どうぞ誰でもおいでください(「誰に対しても開かれた恵み」改訂版)

2013年6月30日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と解き明かし(19分間)+分かち合い(53分間)=合計72分間です。
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聖書:ルカによる福音書5章27−30節 (新共同訳・新約)

 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」







説き明かし(19分)と分かち合い(53分)の録画(計約72分間)


徴税人

 おはようございます。
 今日は私たちのイエスが、どのように人を受け入れ、どのように人と交わりを持ったかということがよくわかるエピソードを聖書の箇所から選びました。
 イエスが徴税人であったレビを弟子にし、彼の家で食事を共にしたという出来事です。
 徴税人というのは、読んで字のごとく税を徴収する人です。それもただの税金ではなく、ローマ帝国に支払う税金を集める仕事です。
 当時のユダヤ人は、ローマ帝国という軍事大国に占領されている状態で、ユダヤ人として神殿に収める税金と、占領国に払う税金の二重税制に苦しんでいました。
 この状態を今の私たちがリアルに想像しようと思うと、現代の何にたとえることができるでしょうか。

沖縄

 例えば、沖縄には県の45%ほどの面積を占める米軍基地があります。これまでも米軍のヘリコプターが民家や学校に突っ込んだなどの墜落事故はたびたび起こっているにも関わらず、今また、すでに墜落事故が相次ぐ不良品だと報告されているオスプレイが配備されようとしています。
 また、沖縄に駐留する多くの海兵隊員が、地元で起こす暴力事件、民間人女性を襲うレイプの問題は、もう公然の事実になっています。
こういった問題に対して、私の地元に近い大阪市の市長が、「兵隊はもっと積極的に風俗業を利用せよ」と発言したり、「オスプレイを大阪府で受け入れても良い」と提案したりしています。
 ここで明らかなのは、大阪市長が「米軍の基地を日本に置くのは当たり前」、「米軍の兵士が女性を漁りたいと思うのは当たり前」という前提でものを言っているということですね。
 この市長さんが「大阪に米軍基地を受け入れる」と言っているということは、大阪でもオスプレイその他の米軍機の墜落事故の危険性、騒音、排気ガスなどの被害、そして、海兵隊員が大阪の女性を襲ったり、風俗業の大得意様になったり、ということを受け容れてもよいと考えているということです。
 八尾市に受け入れると言っていますが、八尾市の市長さんは反対しています。市民の中にも、賛否両論はあるでしょうね。
 このような状況を見て、ある沖縄のキリスト者が書いている記事を読みました。それによれば、「大阪の人たちがオスプレイの配備、海兵隊の駐留を受け入れるのは嫌だと思う気持ちはわかる。しかし、今までその嫌なことをずっと沖縄は負わされてきた。それが嫌だと言うなら、それを日本全体に代わって押し付けられている沖縄の気持ちもわかってほしい」と。
 この観点から考えると、「米軍が日本を守るために必要だと言うなら、沖縄だけに負担をさせるのはフェアではない。だから全国で負担を引き受けよう」と言う大阪市長の発言を支持する向きも出てくるでしょう。
 皆さんにおかれてはいかがお考えになるでしょうか。

基地の街

 聖書の話に戻りますが、要するに徴税人が負わされていた役割というのは、基地の街で海兵隊の基地の経費を、税金として集める仕事をしている日本人といったところでしょうか。
 ユダヤ人の土地に駐留していたローマ軍の兵士が、地元のユダヤ人に対して暴力をふるったり性犯罪を起こしていた可能性は非常に高いと思います。そのような状況でローマ軍に収めるための税金を集めるのですから、面白い仕事であるはずがありません。
 また、往々にして、庶民というのは、誰が本当に物事を操っている黒幕なのかとは関係なく、自分に直接圧力をかける黒幕の手先の方を憎たらしく思ってしまうものです。
 徴税人がローマへの税金を納めようと言い出したわけではありませんが、直接取り立てに来るのは徴税人なわけですから、その目の前の徴税人が腹立たしい存在に見えてくるのですね。
 更に、ユダヤ人は非常に民族意識が高く、自分たちが神に選ばれた特別な民であると思っています。他の民族を「異邦人」と呼んで見下しています。しかし、当時はその異邦人であるローマ人に支配されていますから、これもまた非常に面白くないわけです。
 ましてや、そのローマ人たちに課せられた税を、同胞であるはずのユダヤ人が集めているというのですから、非常に非常に面白くない。
 ですからもう徴税人というのは、売国奴、非国民であります。また、神に選ばれた民族の富を異邦人に渡しているのですから、神に対する反逆者であり、したがって清い神から離れた者、すなわち穢れた者、すなわち罪人として、非常に嫌われました。

スキャンダル

 その徴税人であったレビにイエスは声をかけ、弟子にしました。それだけでも一般のユダヤ人が眉をひそめそうな事件ですが、加えてイエスは、レビの家で食事を共にしました。
 これも一種のスキャンダルで、罪人と一緒に食事をするなどというのは、まともなユダヤ人だったら考えもしないことだったのですね。
 特にユダヤ人の中でもファリサイ派と呼ばれる人たちは、誰と食事をするか、あるいは食事をしてはいけないか、ということに非常に敏感でした。なにしろ、「ファリサイ派」という言葉自体が「分離派」という意味なので、さにあらんやという感じです。
 穢れた者や罪人と一緒に食事をするという行いは、穢れがうつることであり、自分も一緒に罪を犯すことでした。
 しかしイエスは、穢れた罪人の徴税人レビと一緒に食事をしました。
 それは「穢れがうつると言われてもいい、罪人だと言われてもいい、自分はあなたを受け入れたい、あなたの罪は赦されているとはっきり宣言することこそ、今なさなければならないことなのだ」という信念に裏打ちされた、それを罪だと言うなら、いわば確信犯的な行動でした。
 このイエスの行動の真似をするのは、なかなか大変です。世間で、「あいつは汚らわしいやつだ」とか、「あいつは裏切り者だ」と嫌われている人と仲良くなるのは、難しいことではないでしょうか。ましてや、その相手が罪を犯した人だったら、みんなの前でその人と仲良くしているところを見せるのは、かなり勇気のいることではないでしょうか。
 しかしイエスは、見る人によっては非常識で、神に対する反逆者ではないかと言いかねないような行いを通して、文字通り誰でも受け入れ、迎え入れる神の愛を示そうとしたんですね。

はじめに食事があった

 誰でも受け入れられ、誰もが歓迎される。それを実感してもらうために、誰でもが参加できる食事を催し、みんなで食べ、飲む。それがイエスの思い描いていた「神の国」のモデルでした。
 イエスは、世間で悪評がついているような人、穢れた者としてのけ者にされているような人を積極的に招き入れ、「あなたも神に迎え入れられている。あなたも神に愛されている」ということを必死に示そうとしていました。そのために自分が反逆者として裁かれて殺されるまで、その行動をやめませんでした。
 イエスに招かれた人びとは、それまでは周囲の誰からも「神から見放された罪人だ」と言われていましたから、おそらく自分のことを肯定することもできず、自分の人生に対してすっかりあきらめてしまっていたり、自分の運命を呪ったり、あるいは開き直って、あえて反社会的な行動を強め、「どうせ自分は地獄行きだ」と半ば自暴自棄のようになっていた人もいるでしょう。
 そのような人びとが、イエスが「一緒に食事をしよう」と言い出したのを聞いた時、なぜイエスがそんなことをしようとするのか、最初は理解に困ったでしょう。「なんで自分みたいな奴に声をかけるんだ。この男は?」と不思議に思ったのではないでしょうか。
 しかし、実際にイエスと一緒に食事をしてみて、与えられたパンについて神に感謝して、それを分け合い、与えられたぶどう酒についても神に感謝して、それも分け合って飲み合うなかで、「どうやらこのイエスという男は、俺も/私も、神さまに歓迎されているんだと言いたいみたいだな」と気づいたと思います。
 誰からも嫌われ、軽蔑され、神からも見放されていると思っている自分をその神との間を、イエスがとりもってくれようとしている。イエスが自分と神との間を一生懸命につないでくれるので、こんな自分も神さまに受け入れてもらえるのかな、愛してもらえているのかな、と思えるようになったのだと思います。
 それは、彼らにとっては、深い慰めと癒しであったと思います。
 そして、その深い慰めと癒しの食事が、後のキリスト教会の聖餐式ができあがる原型のひとつになったのですね。
 4年ほど前にこんな本が出ました。“In the Beginning was the Meal”と言います。これはヨハネによる福音書の始まりの、「初めに言があった」という言葉をもじっているんですね、『初めに食事があった』というわけです。
 まさに、最初にあったのは食事なんだということです。イエスが誰とでも食事をした。当時の掟や信仰を裏切ってでも、神から最も遠いと言われた人たちと一緒に食事をした。そしてその食事の中で、神から最も遠いと言われている人こそが、実は神から愛されているんだと必死に伝えようとしたんです。
 そのイエスの食卓があり、食卓を囲む人びとのグループが、後のキリスト教会の核となりました。食事から教会が始まったわけです。
 そういうことをこの本は書いてありますので、誰か早く日本語に翻訳してくれないかな、誰もやらないんならぼくがやっちゃうよと思っていますが……。
 このイエスが伝えてくれた神の愛と赦しを、食事の中でなんども思い起こし、追体験する、それが聖餐です。聖餐のもとになった「主の食卓」/イエスの食卓は、世間的に評判の低い者、世の中からドロップアウトしてしまった者、神から遠い者、穢れた者、罪人と呼ばれた人こそが招かれる食事だったわけです。

教会は今

 そのようなイエスの行いから始まった私たちの教会も、イエスのように誰に対しても開かれた場でありたいものですね。
 誰に対しても、そして、どちらかというと、世の中で生きにくい状態に追い込まれている人、あるいは信仰が無いと言われるような人こそ歓迎して迎え入れるような教会でありたいものです。
 そして、一緒に食事をして、「あなた、実は神さまに愛されているんだよ」ということを、迎えた人に伝えることができるような教会でありたいと思います。
 それができていれば、そこに本当の意味でイエスも共にいる教会であると言えるでしょう。
 説き明かしはここまでといたします。皆さんはいかにお考えになりますでしょうか。




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