見えなくてもそこにいる

2013年5月5日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と解き明かし(24分間)+分かち合い(38分間)=合計62分間です。
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聖書:ルカによる福音書24章13−35節 (新共同訳・新約)

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。
 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。






説き明かしと分かち合いの録画(約62分間)


エマオ途上での物語

 おはようございます。今日は復活祭から5週目の日曜日ですね。あと2週間経つと復活祭の日から数えて50日目、7週後の日曜日でペンテコステの出来事をお祝いする日がやってきます。そこで今日は、イースターからペンテコステの間に起こったと伝えられている事を記した聖書の箇所を選ばせていただきました。よく知られているエマオへ向かう道での出来事として描かれている物語です。
 この物語も、聖書に書かれてあることを、文字通りの事実として受け取るのではなく、もっと深い心の真実を描き出したものとして、私たちが私たちの間に蘇りのイエスを迎え入れるうえで大切なことを学ぶのに適した聖書の箇所だと思います。
 簡単に要約しますと、2人の弟子ともう1人の旅人がイエスの生前の活躍とエルサレムで殺されたことを話しながら旅をしていたのですが、その時点ではこの旅人がイエスであるとは弟子たちには分からず、宿に泊まってパンを裂くとイエスだとわかった。しかし、分かった瞬間にイエスの姿が消えたという物語です。

死を悼むだけの弟子たち

 
「エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村」(ルカ24:13)が現在どこにあるのかは、はっきりしていないようです。2000年も経ってしまうと町や村も無くなったり、移動したりで、必ずしも現在の町や村と一致しないことはよくあります。ただ、エマオというのはエルサレムから西の方に11〜12キロほど行ったところだということです。
 その村に向かいながら、2人のイエス派の弟子が話をしながら歩いていました。この2人はペトロやヨハネ、ヤコブといった大物の弟子ではなくて、それらの指導者に率いられていた末端に近い弟子だったと考えられます。そのうちの1人の名前はクレオパという人であると記されています(24:18)。
 
14節「この一切の出来事について話し合っていた」と書いてありますが、「この一切の出来事」というのは、少しさかのぼって12節の(ペトロが)「この出来事に驚きながら家に帰った」という、その「出来事」を受けているので、イエスの生前の言葉と行ないと、そして死んで葬られたけれども3日目には墓が空っぽだったという出来事のことを指しています。
 この話の内容は、そのまま19節から24節までの部分に記されているとおりです。彼らはイエスを
「行いにも言葉にも力のある預言者」(24:19)だと見なしていました。そして、イエスを「イスラエルを解放してくださる」(24:21)政治的リーダーだと期待をかけていました。しかし、ユダヤ人社会の指導者であった祭司長たちや議員たちがイエスを処刑に追い込んでしまった。イエスは処刑されて墓に納められましたが、3日目の早朝、イエス派のメンバーであった女性たちが墓に行ってみると、遺体がなかった……という出来事ですね。
 この時点では、この弟子たちは、イエスが生前、行いにも言葉にも力のある預言者であったということに重きを置いていて、イエスが死んだことにガッカリしており、墓が空っぽだったと聞いて驚いている。それだけに留まり、それらの出来事に何か積極的な意味を発見してはいません。
 17節にもありますように、彼らは「暗い顔」をしていたと言いますから、単にイエスの死を惜しみ、嘆いているだけだったわけです。
 しかも彼らの側にイエスがいて、一緒に歩いてくれているのに、その事にも気づいていません。

イエス自ら聖書を語る

 ここで、この2人の弟子たちが話していることが、マルコによる福音書の終わりの部分のように、「お墓が空っぽだった」という所で終わっているのは大事なポイントだと思います。つまり、誰も蘇ったイエスが肉体の姿で現れたのを見たとは言っていません。
 そして、実はイエスはこの2人の弟子と一緒に歩いているのですが、2人はその人がイエスであることに気づかない。こんなおかしな話はありませんが、これは私たちの心の目が開かなければ(24:31, 45参照)、イエスが一緒に歩んでくれているのだということには気づかないのだよ、と言っているのですね。
 特に、この福音書を書いたルカさんは、この福音書と使徒言行録(使徒行伝)の2冊をワンセットで書いた人ですが、この2冊によって、エルサレムからローマに向かって、福音が「西へ、西へ」とローマ帝国の全体に広がってゆく様子を描こうとしている意図が強いと言われています。そういう意図が背景にあることを考慮して読むと、エルサレムから西へ向かって旅する弟子たちとイエスが共に歩んでいる。そして28節にもありますように、弟子たちが目指す村に近づいても、イエスはなおも西へ進もうとされたとありますから、イエスは西へ向かって、当時の世界に向かって宣教するイエス派の人たちと共に歩む、それどころか、イエスの方がどんどん先に進んでいるんだよというメッセージをルカはこの物語に込めています。
 しかしともかく、この弟子たちはまだ歩いている間は、イエスが共に歩んでくださっていることに気づいていませんし、暗い顔をして生前のイエスを悼んでいるばかりです。
そこでイエスは、
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(24:25-26)と嘆き、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24:27)と。
 後づけではありますが、32節を見ると、この2人の弟子は、
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(24:32)と言っています。「聖書」とここで呼ばれている書物は、いわゆる旧約聖書ですが、旧約聖書の預言を吟味して読めば、イエスの受難と復活にちゃんと意味があるはずだとわかるよ、と。そしてその旧約聖書のメッセージを受け取るとき、君たちの心は燃えるだろうと言っているわけですね。

イエス自らパンを裂く

 さて、夕方になります。食事の時間になります。
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(24:30)とあります。
 これはもう言うまでもなく、聖餐式のことを表しています。夕方になり、食事の時間になる。5000人以上の人に食事を与えるという奇跡の物語も同じです。聖餐式の事を思い起こさせるようになっています。
 聖餐のパンを裂いたとき、
「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(24:31)
 ここまでの物語で、この2人の弟子は、肉眼でイエスを確認できませんでしたし、パンを裂いたとき、「あ、イエス様だ」とわかったけれども、やっぱり肉眼でイエスを確認しないまま終わっています。
 当然のことですが、復活したイエスは肉眼で見る事のできるような、墓場から帰ってきたゾンビのような存在ではありません。
 そうではなく、聖書を読み、パンを裂くという行為、聖餐の礼拝の中で、イエスがそばにいるということを心で感じることが、蘇りのイエスと出会うということです。
 しかも、興味深いことに、この物語ではイエス自身が聖書を説き明かし、イエス自身がパンを裂いていることになっています。
 ルカは、私たちが礼拝で聖書を読み、パンを裂いて共に食す時には、イエス自身がそこにいて、聖書を説き明かし、パンを与えてくださるのだと思いなさいというメッセージを込めているようです。
 しかし、これは一歩間違うと危険なメッセージで、まるで聖書を説き明かし、パンを裂く牧師や司式者がイエスになりきってと言いますか、イエス気取りを演じてしまう可能性もありますので、そういう勘違いがないように釘を刺しておかねばならないところだと思います。
 牧師や司式者は、イエスに代わって聖書を説き明かし、イエスに代わって聖餐のパンを裂きますが、それはあくまで役者がある歴史上の人物を演じるようなもので、実際にはその歴史上の人物その人ではない、という当たり前すぎることですが、牧師の中には実際イエス気取りも時々おりますので、そこの所をわきまえておかないといけないな、と自戒を込めて思っております。

能のような礼拝

 説教者も司式者も、イエスという配役を、礼拝という舞台で演じる者に過ぎません。その舞台も、おそらく能や狂言のように、きちっと様式として定まっていて儀式のようであり、お面をかぶって役者の個性が生々しく出てこない演劇のほうが、礼拝に近いのではないかと思います。
 おそらく、ルカがこの福音書を書いた時代、まだイエスの生涯と死と復活を、旧約聖書を通して説明するときの、説明の仕方というか解釈の仕方、それからそれを表現する論法がそれほど多様ではなく、割と型にはまった様式で語られていたのではないかと思います。ですから、礼拝の中でイエス自らが説き明かし、イエス自らがパンを裂く、といったことがイメージしやすく、また司式者の個性によってそのイメージが壊されるということも無かったのではないかと思います。
 この点は、現代の特にプロテスタント教会とは大幅に違いますよね。説教中心型の礼拝で、しかも自由な神学が発達していますし、説き明かしを行なう牧師も自分の個性を丸出しにしますので、なかなか説き明かしにおいて、「イエスが聖書を説き明かしてくださっている」というイメージを持つのは、かなり難しいと思います。
 けれども、説き明かしを語るその人自身にイエスを重ねることはできなくても、説き明かしというのは、説き明かしている本人の意図とは違ったように聴き手には受け取られることが多々あり、それを私たちは「聖霊の働き」と呼んでいますけれども、話している人間が考えている以上の素晴らしいメッセージを聴き手が受け取っていたりすることがよくあるんですよね。また、だからこそこうして恥ずかしげもなくしゃべることができていたりもします。
 「最終的にはイエス様の送ってくださる聖霊が働いてくださるから……何とかなるやろう」と思えるからこそ、人前でお話もできるのですね。
 ですから、やはり究極的にはイエスが、この欠点だらけの説き明かし人を用いて、何かを伝えようとしておられるんだろうということは、皆さんに思っていただきたいと願っています。

見えなくてもそこにいる

 そういうわけで、このエマオに向かう道中でイエスと出会う話が私たちに伝えようとしているのは、礼拝において、聖書を読むこと、また聖餐のパンを裂く行いの中で、そこにイエスが共にいるということを感じ取ることが、蘇りのイエスと出会うことなのだということです。
 そのイエスは肉眼で見える姿では決して現れませんし、およそ2000年前に、「イエスは神に蘇らされた」と言われた当初から、肉眼で見える復活のイエスは存在しませんでした。
 肉眼でイエスを見るのではなく、聖書を読み、聖餐を分かち合う中で、その聖書と聖餐の意味を、「これがイエスの伝えたかったことだ」、いわば「イエスの遺言だ」と受けとめて、あたかもそこでイエスが語り、パンを分けてくださるのだと心に深くイメージを描けることが、蘇ったイエスと出会うということです。
 ですから、イエスの肖像画や写真など、また彫刻による像のようなものは無い方が良く、空白あるいは空席にしておいたほうが、むしろイエスの存在をリアルに感じることができるかもしれません。
 目で見るのではなく、心の目で見る。目に見えなくても、心でそこにいることがわかる。イエスの思いがわかる。それがイエスの復活であると言えるでしょう。
 説き明かしはここまでと致します。

※図版(上)『エマオへの道』(ロバート・ズント)
※図版(下)『エマオの晩餐』(カラヴァッジオ:1606)



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