隔ての壁を超える者たち

2013年5月26日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と解き明かし(30分間)+分かち合い(24分間)=合計54分間です。
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聖書:使徒言行録2章1−13節 (新共同訳・新約)

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。






説き明かし(30分)と分かち合い(24分)の録画(計約54分間)


ペンテコステ、おめでとう

 おはようございます。また、ペンテコステおめでとうございます。先週、私は別の教会に行っておりましたので、一週間遅れになりますが、今日はペンテコステについてのお話をしたいと思います。
 ペンテコステというのは、ギリシア語で「50」という意味です。イエス・キリストの復活をお祝いするイースターから数えて50日目ということで、日本語では「五旬節」と呼びます。一般的には「キリスト教会の誕生日」と言われています。先ほど朗読していただいた聖書の物語にあるとおり、神からの霊がイエスの弟子たちに降ってきて、弟子たちが色々な国の言葉で語り始め、そこからキリスト教の伝道が各地に広がっていったとされているので、「教会の誕生日」とも言われています。

民族と宗教の壁を超える

 色々の国の言葉で話した……。ここでは9節以降に、パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネ、リビア、ローマ、クレタ、アラビア……といった地方の名前が列挙されていますが、これは聖地エルサレムを中心にして、東西南北を見渡したあらゆる地方の名前です。
 エルサレムは現在のパレスティナ地方にありますが、そこから東の方はイラクやクウェートなどインド洋に面したあたり、西はギリシャやエーゲ海沿岸地域を超えてイタリア、北はシリアからトルコ、南はアフリカ大陸の北部のほぼ全域に至るまで、当時人が行き来していた全世界を指すと思われます。
 つまり、イエスの福音は全ての地域、全ての人種、全ての民族に対して開かれており、地域・人種・民族の壁を超えて浸透するということを表しています。
 また、ここでとりわけ重要なのは、11節に「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり」(使徒2:11)という言葉があります。
 キリスト教は、そもそも元来はユダヤ教の一派に過ぎませんでした。ユダヤ教というのは、ユダヤ人の宗教というより、「ユダヤ人であること」、あるいは「ユダヤ的であること」と言ったほうがよいもので、ユダヤ人であればユダヤ教徒であり、ユダヤ教徒になればユダヤ人になる、というのが、このユダヤ教の特徴です。
 しかし、この聖書の箇所では「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もいる」と書かれています。本来なら、ユダヤ人以外の人がユダヤ教に改宗すると、その人はユダヤ人になります。ところがそのようには書かれておらず、ユダヤ人とは区別されて「改宗者」と書かれています。
 実はこの時期、世界各地に散らばって住んでいるユダヤ人の影響を受けて、ユダヤ教に改宗する異民族もいました。しかし、完全にユダヤ人になって、例えば割礼を受けるとか、厳しい食物の定めを守るといったことはせずに、ユダヤ人の信仰だけを取り入れて生きる人びともいて、そういう人たちは「神を畏れる人たち」と呼ばれていました(使徒13:16他)。
 そして実は、このユダヤ出身ではない異民族だけれども、ユダヤ人に近い信仰を持っている人たちがいて、そういう人たちが後々、キリスト教の担い手になっていったわけなんですね。
 ですから、そういうことを踏まえて、この聖書の記事は、キリスト教がユダヤ教の一派であるという状態から、一歩踏み出し始めているよ、と知らせてくれているのですね。
 イエスの福音は、ユダヤ教という民族宗教の枠を超えて、民族・宗教の分け隔てを超えて伝えられてゆくんだよ、ということを暗示しているように私には思われます。

翻訳の宗教

 さて、キリスト教は「言葉の宗教」であるとよく言われます。実際の状況を踏まえて更に言うと、「翻訳の宗教」であるとも呼ぶことができると思います。キリスト教は言葉の宗教ですが、それはあらゆる言葉に翻訳されることを許している宗教です。
 言葉を翻訳するという作業には、必ず訳した人の解釈が入ります。割り切った言い方をしますと、あらゆる民族の言葉に直されて福音が伝わってゆくのを良しとするということは、ある程度、その民族にわかりやすい形に変形しても良いということになります。
このあたりは、例えばイスラームとは大きく異なります。
 イスラームはもちろんキリスト教と同じような世界宗教であり、民族の壁を超えて世界に広がっていますが、基本的には翻訳というものに権威を認めません。
 イスラームの聖典「クルアーン(コーランと呼ぶ人もいますが)」は、「アラビア語で書かれたクルアーンだけが本物のクルアーンであり、他の言語に翻訳されたクルアーンは、クルアーンの解説書・解釈書に過ぎない」という立場を徹底しています。
 「翻訳は解釈に過ぎない」というのは全く正しい考え方でして、イスラームの人びとからキリスト教を見ると、「翻訳するたびに意味が少しずつズレていく。あんなので本当にいいのか?」と疑問を抱いてしまうのだそうですが、それもある意味もっともです。
 キリスト教は、そこまで徹底はしません。そもそもイエスやイエスの弟子たちが話したのはアラム語、祭司や律法学者が話したのはヘブライ語、ピラトなどローマの駐留軍の人びとが流したのはラテン語、そしてそれらの人びとの物語を記した新約聖書はギリシア語で書かれています。
 ということは、イエス自身の言葉さえ、もうすでに聖書に書かれた時点で、イエスが使っていなかった言語に翻訳されて伝わっているわけです。

愛してるよ

 翻訳にまつわる話では、例えば、明治時代の文豪、夏目漱石が「I love you.」という英語をどう訳したかという話は広く知れ渡っております。
 夏目漱石が英文学の授業をしていて、ある小説の「I love you.」という言葉を、学生が「我、汝を愛す」と訳したのに対して、「そこは『月が綺麗ですね』と言いなさい」と教えたという話があります。
 これが実話であるかどうかを疑う人もいますが、それにしても、明治時代の日本人にとって、「我、汝を愛す」と直訳するのは、いかにも無粋というか、品性に欠けていて、ちょっと堪えられなかっただろうという含みがよく伝わるお話です。
 「月が綺麗ですね」というひと言で、愛が伝わるなら、そのほうが奥ゆかしい、味わいのある会話だと言えるのではないでしょうか。これは英国人や米国人が「I love you.」と直截に伝えるのとは違う感性であり、日本人的な解釈を施してしまっているわけですが、それはそれで新しい意味合いが付け加わっても良いではないか、翻訳というものはそういうものではないか、と言えないこともないのであります。
 初めて日本語に訳された聖書は、1837年にギュツラフという宣教師が出版したヨハネによる福音書ですが、なかなか良い日本語を選ぶのに苦労したあとが伺えます。
ヨハネによる福音書の冒頭、
「初めに言があった。言は神と共にあった」(ヨハネ1:1)という文言は、「ハジマリにカシコイモノゴザル。コノカシコイモノゴクラクトモニゴザル」と訳されています。「言」は「カシコイモノ」、「神」は「ゴクラク」という日本語になっていますね。また「愛」、「愛する」という言葉は「メグミ」あるいは「カワイガル」という言葉を使っています。
 更に時代をさかのぼって、1500年代末期にポルトガルやスペイン、ローマに派遣された天正少年使節団の訳した文書の中には、「愛」を「ご大切」と訳したものがあります。例えば、
「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39他)という言葉を、「わが身を思ふごとくぽろしもを大切に思ふ事」という言葉で表現しています。「ぽろしも」というのはポルトガル語で「proximo」(プロクシモと読むのでしょうか?)、「隣人」という意味の言葉だそうです。「隣人を愛する」、すなわち「ぽろしもを大切に思ふ事」、「愛する」という言葉が「大切に思ふ」と訳されています。
 「大切に思ふ」、あるいは「カワイガル」。そういう言葉で「愛する」という行為を表現することが認められていたところに、キリスト教の言葉の緩やかさ、寛容さがあるように、私には思えます。

自分の言葉、自分の行ない

 そういうわけで、キリスト教は「言葉の宗教」ではありますが、「翻訳を許す言葉の宗教」です。
 翻訳することによって、一番最初に話した人、書いた人の伝えようとしたことが、ある程度、幅をもって解釈されてゆくことを許している宗教だとも言えると思います。
 本日の礼拝のためにお読みした、このペンテコステの物語で、各地のあらゆる民族の言葉で使徒たちが語り出す有様から読み取ることができるのは、イエスの福音があらゆる人種、民族、国境を超えるのだということと同時に、あらゆる人種、民族、国民それぞれの言葉によって解釈され、意味が広がることを許しているということです。
 これはある意味、リスクを伴うやり方です。あまり度外れた解釈が登場すると、それが本当にイエスの伝えようとしたことの主旨に合っているだろうかということが問題になるときがあります。
 けれども、人間の物の考え方が一人ひとり異なっているように、言葉というものの解釈も、厳密に言えば一人ひとり異なります。解釈を一切差し挟まないで単に一致した言葉の羅列だけを浸透させることを、私たちは洗脳、あるいはマインドコントロールと呼びます。
しかし、キリスト教は洗脳でもマインドコントロールでもありません。
 「愛する」という言葉を、「いじめる」、「虐待する」という言葉に翻訳する人はまずいないでしょう。けれども、「愛する」という言葉を、「カワイガル」という言葉に置き換えても、「ご大切にする」という言葉に置き換えても、それはあながち外れてはいません。
 同じように「愛する」という言葉を、個々人がどのように解釈して、どんな別の言葉で表現し、どんな行いで実現するかは、一人ひとりに任されています。
 「愛しなさい」と教えられてはいますが、どのように愛するかはそれぞれの自由です。 「こうでなければならない」という原理主義、一致主義は、本日のペンテコステの聖書の箇所からは読み取ることができません。
 むしろ、自分の言葉、自分の解釈、それが人と違っていても、根底にあるものが通じ合っていれば、構わない。お互いの表現の仕方や行い方が異なっているからこそ、そういう人が協力して共に生きる時に、豊かさが生まれてくるのではないかと思います。

風・息・霊

 最後に、やはり言葉の翻訳や解釈に関連して、聖霊が降るということについて一言述べて終わりたいと思います。
 「霊」という言葉は、原語のギリシア語では「プニューマ」といいます。しかし、「プニューマ」という言葉は、霊という意味と同時に風や息という意味も含みます。
1節から4節にかけて、五旬祭の日に一同が祈っていると、激しい「風」が吹いてくるような音が聞こえたと言います。
 それから「炎」のような「舌」が現れて一人一人の上に留まり、一同は聖なる霊に満たされて、「霊」が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したとあります。
これは全て、霊のことであり、風のことであり、息のことだとお分かりいただけるでしょうか。
 古代人にとっては「風」は「霊」であり、霊が風の形で体を出たり入ったりしているのが「息」です。息という風が動いている間は、その人は生きているのであり、息が止まったとき、体から霊が出て行ってしまって、その人は死にます。
 生きている間、その人は自分の霊を呼吸していますが、時折、悪い霊が入ってくる事があると、その人は病気になります。
 逆に聖なる霊(すなわち聖霊ですが)が入って来ると、その人は神の霊に満たされて語る事になります。
 語るという行為も、息を使って行なうことですよね。言葉を発するというのは、息を使って話すわけですから、自分の霊が言葉になって出て行くんです。聖なる霊が体に入った人は、聖なる霊が命じるままに話すと考えられたのですね。
 そして、この聖なる霊は天から炎の姿で現れました。炎もまた彼によって燃えるものですね。炭火を熾しているとき、フーッ! と息を吹き込むと炎が上がります。それは炎に霊の力を注ぎ込んでいるという風に古代人には感じられたのですね。
 そして、私たちの体の中にも、命の炎、あるいは心の炎があって、それは霊の息によって燃えるわけです。ですから、イエスが側にいてくれたとき、
「心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)というのも、そういう感性から出て来た言い方です。
 この古代人の感性は、科学的ではありませんが、私たちにも感覚的には通じるものではないかなと思います。
 神の霊が呼吸する息のように自分の中に入って、私たちの心を燃やし、その同じ息で言葉を発することで、福音が伝わってゆく。その福音は国境や民族や言語といった、全ての隔ての壁を越えて、自由に形を変えながら伝わってゆきます。
 私たちも、この自由な神の言葉、イエスの言葉を、霊と共に受けて、この世に通じる言葉と、自分なりの行いで人に伝えてゆくものでありたいと思いますが、いかがでしょうか。




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