのですね。

新しい運動
 ところが、予言は当たった、外れたに関係なく、ここで我々にとって大事なことは、「なぜイエスはそんな終末への危機感を抱いたのか」ということです。
 それは、「なぜイエスは(ヨハネが死んだ後)ユダの荒野を離れて、ガリラヤにやってきて活動を始めたのか」という事とも関連があります。
 まずイエスの師匠であった洗礼者ヨハネが、なぜエルサレムの都から離れて荒野で人びとに「悔い改めよ」と呼びかけたかというと、それはエルサレムにある神殿に対する一種の抵抗というか異議申し立てです。
 ユダヤ人は年間に幾つものお祭りがあり、それを毎年繰り返し、神殿で祭事を行っています。日本語では「仮庵祭(かりいおさい)」と呼ばれている「スコット」であるとか、「過越祭(すぎこしさい)」と呼ばれている「ペサハ」とか、「神殿奉献祭」の「ハヌカー」や、あと「ペンテコステ」とギリシア語では言いますが、ヘブライ語で「シャブオット」と呼ばれる「五旬祭」、それから、新年を祝う祭としては「ロシュ・ハシャナ」というお祭り、罪の赦しということで言えば、ユダヤ人全体の罪を贖う、日本語では「大贖罪日」と呼ばれていますが、「ヨム・キップル」というお祭りもあります。
 そういう祭を毎年、新年を祝ったり、動物を神殿で献げることで罪の赦しを受けるという事を、毎年続けることがユダヤ人の生活の中心にあったわけですね。
 ところが洗礼者ヨハネという人は、「それではダメだ」と言う。もう最後の審判が近づいているから、例年どおりの行事をただ漫然とやっている場合ではない、すぐにでも一人一人が洗礼を受けて、悔い改めを示し、神に赦しを乞いなさい、そうでないと終わりの時を生き延びて、神の国に入ることはできないぞ、と呼びかけて洗礼運動を始めました。
 ヨハネは当時のユダヤ人社会の宗教と政治と経済の中心だった神殿を向こうに回して、対決しました。そしてイエスはそのヨハネの運動に共鳴したから彼の弟子になったのですね。

なぜ終末を感じたのか
 イエスが生まれ育ったのはガリラヤ地方です。彼は大工の息子であったと言われますが、大工というのは、家づくりだけではなく、家具や調度品も作る木工業全般、建物の種類によっては石を採石場から切り出してそれで建築作業をすることもあったそうです。
 そして、そのような仕事をするために、生まれ育ったナザレの村から、ガリラヤ湖周辺のあちこちの街や村に行って、泊まりがけで仕事をしながら、ガリラヤの庶民の暮らしをつぶさに見たのでしょうね。
 すると、彼の目に映ったのは、安息日にシナゴーグに行って礼拝をすることもできない、ホームレス同然の生活をしながら、生き物相手の仕事についていた羊飼いたち。エルサレムの大地主が所有している農園で働かせてもらっているけれども、収穫の大部分を地主に持って行かれて、毎日切り詰めた生活を強いられている小作農の人たち。そして、まだ常雇いならいいけれども、そういう定期的な仕事にもつけず、農繁期にのみ駆り出される日雇い労働者。またその仕事にもありつけない病人や障がい者、夜中の湖で働いているから悪霊が取り憑いていると言われ、魚臭いニオイがするから嫌われ者の漁師たち。そして、穢れた異教徒であるローマ人への税金の取り立てをやっているような裏切り者の徴税人。そして、そもそもガリラヤ地方全体が、異教徒/異邦人の地域と接近していて異邦人との交易で食べている地方ですから、ガリラヤ全体が穢れているというエルサレムからの差別意識……。
 そういうものをつぶさに見ながらイエスは育ちました。
 ですから、彼の弟子たちの中に漁師がいたり、彼のたとえ話の中に、農園の話や羊飼いの話が出てきます。彼が大工であったのに、なぜ彼は大工の話をしないのかと、私は長年不思議だったんですが、最近読んだ本によれば、どうやら大工というのは、まだ羊飼いや貧農に比べたら、多少は安定した収入のある仕事だったらしいのですね。
 ですから、逆にイエスのほうが、先ほど列挙した様々な最も低い階級の人びとに対して負い目を持っていたのではないかと言っている研究者もいます。
 そして、イエスは、そういったガリラヤの「穢れた地の民」と蔑まれ、中央の地主たちに搾取され、貧しい暮らしに甘んじている民衆に対して、
「貧しい者は幸いなり! 神の国はあなたがたのものだ!」、「今飢えている者は幸いなり! あなたがたは満たされる!」、「今泣いている者は幸いなり! あなたがたは笑うようになる!」(ルカ6:20-21)と説いて回りました。
 そして、翻って、ガリラヤの民衆から収穫や利益を搾取し、神殿税や十分の一税を取り立て、病人や障がい者は「本人か先祖の罪の報いである」と治療もせずに裁いて捨てるような、そんな宗教や社会の仕組みを牛耳っている人たち、つまり神殿に巣食っている祭司階級とその周辺の者どもに対して、イエスは、
「富んでいる者に禍(わざわい)あれ。あなたがたはもう慰めを受けている」、「今満腹している者に禍あれ。あなたがたは飢えるようになる」、「今笑っている者に禍あれ。あなたがたは悲しみ泣くようになる」(ルカ6:24-25)と唱えて、敵意をむき出しにしました。
 そして、それは、当時正しいユダヤ人の信仰だとされていた神殿中心の宗教を、人間の人間らしさというか、今の言葉で言うと人間の尊厳というものを踏みにじる、最も罪深い悪の温床であるととらえて、そのような堕落の極みに落ちきった宗教は、もう長くは続かない、神が黙っておられるはずがない! もう終わりが近づいている、いや終わりはもう既に始まっているのだ! という熱い思いから、イエスの言動が生まれていると考えられるのですね。

終わりのしるし
 最終的には、それがイエスのエルサレムの神殿における暴力的な抵抗運動につながり、イエスが危険人物として逮捕され、処刑されてしまうという結果になってゆきます。そういう意味では、表面的に見れば、イエスは終末思想にとりつかれた熱狂的なカルトの教祖ということになります。
 でも、私たちはイエスに愛された人たちの群れから起こってきたキリスト教の運動に連なっています。ですから、彼の真意を理解したい。
 彼がなぜ「もうこの世は終わりだ」あるいは「もう終わりにしなければならない。神の国が来なければならない」と思ったのか。それを思うと、実は私たちは、彼が見たものよりももっと規模の大きな終わりのしるしを目の当たりにしています。
 例えばこの狭い日本だけ見ても、福島ではもう一度震度6以上の地震が起こったら、4号機の核燃料貯蔵プールが壊れて、チェルノブイリの10倍の放射性物質が拡散することを、日本以外の国々のメディアが懸念しているそうです。日本の終わりどころではない、世界の人類の存亡にも関わる大迷惑を日本がやらかす可能性が膨らんでいます。
 そうでなくても、最近は放射能に汚染された瓦礫や汚泥を、全国に拡散して焼却したり川や海に流したりしていますから、今後全国的に国民の被曝が進むでしょう。すると国民全体の寿命が縮み、健康を害する人たちが増えるでしょう。
 また、今度生まれた新しい政権では、その指導者が選挙前から憲法を改定して、自衛隊を国防軍にするという方針を明らかにしています。「徴兵制を導入すべきだ」という政治家や財界人も少なくありません。
 いきなり徴兵制を導入しなくても、国民の中から進んで国防軍に志願する若者が現れるような仕組みを作る事はできます。
 一見全く関係がないようですが、今は「教育現場にもっと競争原理を導入しろ。成績の悪い者、素行の悪い者は自己責任だ。退場させろ」という気運が高まっています。また学校間でも競争を激しくし、優秀な学校は資金援助し、そうでない学校や定員割れを起こすような学校は潰せという方針をとる自治体も出て来ています。
こういう事をするとどうなるのか、上澄み液をすくうように、優秀な人材を育成するというのはいいとしましょう。しかし、その一方で落ちこぼれもたくさん出てきますし、学校が淘汰されて少なくなると、そういうお勉強のできない子らを引き受ける学校が無くなってゆきます。つまり進学先が無くなります。すると働くしかない。当然、低学歴ですから収入の良い仕事や常勤の定職に就くのは難しくなります。
 そしてさらに、そういう若者に追い打ちをかけるのが、今度の政権が検討していると言われる、最低賃金の引き下げです。そういう事をされると、ただでさえ食べてゆくだけでいっぱいいっぱいの人が、更に食べるのに困るようになります。
 若い人で、まだ体力もある、しかし収入が少なすぎるし、仕事は不安定だし、貧困から抜け出すチャンスなどありえないという状況に置かれた人が行く所というと、どこか……?
 それはもう軍隊しかありません。国防軍に志願すれば、腹一杯飯が食えて、家族も養えて、兵役の義務期間を終えたら、大学への進学という特典も受けられるという、アメリカの軍隊でも実際に導入されているような仕組みを作れば、学歴の無い、体力はある、国防色・日の丸・君が代・特攻精神が大好きな若者が、どんどん志願してくるでしょう。

今笑う者に禍あれ
 そして実は、まだ徴兵制などができていなくても、もう既に現在、戦争状態のような危険な作業を引き受けて、実際に命を縮めながら、「日本の為に俺は命を張ってるんだ!」と言いながら、闘っている人びとがいつ現場が日本のあちこちにあります。それは何か。原発労働者です。
 原子力発電所というのは、実は事故など起こらなくても、定期点検をするために一旦運転を止めて、原子炉内の除染作業をしないといけません。それは、原子炉に中心部に入って、雑巾がけをやるような、どうもスマートではない作業を必要とします。そういう場所では普通の人間が自然界から受ける放射線の150年分を、数分間で一気に浴びることになります。
 そういう所で働くのは電力会社の人ではありません。下請けの、そのまた下請けの、そのまた下請けという具合に最後はヤクザが一番下請けになって、ホームレスの中でも元気そうな人や、ネットカフェを転々としている(これも一種のホームレスと言えますが)、流れ者の派遣労働者の若者をスカウトしてきます。「俺みたいなんでも、お国のために役に立てるんか。ほな行くわ!」と言って連れて行かれます。そして、3年から5年のうちにガンか白血病か、あるいは何らかの放射線障がいで死んでゆきます。
 その人たちは、自分たちの仲間の労働者がどんどん早死にしてゆくのを見ながら働いていますから、自分もそのうち死ぬことはわかっています。それを承知の上で「お国の為に」、ある人は覚悟して、ある人は絶望しながら働いている。そういう現実の上に、我々が日々使う電気が生み出されているわけです。
 ですから、政府、国会議員の多く、また財界人の人びとにとっては、今、原発労働者として送り込まれているような低学歴の落ちこぼれを、今度は国防軍に割り振るだけだということなんでしょう。そのような国の為に命を捨てるような仕事をする人間を安定供給するためには、学校教育をもっと厳しい競争に追い込んで、落ちこぼれをたくさん作り、最低賃金を下げ、生活保護もカットし、原発か軍隊に行くしかない、そういう人間を生み出せばいいわけです。
 ですから、私に言わせれば、原発推進、労働問題の悪化、教育の競争激化、徴兵制というのは、一体のものです。一貫性のある悪魔のような策略によって今日本が動かされつつあるという感覚を持っています。
 もしイエスが、このような私たちの社会の現実を見たら、どう言うでしょうか。
 「今泣いている人は幸いなり!」と絶叫するのではないでしょうか。そして、「今笑っているあなたがたに禍あれ!」そう言って、この社会に安住して豊かに、満腹しつつ、笑っている人びと、とりわけ権力や経済の中心にいる人びとに呪いの言葉を浴びせ、国会議事堂で大暴れして逮捕され、死刑にされるでしょう。
 そういうイエスの真似をするのが、私たちにとって最善の策ではないとは思います。しかし、イエスが何に怒り、何を嘆き、そして誰を愛し、誰のために怒ったのかを思い、これから私たちがどう生きてゆくのかということを真面目に考えないといけないのだろうな、と思います。
 皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。



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