天罰なんか、ありません

2013年6月9日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と解き明かし(37分間)+分かち合い(31分間)=合計68分間です。
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聖書:創世記6章5−8節 (新共同訳・旧約)

 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。






説き明かし(37分)と分かち合い(31分)の録画(計約68分間)


原爆

 おはようございます。
 今日は、最近私がいただいたメールのお話から始めようと思います。
 私のホームページにはQ&Aのコーナーがありまして、メールでのご質問を受け付けるということも書いてありますので、時々質問のメールが来ています。
 その中で、最近の世の中のニュースの動き、特に第二次世界大戦中の軍隊慰安婦をめぐるいくつかの政治家の発言に対して、韓国のメディアから、「日本に原爆が落ちたのは、神の懲罰だった」というコメントが出されて、騒がれました。
 メールを送ってくださった方は、「この『神の懲罰』というのは、キリスト教のことを言ってるんだ」と言っていました。それはどうなのかなぁと正直思いましたけど、この韓国のメディアのコメントは日本への原爆投下だけではなく、ドイツのドレスデンの爆撃も同じだと言っていたんですね。だから、これはキリスト教の神だと言うんです。いまいち納得がいかなかったのですが、要するにこのメールの送り手さんは、私に対して、「おまえはどう考えているのか。原爆投下を天罰だと信じているのか?!」また、「こういうことを信者に言わせるキリスト教という宗教、およびその聖典である聖書は、非常に危険な書物ではないのか?!」と問いかけてこられたわけです。
 私は、この質問に対して、戦争も宗教も、その宗教の聖典も皆人間が作り出したものであり、宗教やその聖典が危ないのではなく、それらを作り出した、また悪用する人間自身が危ないのではないか、というようなことを答えましたが、その後先方からはお返事がないので、納得していただけたかどうかわかりません。

震災

 私は、このような戦災を含む災害が天罰かどうかという話は、基本的に好きではありません。
大体、天罰がどうのこうのということを口に出す人は、自分は安全なところにいて、被害に合わずにいながら、被害者を見下して悦に入っているだけです。
 私がこのことに関して、個人的にいちばん嫌な思いをしたのは、今から18年前に起こった阪神淡路大震災の時のことです。
 その当時私は会社を辞めて同志社大学の神学部で学んでおり、京都に住んでいました。それこそ地震が京都を直撃していたら、跡形もなく潰れていたであろうような、安いボロアパートに住んでいました。
 震源は兵庫県でしたが、京都でも激しい揺れを感じました。それで最初は、京都が揺れただけだと思っていたのですが、やがて、道路が大渋滞になり、電車が止まっているのを見て、事態は自分が想像していたよりはるかに大きなことになっているのだと気づきました。
 テレビをつけてみると、神戸の阪神高速の高架が何キロにもわたって横倒しになっており、私が幼い頃過ごした須磨や長田の街も壊滅状態。特に長田は大火災で街全体が焼け野原になっていました。
 私は、電車も止まっているし、道路は渋滞しているし、バイクで行くしかないと思って、中古の原付を買って須磨の実家へと向かいました。
 そして実家の父親、母親を見舞って、それから中学生の頃通っていた教会の牧師の家を訪ね(その教会の牧師館も完全に壊れていました)、その後、弟の連れ合いの実家が全壊している中を、弟と2人でヘルメットかぶって潜り込んで、頼まれた預金通帳を取り返しに行ったりなど、いろいろとできることはやって再び京都に帰ってきました。
 京都の私の住んでいたボロアパートには、ある新興宗教の信者さんが2世帯住んでいました。そのうちの1人の信者さんが、「うっとこの神戸の神殿はビクともせんかったらしい。やっぱり正しい宗教が違うわ。キリスト教の教会さんはぎょうさん壊れたらしいなぁ」と、大きな声でズケズケと言ったので、私は負けないぐらい大きな声で「やかましいわ! 黙っといてくれんか!」と怒鳴ってしまいました。
 宗教とか神とかを持ち出して、自分は正しいだの、人は間違っているだの、人が災難にあうのは天罰だとか、そういう論議ほど腹が立つことはありません。被災者の家族としては、憤りを抑えることができませんでした。
 ついこないだの東日本大震災でも、どこかの政治家の誰かさんが、 「これは天罰だ」などとマスコミの前で言いました。またマスコミも、「なぜこんなにひどいことが東北の人々に襲ってしまったのか」などと、いかにも人間を超越した運命が東北の人たちを痛めつけたかのような論調ではやし立てました。
 これに対して、ご自身も被災者であられるカトリックの山浦玄嗣さん(やまうら・はるつぐ:『ケセン語訳聖書』や『ガリラヤのイェシュー』などの執筆者です)も非常に怒っておられ、「なぜ東北の人たちが、と言うが、『なぜ』と問うな」と言っておられます。

宗教

 災ごとがあると、やたらと元気になって動き回る宗教者がいます。
東日本でも、「これは神の怒りによるものだから、悔い改めなさい」と言って、伝道して回るキリスト教のグループがあちこち現れていたそうです。
 私の知り合いの教師の話では、以前、北海道の奥尻島を地震と津波が襲った後、生徒たちを連れてボランティアに行ったら、 「もうキリストさんは結構ですわ」と被災者の人に言われたといいます。それはなぜかと聞いてみると、キリストさんは助けてくれるよりも、伝道するからかなわんと言うことだったそうです。
 もっとも、この奥尻島での話には後日談があって、だんだんと月日が経ち、最初はたくさん来ていたボランティア団体やNPOなどが、だんだんと引き上げていく中、最後まで支援の手を緩めず留まったのはキリスト教会関係のグループだったということで、逆にキリスト教の評判が良くなったということでした。しかし、最後まで留まったキリスト教会関係者と、最初に「天罰だから悔い改めなさい」と伝道していた人とは、まったくの別人であったことはまず間違いないでしょうね。
 宗教といっても、所詮は人間の作ったもので、結局どう運用するかは、運用する人自身の人間性次第だなと言うことがよくわかります。

天罰

 原爆の話に戻りますが、日本に原爆が投下されたのが、神の御業であると信じているクリスチャンは、確かにアメリカにはたくさんいるようです。
 原爆が落とされた数日後、日本が降伏したときに、これは神のみわざと、神が戦争を終わらせてくださった、と多くのクリスチャンが神に感謝したといいます。
 実際、沖縄に上陸したアメリカ軍は、次は九州及び本土に向かって上陸作戦を行わなくてはなりませんでしたけれども、人間魚雷や特攻機に乗って命を捨ててでも攻撃をしてくる日本兵と上陸戦を交えるのは、まっぴらだと思っていた兵隊が多かったと聞きます。
 あるテレビの特集で、太平洋戦争から帰ってきたアメリカ兵の孫のインタビューを見たことがありますが、「原爆が落とされたから戦争が終わった。原爆のおかげでおじいさんは日本上陸をせずに済んだ。だからこそ今の僕がいる。おじいさんが日本で死んでいたら、僕はこの世に生まれることができなかった。原爆のおかげで僕はここに存在している」と言い、「原爆が落とされたことは神の御業と思って感謝している」と話していました。
 数十万人もの命を一瞬にして奪い、その後も数百万人もの人たちに放射線障害を与えた悪魔のような核兵器が、それを投下した側の国においては、神の恵みの御業であると称えられている。
 それは、キリスト教に限らず、あらゆる宗教が持つ落とし穴という事ができると思います。
 人間は宗教によって救いを得ることができますが、「救われたのは神が私たちを愛されているからだ」と判断してしまった瞬間、「救われていないあの人たちは、神に愛されていないのだ。それは本人に原因があるに違いない」ということになってしまいます。その2つの論理は表裏一体です。
 自分を「選ばれた者だ」と思い込むことは、他者を「選ばれなかった者」として裁くことと同じことです。

洪水

 今日の聖書の箇所は、神が人間を作った事を後悔し、全員この世からぬぐい去ろうとしますが、ノアだけには神は好意を抱いたので、ノアの家族だけは救おうとした、というお話です。
 先ほどから申し上げている、「神に気に入られた人間は生き残り、神の気に入らない人間は滅ぼされる」という論理です。
 聖書を批判するというのは勇気のいることで、あまり頻繁にすることは憚られますが、それでもやはり人間の集団が作った書物であり物語である以上、どうしても批判せずにはおれない部分も出てきます。
 今日の箇所はそういう場所だと思います。
 この物語は、ユダヤ人の先祖たちが、紀元前6世紀にバビロン捕囚、つまり現在のイラクのある辺りですが、バビロニア帝国に強制連行された。その捕囚の時代に作られたものであると言われています。
 バビロニアというのは、要するにメソポタミア文明の子孫ですけれども、メソポタミアには古くから「ウトナピシュテム」の物語というものが代々言い伝えられていました。その「ウトナピシュテム物語」の中に、主人公のウトナピシュテムが神々から「洪水を起こすぞ」と知らせられて、船を作って、洪水を生き延びるというエピソードがあります。ノアの箱船と洪水の物語は、この「ウトナピシュテム物語」から着想を得たものではないか、と言われています。
 ただ、ウトナピシュテムとノアの物語が違うのは、ノアの物語には、神が洪水を起こしたのは人間の罪に対する報いで、ノアだけは神の好意を受けたのだ、という罪に関する意味づけの部分です。
 バベルの塔が、バビロニアのバビロンの塔をもじっていて、神に近付こうとする傲慢が神の怒りを招き、言葉をバラバラにするという罰を与えた……というのと共通する面がありますが、このノアの箱船の物語でも、ユダヤ人たちは神の怒りがバビロニアを罰するであろう、という意味づけを与えているのではないか、と推測する人もいます。
 実際、バビロニア帝国は、何度もティグリス川・ユーフラテス川の氾濫に苦しんでいたようですが、それは我々神に選ばれたユダヤの民を連行し、苦しめているバビロニア人への、神の罰であろうと解釈された可能性があるというわけです。

慰安婦

 そうなると、これは現在の韓国と日本の関係と似たものがあるのではないかと思われてきます。
 日本は戦時中、韓国人を、強制であったか、強制ではなかったとか、軍部あるいは政府が関与していたか、していなかったとか、いろいろなことが言われていますが、要するに多くの日本兵が、韓国人の女性たちを性的欲求のはけ口として利用する、慰安用の奴隷として利用していたということは事実でしょう。これは日本に限らず、戦争中にはよく行われているというのが現実だそうですが、とにかく日本人は戦時中、韓国人女性を性における奴隷として扱った。
 しかし、今、日本の政治家たちがマスコミの前で堂々と、慰安婦という事実は無かったとか、あれは自発的なものだったとか、あるいは(これは敗戦直後の日本でも、占領軍のアメリカ兵に対して、同じことが言われていたそうですが)、そういう慰安婦あるいは売春婦がいるからこそ、国内の大多数の女性の貞操が守られたのだ、慰安婦や売春婦は身を挺して祖国を守る防波堤であったとか、だから現在米軍基地の兵士も風俗業をもっと利用しろとか、もう無神経で異様で非道な発言がポンポン出てくる現状を目の当たりにして、そりゃ韓国の人が怒るのも無理はないだろうと思います。
 しかし、そこで「原爆は人の手を借りた神の懲罰であった」と言うのは、ちょっと違うだろうと、私は思います。
 そんなことを言い出したら、「韓国人女性が慰安婦にされたのは、日本人の手を借りた神の懲罰かもしれない」とも言えるわけで、お互いの感情を逆撫でするだけの、何の実りもない不毛な論議です。
 実はユダヤ人は、バビロン捕囚自体は、バビロニア人を使って自分たちユダヤ人を裁いた神の懲罰だと解釈しています。だから旧約聖書には「民全体の悔い改め」ということが大きなテーマになっています。
 しかし、
 不毛な論議ですから、言われたことに同じように言い返しても埒が明かないし、相手にしないに越した事はないと思います。
 ただ、「神」という言葉を持ち出して物事を言う人がいる限り、神を信じる者としては、一応はっきりしておかないといけない線はあると思います。
 それは、「天罰/神の懲罰といったようなものは、この世には無い」ということです。

天罰など、無い

 天罰などは、ありません。
 もし、神が本当に天罰を下すのであれば、むしろ原爆を投下しろと命令した人間に下すのではないでしょうか。あるいは異国の女性を無理やりだか騙したか、あるいは稼ぎのない足元を見て、「いい仕事があるから」と言って連れてきて、兵隊の慰安用の奴隷にした者が天罰を受けるべきではないでしょう。
私がこれまで目にしてきた範囲、出会ってきた人びとの範囲の中でのことではありますが、その限りで言わせていただければ、多くの人がもっともっと些細な事で、人間は神さまから罰を受けたのではないか、あるいは罰を受けるのではないか、と思っています。
本当に、私はそう言う人の話を聴いていて、「あなたが罰を受ける前に、もっと先に地獄に落ちなきゃいけない奴はたくさんいるよ! 原爆を落とした奴。アフガニスタンやイラクで現地の一般人を殺しまくってる奴。放射能で全国民に被曝の被害が出るのをわかっていながら利権のために原発をやめることができない奴。いろいろひどい奴はたくさんいるし、罰を受けるんならそいつらの方が先でしょう。(あるいは、あなたが罰を受けねばならないなら、私なんかはその何倍も罰を受けないとおさまりませんよ……と心の中でつぶやく事も度々です)」。
 そいつらが天罰も受けずにのうのうと生きて、豊かな老後を送る。被害者のほうが次々と命を奪われてゆく。
 どこに神はいらっしゃるんでしょうか。神は黙ったまま何をしているんでしょうか。
 むしろ、神が愛であり、すべての人を同じように愛しているのならば、なぜ、原爆を落とすスイッチを操作する兵士の手を止めてくださらなかったのか。なぜ地震を止めてくださらなかったのか、なぜ津波を止めてくださらなかったのか。
 色々な人と話し、見たり、聴いたり、考えたりした結果、現在のところ私が得た結論は、「神は何もしない」ということです。

神は何もしない

 神は何もしません。戦争を止めてはくださらないし、災害も止めてくださらない。しかし同時に、決して戦争を始めさせたりもなさらないし、災害を起こしたりもなさらない方です。
 2001年9月11日、同時多発テロが起こり、テロリストに乗っ取られた2機の旅客機が超高層ビルに突入し、旅客機の乗客はもちろんのこと、ビルの中にいた人びとも含め、およそ3000人以上の命があっという間に奪われました。
 そのニュースを聞いて、「ざまあみろ! 神の裁きだ!」と躍り上がって喜んだ人びとが、アメリカに反感を持つ人が多い国ではあったようですが、逆にアメリカでは「神さま! どうしてこのような仕打ちをなさるのですか!」という嘆きが広がりました。
 あの時、神はなぜ何もして下さらなかったのか。
 あの時、神はどこにいたのか。イエス・キリストはどこにおられたのか。
 あの頃、そのことに悩んでいた時に、ある人が私に教えてくれました。
 「あの時、イエスはあそこにいたんだ」と。
 「あの時、イエスは、ビルに突入する旅客機の中に、また倒壊するビルの中で、焼かれ、押しつぶされ、引きちぎられて死んでいった何千人もの人と一緒にいた。そして、 今もあの瓦礫の下に埋もれているのだよ」と、その人は教えてくれました。
 私たちの信じるイエス様、また神さまは、何もしません。人間が生きるか死ぬか、命を守るか殺すかは、すべて人間自身の責任です。
 ただ、イエスも神も、痛む人と共に痛み、傷つく人と共に傷つき、命を奪われる人と共に命を奪われ、苦しみを共にしてくださっています。
 十字架につけられたまま、苦しみの只中で、同じ苦しみを受けている人に、「あなたは今日、私と共に楽園にいる」と声をかけてくださるイエスは、今でも、いつでも、苦しむ人間の隣人になってくださる。無力ではあるけれども、決して私たちを見捨てない神とイエスの愛を信頼し、その愛に応答して生きたいと思うものです。




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