愚かなほど気前良く

2013年1月27日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

説き明かし約18分間+分かち合い約29分間=計47分間
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聖書:マタイによる福音書5章38~42節 (新共同訳・新約)

  「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない。





説き明かしと分かち合いの録画(約47分間)


右の頬を打たれたら
 おはようございます。そして、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 さて、今日の聖書の箇所ですが、非常によく知られている箇所だと思います。特に
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)という言葉は、クリスチャン以外の人にもよくご存知の方がいらして、「クリスチャンって『右の頬をぶたれたら、左の頬をも向けなさい』って教えられてるんですよね?」と言われて、ほんまにそんなことできるんですか? みたいな、何か奇妙なものでも見つめるみたいな目で見られることがあります。
 まあ実際、自分が頬を殴られたら、自分に非があった場合はともかく、やっぱり腹が立ちますし、仕返ししてやりたくなります。
 現実的に考えて、我々の普段の生活で人に殴られるというようなことは、なかなか無いような気がしますが、それでも意図的にか偶然にかはともかくとしても、人から酷い目に遭わされるとか、言葉や態度でひどく傷つけられるという事はよくあります。
 そういうとき、「もっと私を傷つけてもいいんだよ」という態度は取りにくいですよね。大抵は、もう口も聞きたくないと思うし、顔も見たくないと思うのではないかなと思います。ましてや、殴られたりしたら、殴られるというのは、単に殴られた場所が痛いとかそれだけではなく、非常に侮辱されたという気持ちになりますから、相手をもうどうしてやろうかと思いますよね。
 この「右の頬を打たれたら」というのは、特にそういう侮辱的な暴力のことを言っている可能性があるようです。というのは、この時代、右手は清い役割の手で、左手は汚れたものを扱う手、という考えがありましたから、たいていの人は右利きです。ということは利き手で人を殴ろうとすると、大体左側の頬を殴ることになります。そんなにうまく殴れるものでもないかも知れませんが。
 ところが、ここでイエスは右の頬を打たれたら、と言っているので、右手で右の頬を打つとなると、手の甲でペンとはねのける形になります。これは、普通に痛めつけるための暴力というより、侮辱する、馬鹿にするという意味合いが強いという解釈があるようです。
 相手が圧倒的に強い相手なら泣き寝入りということもありますが、相手のやったことが、このように侮蔑的な行為ですと、「この野郎!」と思ってしまいますよね。
 ですから、「ちょっとこの命令を守るのはつらいなぁ」というのが本音です。特に、たとえば自分のことは我慢できるとしても、自分の子どもが危害を与えられたとか、命を奪われたとなると、「復讐するな」というのは酷な命令ではないだろうかと思います。
 私はクリスチャンであっても、「聖書に書いてある事を文字通り守ることが本当にベストなのか?」という疑問を持ってもかまわないという考え方をしていますので、書いてある通りにできない自分という存在も自分で認めてあげるべきだと思っていますから、これができなかったからどうのこうのといったことは、自分にも他人にも言いません。

太っ腹のすすめ
 しかし、それにしても、この新共同訳聖書の言葉は無難すぎると言いますか、キチンとし過ぎていて、ちょっとカタいところがあります。
 そこで、今日は岩手県の大船渡在住のカトリック信者であられ、『ケセン語訳聖書』でよく知られている、山浦玄嗣さんの『ガリラヤのイェシュー』という福音書の日本語訳を引用してみたいと思います。この本ではイエスやその弟子たちといったガリラヤ地方出身者はケセン語(岩手県気仙地方)で、またエルサレムの祭司たちなどは京都弁、商売人たちは大阪弁、エリコの徴税人ザアカイは名古屋弁といった風に工夫を凝らしていますので、なかなか楽しく読めます。
 で、今日のマタイによる福音書5章の38〜42節を、イエスのケセン語で読んでみます。
 すると、小見出しですが、新共同訳では「復讐してはならない」とありますが、山浦さんの訳では「太っ腹のすすめ」となっています。この小見出しは実は本来の聖書の原典には無いものなのですが、こうして見ると、訳した人がどういう意味に解釈したのかということを知る手がかりにもなりますね。新共同訳に携わった先生は「復讐してはならない」というのがこの箇所のテーマだと思ったわけですが、山浦さんにとっては、ここは「太っ腹のすすめ」に読めたということです。
では朗読します。
 「お前さんたちも聞いている通り、『目には目を、歯には歯を』と言われている。加えて、この俺は言っておく。ろくでなしの馬鹿者にはまともに抗うな。誰かがお前さんの 右の頬を叩いたら、左の頬も突き出してやれ。
 お前さんを訴えて、下着を奪おうとする者には、上着も添えてやれ。
 半里の道を重荷を背負わせて無理やり歩かせようとする輩には、いっしょに一里歩いてやれ。
 お前さんたちに頭を下げて、何とか貸してくだされという言うその者どもには貸してやれ。銭を都合してくだされと言うのなら、そっぽを向くな」(マタイ5:38-42、山浦玄嗣訳『ガリラヤのイェシュー』イー・ピックス出版、2011、p.40)

 どうでしょう。なかなかいいと思うんですが。
 新共同訳聖書の方を読んでも、注意深く読めば、やっぱり話が「復讐するな」から、後半は「気前良くしてやれ。太っ腹で与えてやれ」という話に変わっていっていることがわかります。ケセン語で読むとより一層このニュアンスが強まりますね。
 「右の頬を叩かれたら、左の頬も突き出す話」、「下着を取る者に上着も与えてやる話」、「1ミリオン行けと言われたら、2ミリオン行ってやる話」(ミリオンというのは今のマイルの語源で、約1.6kmのことです)、「お金を貸してくれと言われたら、貸してやれという話」、いずれも復讐をするなという事にポイントがあるのではなくて、要するに「気前良くしてやれ」ということに話が向かっているのですね。
 「殴りかかってくる奴や、物を取りに来る奴、自分をこきつかおうとする奴、金を貸してくれと言って来る奴。色々いるが、そういう奴らに対しては、大きく構えとけ」とイエスは言っているんですね。

誰かが気づくだろう
 しかし、「そんな事をしたら、相手はもっとつけあがって、もっと色々な物を要求してくるぞ」と考える人もいるでしょう。また、多少親切な人からも、「お人好しも大概にしておけよ」と笑われるかも知れません。
 けれども、イエスはそういう人から笑われるような事をやってみなさいと言っているんですね。あえて愚か者になって、世の中の普通の人とちょっと違った物の考え方、振る舞い方をしてみなよ、というわけです。
 そうすると、100人が100人、同じように自分のことを嘲笑うかというと、そうでもないと思うんですね。
 私は営業マン時代、営業の研修の場で、講師の先生と自由にディスカッションする時があり、誰かがこんな質問をしたことを憶えています。
 「先生は100人のお客さんにセールスをして、何人くらい商談を取る自信がありますか?」と。すると講師の先生は、「私だったら……」と考え込んで、数秒後に「私だったら、100人にセールスをしたら、3人は勝ち取る自信がある!」と答えたんですね。
これを聞いてみんな黙ってしまいました。沈黙です。
 100人に当たって、3人のお客が商談に応じてくれる。そんな低い数字で、それが「自信」とか「成功」とか言える率なのか……と、我々新人営業マンは軽くショックを受けてしまったのですね。
 これ以来、今に至るまで、私は「100分の3の理解が得られたらいい方だ」と考えるようになりました。人にすぐ影響されるんですね。
 100分の3です。45人の教室で1人か2人、70から80人の職場で2人か3人、自分の言っていることを理解して受け入れてもらえたらいいと考えます。
 しかも、例えば100回のトライのうちの3回の成功が、いつ来るかはわかりません。1回目のトライですぐにゴールを取れるかも知れません。でも、その後ずっと失敗が続いたら、かなり精神的には辛いものがあるでしょう。
 あるいは、100回のうち、97回目まで失敗し続けるかも知れません。やっと98回目のトライで最初のゴールが取れるかもしれません。そして私たちは、例えば98回目にゴールが取れるかもしれないのに、97回目で「こりゃもうダメだな」と諦めてしまっているかも知れません。
 そう思って考えると、100人相手に太っ腹で気前良く接していると、案外3名以上の人が反応してくれたりするものではないでしょうか。
 こちらが、貸してくれという人に貸してやり、やれと言われた以上の事をやり、自分を傷つけた人に笑顔と優しい言葉で返し……という態度を取り続けていると、100人中3人よりも、ひょっとしたら多くの人が気づいてくれるのではないかと思うのですね。
 相手が、「あれ? なんだよ、変なやっちゃな、こいつは……」と思い始めたら、もうこちらの勝ちです。「あ、ありがとう……」という言葉が相手から引き出せれば、しめたものです。そこが突破口で、さらに同じ人にトライを続けていると、次第に相手も笑顔になってくれたりする。そういう希望は案外頻繁にあるものではないか。そんな風に人に接する事が報われることはあるのではないかと思います。

我が為す事は神のみぞ知る
 また、もし報われなくてもいいじゃないか、とも思えるのですね。
 みなさんご存知、坂本龍馬は16歳の時に、こんな歌を詠んだそうですね。
 「世の人は 我を何とも 言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」
 これをキリスト者風に言うならば、
「我が成す事は神のみぞ知る」と言い換えてもいいと思うんです。
 「世間の人が言いたいのであれば、言いたいように言わせておこう。私のやりたい事は私だけが知っており、神だけが知っておられるのだ」。そういう心意気です。
 私たちから奪おうとする者、私たちに悪意をもって接する人に対して、私たちは仕返しをするのではなく、むしろ太っ腹に構えて、笑顔と優しさで接してみたい。そしてその事で、何かが本当に変化し始めたらそれは大層嬉しいことだけれども、そうは簡単に事が変化しなくても、そういう生き方をする私のことを神さまはわかっていてくださるはずだ、と思えばいいのではないでしょうか。
 そういう生き方を世間の人は笑い者にするかもしれませんが、神がご存知だからいいのではないでしょうか。
 パウロも、
コリントの信徒への手紙(一)で、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」(1:23)、「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」(3:18)と言っています。
 世の中の人が愚かだと思うことが、私たちの神の知恵です。
 太っ腹の愚か者で行きましょう。
 今日の説き明かしはここまでです。今度は皆さんの思いをお聴かせ下さい。



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