この人を見てください ~月になろうよ~

2013年4月21日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と解き明かし(32分間)+分かち合い(25分間)=合計57分間です。
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る



聖書:コリントの信徒の手紙(二)4章1−6節 (新共同訳・新約)

 こういうわけで、わたしたちは憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
 わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。
 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。






説き明かしと分かち合いの録画(約57分間)


パウロの危惧

 おはようございます。今日は、この午後に行なわれる教会総会の場で審議されることになる、2013年度の教会の年間課題聖句として提案させていただく聖書の箇所に基づいて説き明かしと分かち合いの時を持ちたいと思います。
 このコリントの信徒への手紙(二)は、数あるパウロの手紙の中でも、もっともパウロの心の中にあるものを告白したものと言われています。パウロの手紙には、いわゆるプライベートなものは一つもないのですけれども、それでもこの第2コリントは、もっともパウロの個人的な本音を語っているものと言えるそうです。ですから、この手紙を読むことで、パウロ自身がどういう信仰を持っていたのかがよくわかるわけですね。
 それから、もう一つ留意しておきたいのは、この第2コリントを書くにあたって、あまりパウロとコリントの教会の人たちとの関係はうまくいってないんですね。
 例えば、パウロはコリントの人たちから「あれでも本当に使徒なのか」、「信頼するに値するのだろうか」という不当な評価を受けていたらしいです。これに対して、パウロは自分が使徒であり、神から特別な役割を授かっているということを、この手紙の中で一生懸命弁明しています。
 また、パウロはコリントの教会の人びとが、自分が伝えた信仰の内容を歪めて、曲げてしまっているのではないか、ということも非常に心配しています。今日お読みしたところも、そういうパウロの危惧の念があからさまに表れていますよね。

全ての人の良識に委ねる

 例えば、今日お読みした4章の1〜2節でも、
「わたしたちは……卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず」(2コリ4:1-2)としつこいようにたたみかけるパウロの言葉を読むと、コリントの教会に何かパウロが問題だと思うような状況があって、それを「本人たちが気づくように」と願いを込めてたたみかけていることがわかります。
 そして、そのような「卑劣で隠れた行い、悪賢い歩み、神の言葉を曲げるようなあり方」に対し、パウロは、
「神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」ようと言います(4:2)。つまり、「真っ直ぐで、嘘のない、明らかなもの」に依って立とうじゃないかと呼びかけているわけです。
 そして、
「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と。これは、受け取り方によっては非常に誤解を招きやすい表現のように思います。ここでの「良心」という言葉は、むしろ「良識」と読んだほうがよいとしている注解書もありましたが、つまるところ、コリントの教会の中に良心が満ちあふれているというのではなく、むしろ、教会の内外を問わず、全ての人たちにあるはずの良心/良識に委ねようじゃないかと言っています。
 言い換えると、「あなたがたの依って立つところが、真っ直ぐで、嘘がなく、それが誰からも明らかなものであれば、周囲のすべての人の良心に訴えるものであるはずだ」という、一種の挑戦状のような言葉です。
 とても勇気のいることです。すべての人の良心/良識に共鳴するような生き方ができる人間などいるでしょうか。

覆いを取り去る

 次いでパウロは3節で、
「わたしたちの福音に覆いがかかっているとするなら、それは滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです」(4:3)と言います。
 「滅びの道をたどる人びと」というのは、パウロにとって福音を信じない、信じようとしない人びとということですが、そのような人びとの心に対しては、いわば福音が覆われている状態なのだと言っています。
 この「覆われる」という言葉にパウロがどういう意味を込めているのかを知るために、少しこの手紙の言葉を前の方にさかのぼってゆくと、たとえば前のページの下の段、3章の14節以降に、
「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(3:14-16)と書かれてあります。
 つまり、パウロに言わせれば、古い契約またはモーセの書、すなわちユダヤ人の掟である律法ですが、その律法の本来の根本精神である、「人を活かすための掟」という狙いが見落とされてしまい、逆に形式主義的になって、「守らない者は罪人である」といった裁きの道具になりさがってしまった状態。これを、「鈍くなって、覆いが掛かっている状態」と呼んだわけですね。
 これに対して、イエス・キリストがこの覆いを取り除いて、「人を活かす」本当の神の望みを明らかなものにしてくれた、と。
 にもかかわらず、
「今日に至るまで」(3:14, 15)。という言葉をパウロは2回も繰り返していますけれども、イエスがせっかく神の本当に思いを明らかにするために覆いを取り除こうとしたのに、「今日に至るまで」ユダヤ人が律法を礼拝で読むとき、そこには覆いがかかったまんまだ、と言っています。でも、イエスの方に向き直れば、「覆いは取り去られます」よ、とも勧めています(3:16)

再び覆いがかけられる

 ところが、今日の聖書の箇所で読みましたように、パウロは、せっかくイエスによって覆いが取り去られたのに、その大事な福音に、また覆いがかけられてしまっているではないか、と指摘しているわけですね。4節では、信じようとしない人の目は、この世の神(すなわちこの世を支配する神)によってくらまされていて、福音が見えないようにされてしまっているんだ(4:4)、とパウロは言います。
 が、さて、本当に神が、信じようとしない人の目をくらますようなことをするのか。そうパウロは言っているわけですが、神さまが本当にそんなことをするかというのは、私は疑問だと思います。
 救いの道をたどる者は、神によって心の目を開かれているものであり、滅びの道をたどる者は、神によって心の目をくらまされているのだ、という話を聞くと、いわゆる「決定論」とか「予定説」と呼ばれるものを連想してしまうのは私だけでしょうか。
 宗教改革者の一人、カルヴァンの「決定論」あるいは「予定説」というのは有名ですが、私は不勉強でどうもいまいち理解できていません。
 ある人の書いた書物によれば、それは、「『滅びる奴も救われる奴も予め決まってるんだから仕方がない』という意味ではなくて、救われたと思う人は、『自分の救いは予め神のご計画の中にあったのだ』、『わたしはわたしが救われる前から、神の救いの計画の中に覚えられていたんだ』と喜ぶようになる。そういう感情がわくということが、いちばんカルヴァンの言いたかったことだ」というようなことを読んだ記憶があります。
 まあ、それを参考に、もう一度パウロに戻って考え直すと、パウロが「信じない人というのは、神が目をくらましたのだ」と言うのは、要するに「救いも滅びも神のみぞ知る運命なんだ」ということだったのかもしれません。「信じようとしない人は、神から目をくらまされている。しかし、あなたが信じようとすれば、神は覆いを取り去って、あなたの目の前に神の思いを示してくださるだろう」ということなのではないかと思います。

この人を見てください

 そして5節に進みます。
「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)。これを、2013年度の課題聖句として提案させていただきました。
 
「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(4:5)とありますが、確かに私たちは、自分の栄光のために宣教をするわけではありませんよね。「ほら、わたしって素晴らしい人間でしょ? わたしって良い生き方をしてるでしょ?」と、自分を誇るためにキリストの道を宣べ伝えるわけではありません。
 「わたしを見るが良い!」というセリフは、もう完全にこれはわざとナルシストの真似をして笑いを取るためのネタの言葉になってしまっていますよね。「見るが良い!」「この私を見るが良い!」と。
 しかし、キリストの道の宣教は、これとは全く正反対の心のありようになるはずです。「見るが良い」ではなく、「この人を見よ」。「見よ」という日本語も、今時はちょっと上から目線じゃないかと嫌がられるかもしれませんから、もうちょっと丁寧に言ってみて、『この人を見てください』でしょうか。
 「この人を見てください。この人にわたしたちは出会い、この人の教えと行いに心魅かれ、導かれ、この人に救われて、今も信じて頼りにしているんです」という思いで。「このイエスを見てください」ということを表していくのが、私たちの証の生活ではないかと思います。
 「わたしではなく、この人を、イエスを見てください」と。

イエスのために

 そして5節の後半、
「わたしたち自身はイエス・キリストのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)
 私、この言葉を読みますと、マレーシアにイスラームの勉強をしに行った時のことを思い出すんですね。あちらのムスリム(イスラームを生きている人)の方々が本当に親切丁寧に接してくださって、色々気配りしてくださるんですね。そこで、「本当にありがとうございます」と言うと、「これは、あなたのためにしている面もあるけれども、それよりもアッラーのためにやってるんですよ」と言われたことがあるんですね。
 それを言われた瞬間、私はちょっと軽いショックを受けました。というのは、「なんだ、ぼくのためにやってくれているんじゃなくて、神さまのためにやっているのか。ぼくに対する好意ではないのか」と思ったからです。
 しかし、よく考えてみると、相手を好きだからとか嫌いだからという自分の主観とは関係なしに、アッラーが望んでおられることだからという理由で、分け隔てなく他人に対して親切をするというのは、実はとても良いことなんだと気づきます。
 好きだから愛する、嫌いだから突き放す、というのは非常に自分本位で、愛の行為が好き嫌いの感情に根ざしているので、好きという気持ちが薄れたらその愛の行為は無くなります。
 それとは全く反対に、嫌いとか憎いとか、そういう強い感情があるわけではないにしても、特別お気に入りの人というわけでもない平凡な出会いの中で、相手の人に丁重で親切な態度で接するということは、平和な社会を営むにはとても大切なことですよね。
 ですから、人と接する時に、自分が相手に好感を持っているとか、自分が相手に好感を持ってほしいとか、自分は何か善い人間や人格者にならなければといった思いをちょっと置いておいて、たとえばキリスト者なら、「イエス・キリストのために、あなたに仕えましょう」という意志決定ができればいいんだけどね、ということなんだろうと思います。
 まあ、それにしても、「あなたのためにではなく、イエス・キリストのためにやってるんですよ」なんていうようなことを、ここでのパウロみたいに、いちいち言葉に出すと、いらぬ誤解を受けそうですから、真似はしないほうがいいのではないかな、とは思います。
 そういうことはいちいち言葉には出さずに、心の中で、「イエス・キリストのために、あなたに仕えますよ」という気持ちを抱きながら、全ての人に接するということができれば、それが理想なんでしょうね。それによって、好き嫌いで動く感情からも、自己中心的な損得勘定からも自由になれるのではないでしょうか。

顔の覆いを取り除く

 そして最後に6節
、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(4:6)。ここでパウロは、「光」「輝く」という言葉を何度も語っていますね。このピカピカのイメージも、先ほどと同じように、3章とのセットで続く文脈で読むとわかりやすくなります。
 3章7節以降を読んでみますと、
「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです」(3:7-11)。とあります。
 これも、バッサリと簡単にまとめてしまいますと、「元々モーセが神さまから受けた律法が、かつては栄光あるものということになっていたんですが、今はもうそれは消え去るべきもので、イエス・キリストの福音のほうが、もっと優れた栄光を帯びていて永続的なんだ」と言っているんですね。
 また3章18節を見ると、
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(3:18)と書いてあります。
 また「覆い」という言葉が出て来ていますが、要するに「私たちの顔の覆いが取り除かれて、キリストの栄光を受けて反射する鏡のようにピカピカに光りますよ」ということですね。そして、それは「キリストと同じ姿に造りかえられることに等しいんだ」というわけです。

太陽と月

 そういう言葉を前提にして、再び4章6節に戻って来ると、「闇から光が輝き出よ」と命じた神ということが言われていますから、パウロの頭にあったのは、間違いなく創世記の天地創造の場面ですね。「光あれ」という。
 あの、闇の中に光を生み出す神の力が、今は我々の心の内に光を与えて、そうなることで私たちは神の栄光を反射して輝くんだ、とパウロは言っているのですね。
 まあ、この場合の「光」とか「栄光」が「輝いている」とかいうのは、物理的に観察できる光ではなくて、すべて象徴的な表現なので、何を言っているのかわからない人にはわからないということになりそうですけれども。
 ここまでの話もまた、バッサリと簡単にまとめてしまうと、要するに、また象徴的な言葉で表現しますけれども、「私たちは自分で輝くのではなく、神の光を反射しながらこの世で生きるんだよ」ということではないかと思います。
 自分を良く見せたいから善いことをするわけでもなく、また自分が好きな相手だから愛するのでもなく、ただ、イエス・キリストのために自分を明け渡してささげる気持ちで日々を生きるということです。
 いわば、太陽と月ですね。神さま、あるいはキリストであるイエスが太陽。私たちは月です。私たちは自分から光を発するものではありません。けれども、キリストの光を受けて、それを反射する生き方は可能です。神からの光を反射しながら、闇の中でも輝く人生を歩けたらいいですよね。
 そして、私たちが反射している光が、闇夜の中を歩く人に、ひょっとしたら道しるべとしてでも役立つことができれば、非常にありがたいことではないでしょうか。
 説き明かしは以上といたしますが、皆さんは、どのようにお感じになられたでしょうか。



Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール