キリスト教は「普通」です

2013年7月14日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と解き明かし(31分間)+分かち合い(32分間)=合計63分間です。
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聖書:ルカによる福音書5章27−30節 (新共同訳・新約)

 兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。







説き明かし(31分)と分かち合い(32分)の録画(計約63分間)


普通な社会の生きにくさ

 普通」という言葉を嫌う人が、ぼくの知り合いのキリスト者にはたくさんいます。ぼくもついこの前まで「普通」という言葉が好きではありませんでした。
 「普通」という言葉を使うとき、日本では往々にして多数派のことを指す場合が多く、お互い似たところのある者同士が同調して、少数派の人を「普通じゃない」とか、「なんか変」といった風に排除したり毛嫌いしたりするような風潮があります。
 ぼくの友人には、お互いに違っているという多様性を大事にしながら、認め合っていこうという考え方の人が多いので、こういう「普通」という言葉を非常に嫌う人が多いんですね。ぼくもそういう意味でこの言葉が好きではありませんでした。
 部落出身の人、障がいを持っている人、同性愛者……いろいろな人が「普通じゃない」という言葉ひとつで差別されます。あるいは、ただ単にちょっと人と考え方が違うとか、あるいはちょっと仕草が変わっているとか、ちょっと服装のセンスが違うとか、そういうことだけでも「普通じゃない」という言葉で排除される場合がよくあります。
 日本のことわざには「出る杭は打たれる」というものがありますが、実際日本人は、出る杭にならないように、ならないようにと努力する傾向がありますよね。とにかく目立たないようにしようとしたり。
 学校の授業をしていても、中学1年生の最初のころは積極的に手を挙げて質問や発言をしようとしていた子供たちが、少し成長するともう周囲の様子を見て、一言もしゃべらず、手も全くあげないというふうになっていきます。教室に向かって私のような教員が発問をしても、だんまりを決め込んだまま身動きもしません。仕方がないから1人を当てて無理矢理発言をさせても、小さな声でこしょこしょと言うだけです。近づいていって耳をすまして聞いてみると、ちゃんと正解を答えているんです。
 日本人というのはほうっておいたら必ずこうなります。人より目立つと言うだけでだめなんです。ですから制服が大好きですし、すぐクラスTシャツを作りたがりますし、人と違う意見を持たないように左右をよく確認して、他の人の意見を聞いてから判断します。
 こういう社会は、人と若干異なる個性を持っている人間にとっては、非常に息苦しい、生きにくい社会です。
 キリスト者は、イエスの生き方に習って、少数派の生きにくさに寄り添っていこうとしますし、実際キリスト者の中には、生きにくさを感じていた当事者であり、その生きにくさをイエスに救われた経験を持つ者が少なくありませんから、どうしても「普通」という言葉で人間を識別する風潮が大嫌いになります。もう「普通」という言葉を一言耳にしただけで、 「普通って何!?」と激しく疑問を口走らずにはおれない者が多いわけです。

普遍に通じる

 しかし、ぼくは最近「普通」という言葉に、別の意味のあることがわかって、少し「普通」という言葉を見直したい気持ちになってきています。
 職場の同僚が教えてくれたんですが、ある辞典によれば、 「普通」という言葉は、「普遍に通じる」という意味があるそうです。つまりよく使われるノーマルという意味ではなくて、ユニヴァーサルという意味を持っているんだそうです。「普通」と「普通じゃない」という切り分けがあるのではなくて、どんな状態に対しても普遍的に通じるという意味で、それが普通なんだという考え方があるということです。どんな状態でも受け入れて、呑み込んで、全部ひっくるめて、「どれもみんな普通だよ」「どんなに変わっているように見えても、どんなにお互い異なっていても、お互いみんなそれが普通なんだよ」と言ってしまえるということです。
 そう考えると、例えば各駅停車の列車のことを、なぜ「普通列車」と言うのか。これはなかなか深いのではないかと思えてくるのですね。
つまり、普通列車というのは、「全ての駅に停まる列車」ということです。普通というのは、全ての駅に対応できる。全ての駅にいる人を乗せて行くことができるという普遍性を持っているということです。
 普通列車と急行列車の違いは駅を選ぶか選ばないかということなんですが、急行や特急はどういう駅を選んでゆくかというと、だいたい乗り降りをする客の多い都市部や観光地の駅を選んで停車するわけです。

特急のパウロと普通のイエス

 実は初期のキリスト教というのは、そういう都市部や観光地のような人の集まるところを中心に広まっていった宗教なんですね。
 初期のキリスト教を世界宗教になるきっかけとして、今のヨーロッパの東半分に広めていった立役者として、パウロの働きは非常に大きかったということは皆さんよくご存知ではないかと思いますが、パウロの旅したルートを辿ってゆくと、彼が田舎のほうのひなびた村々をひとつひとつ回ったということは一切無いんですね。
 パウロは(もちろん徒歩ではありますが)、当時の各植民都市を結ぶ大動脈とも言える幹線道路を使って移動し、時には船を使って長距離を移動し、経済的にも政治的にも重要とされる大都市に入って、人が大勢集まる場所で講演会を開いて伝道し、関心を持った人たちを中心に教会を組織し、ある程度目処がたつと、また別の大都市を目指して移動するということを繰り返しているんですね。基本的に都会志向なわけです。各駅停車ではない。いわば、特急列車の伝道者です。むしろ、彼が移動した距離はものすごいですから、ひょっとしたら短距離の飛行機の旅と言ってもいいくらいです。
(写真はローマ帝国の幹線道路の一つ、アッピア街道)
 これに対して、対照的なのはイエスです。
 イエスは、基本的に田舎志向です。エルサレムの都から見下され、物の数にも入らないとされたガリラヤ地方の、湖のほとりの村々を回って歩いています。
 しかも、あまり国際派ではない。基本的にローカルなユダヤ人を相手にしています。結果的に異邦人の病気を癒したという記事はありますけれども、基本的には「私はイスラエルの失われた子どもたちのために来た」ち言っているくらいですから。
 彼の行動には、組織を拡大しようとか、世界に福音を広めようといった壮大な計画が感じられません。
 むしろイエスは、狭い範囲で旅をしながら、出会う人出会う人に声をかけたり、身分の低い人に神の愛を説いてみたり、病気の人の世話をしたり、見捨てられた人を食事に招いたり、女の人や子どもを大切にしたり、といったことを続けていました。
 最終的に彼はエルサレムの都に行きましたけれども、おそらくそれは、ガリラヤのローカルな地方の人々を食い物にして肥え太っている、都会の、特に神殿の権力者階級に挑戦するためであろうと推測している学者もいますけれども、もしそうだったとしても、ユダヤ人の都というのは、当時の世界では辺境の一民族の一宗教の聖地にすぎないわけで、世界的・国際的視野というには程遠い。
 結局イエスの人生のほとんどはローカル志向で終わるわけです。

各駅停車の旅

 というわけで、イエスの生涯は最初から最後まで各駅停車の旅であったと。
 どこの駅にも停まってゆき、どんな人でも乗せてゆく。その進み方は非常にのろい。目的地にたどりつくまで時間がかかる。しかし、どんなに乗り降りする客が少ないところでもちゃんと停まって、乗客を拾ってゆくわけです。
 私たちが福音を宣べ伝えようとするとき、パウロのように要所要所をおさえて、効率よく活動を進めてゆくことはもちろん必要だろうと思います。
 有名な講師を呼んで大きな集会を開き、たくさんの人を集めようとすることも悪いことではありません。しかし、その方法では手の届かないところにいる人たちもたくさんいるということを、心に留めないといけないのではないかとも思います。
 イエスは、各駅停車の旅の途中で、自分の出会う人に必要な癒しや諭しを与えていきました。そうやって「ひとりの人が、ひとりの人に」伝えなければ伝わらないものというのは、確かにあります。
 むしろ、キリスト教の福音、すなわち、「あなたは愛されていますよ」「あなたはゆるされていますよ」「神さまには、教会には、あなたを歓迎する準備ができていますよ」という大切なメッセージは、「ひとりがひとりに伝える」ことでないと、なかなか伝わらないのではないかと思います。
 「普遍に通じる」という言い方をすれば、少し話が大きく感じるかもしれませんが、要は自分が出会う誰に対しても誠意をもって、ということだと思うんですね。
 誰に対しても、イエスに与えられた勇気と愛で丁寧に接していくことが、最良の伝道であると言えるのではないだろうかと思います。
 ゆっくりで良し。そんなにたくさんの人を相手にするでもなし。少なくてもいいから、出会う人ごとに、それぞれに誠をもって接しながら、生きてゆく。そんな「普通列車」の人生も良いのではないでしょうか。
 「普通」ですから、どの駅にも停まって、誰でも乗せてゆきます。いろんな人がいますし、変わった人も、珍しい人もいます。しかし、神さまの目から見たら、みんな「普通」です。
 「普通」という言葉は「珍しくない」という意味も持っています。どんな人も神さまから見れば、「珍しくない」。誰もがありのままでみんな神さまの子どもです。
 排他的な「普通」ではなく、誰でも乗せてゆく、誰でもが「普通」な人として迎えられる教会でありたいと思いますが、いかがでしょうか。





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