人は生まれながらに罪深いか

2013年7月28日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と解き明かし(28分間)+分かち合い(44分間)=合計72分間です。
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る



聖書:ローマの信徒への手紙5章12−14節 (新共同訳・新約)

 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。







説き明かし(28分)と分かち合い(44分)の録画(計約72分間)


原罪なんか、ありません

 以前、この礼拝の分かち合いで、子ども時代から教会で「人間は罪深いものなんだ」という風に教え込まれてきたことをお話ししてくださった方がいらっしゃったり、この教会でかつてK牧師が「原罪なんかありません」とおっしゃっていたということをお聞きしました。そこで、私も罪に対して考えていることをここで述べてみて、みなさんのお考えも後でお聞きしたいなと思っています。
 結論から言ってしまえば、私も「原罪なんか、ありません」という立場です。
 原罪という考え方のもとになっているのは、今日お読みしたパウロによるローマの信徒への手紙の5章12節以降と言われています。ここには、アダムが神の禁じていたことに違反したために、人間界に罪が入り込み、その報いとして人間に死が入り込んだのだということが述べられています。そして、さらに読み進んで行くと、18節で「一人の罪(つまりアダムの罪)によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為(つまりイエスの十字架)によって、すべての人が義とされて命を得ることになった」(ローマ5:18)とパウロは述べています。
 ここでは「原罪」という言葉は使われていませんが、アダム以来ずっと人間には罪が受け継がれている、とパウロが考えていることはわかります。

自由意志と自己責任

 しかし、よく読んでみると矛盾があります。と言いますのは、彼は「すべての人に有罪の判決がくだされた」(18節)と言っています。さらに19節では、「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(19節)とも述べています。そうなると、人間の自由意志とか主体性というのはどうなるのでしょうか? ここだけ読むと、パウロは人間には自由意志とは関係なく、生まれた時から罪人なんだと言っているようです。
 しかし、その一方で、今日お読みした聖書の箇所では、例えば12節の後半では、「すべての人が罪を犯したからです」(12節)とも述べています。ここでは人間が罪を犯すのは、自分の行ないの責任だと言っているように読めます。一体、彼は罪において人間の自由意志が関係あると思っていたんでしょうか、思っていなかったんでしょうか?
 これに関して私が連想するのは、さらに読み進んで283ページ、ローマの信徒への手紙の7章15節です。そこにはこう書かれています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。17節後半にはこうあります。「そういうことを行なっているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。18節後半では、「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」。19節以降、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。
 こういう風にパウロは自分の考えを展開してゆきます。つまり、自分は確かに、生まれた後の自分の個人の人生において罪を犯している。しかし、それは自分の意志ではなくて、自分の中に住んでいる罪のせいなのだ、というわけです。
 ということは、非常に意地悪い言い方になりますが、彼は自分が悪いとわかっている。でも、それは俺のせいじゃないんだ、罪のせいなんだ、と言って、自分の責任を罪という何か抽象的なものになすりつけている、責任転嫁していると読めるわけです。
 こういう考え方は通常の人間社会では通用しません。何らかな具体的な罪に問われた時に、「おまえがやったんだろう」と責められて、「俺がやったんじゃない! 俺の中の罪がやったんだ!」と言っても、「何を言ってるんだ」「罪の意識が薄い」と逆に言われて終わりでしょう。
 しかし、その反面、人間には、悪いとわかっていても、やってはいけないと頭で分かっていても、やってしまう、誘惑に負けてしまうということが確かにあります。ですから、そういう意味では「望んでいることをできないのに、望まないことをしてしまう」という人間の性質をパウロは的確に表現している、と見る事もできます。
 おそらくパウロは、この後、イエスが人間の代わりに人間の罪の身代わりとして罰を受けて十字架にかかることで、人間の罪を全て贖い、それによって人間は義とされる(義というのは、正しい者、罪の無い者という意味ですが)。人間の意志を超えた義/正しさというものが、我々を善い方向に導いてくれる。人間の意志ではなく、キリストの義が人間に善い行いをさせる。そうなると生きているのは私ではなく、私の中のキリストなんだ(ガラテヤ2:20参照)……という風に理屈を展開してゆくために、そういう物の言い方をしたんだと思います。
 つまり、私たちが善いことや正しいことをしたとしても、それは自分の功績じゃないんだと。それは、キリストや、あるいは神がなしたわざで、わたしはその手足に過ぎない。だから自分を誇るのではなく、むしろ自分の中にキリストが宿って働いてくださるように、自分を明け渡そう、ということが言いたいんだろうと思います。
 「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(マルコ10:18)というイエスの言葉が伝えられているように、私が善い者になるのではなく、私の中に神が働いた時に、私は何か善いこと正しいことをするのだ、という謙虚さをパウロは言おうとしたのかもしれません。
 ですから、パウロの文章は、理解しようと思えば、なるほどと思わされる面もありますけれども、細かいところを突つくと、ちょっとおかしいんじゃないかと思わされる面の両方があります。

抽象的な罪

 原罪という教義を確定したのは、イエスやパウロよりも300年以上も後になってから現れた、ヒッポのアウグスティヌスという人です。
 アウグスティヌスは、ペラギウスという人が異端であるということを明らかにするために、いくつもの書物を書いていて、その中で原罪という考えを構築してゆきます。
 ペラギウスをやっつける上で、主に話題になっているのが、幼児洗礼の問題です。幼児洗礼は有効か無効か。つまり、赤ん坊は罪を犯す以前の清いアダムの状態で生まれてくるか、それとも、罪はパウロの言うようにアダム以来先天的に人間に備わっているものだから、生まれてきた時点で赤ん坊は罪人であるのか、といった論争です。
 そこから更に、人間に自由意志はあるのか。人間に罪を犯さずに生きるという自由意志はあるのかという問題に発展してゆきます。ペラギウスは、人間には自由意志があり、それによって罪を犯さないことも犯すこともあり得ると考えたらしいのですが、アウグスティヌスはこれを徹底的に批判してゆきます。
 そして最終的にアウグスティヌスは、人間は生まれた時から罪深い。罪は母親を通じて出産によって遺伝する。という考えを築き上げて、彼ほどたくさんの言葉を尽くして遺伝的な罪について述べた人はいませんので、それがその後のキリスト教会の原罪の教義として確立し、特に大きく見直されることもなく今に至っているわけです。
 しかし、私はこのようなアウグスティヌスの理屈を読んでいても、いまいちスッキリとはしません。と言いますのは、彼は幼児一人ひとりは生まれる以前には、善も悪も何もしてなかったではないかと言うわけです。それはそうですよね。生まれる前に悪いことをしたから罪人だというわけではなく、生まれながらに罪人なんだから、自由意志なんか関係ないんだと言っているわけです。そして、パウロが言っているように、人間の行いとは関係なく、全く神からの恩恵からによって罪から解放されているんだと言うわけです。
 なるほど、理屈としてだけ見れば、それはそれで筋は通っています。しかし、パウロにしてもアウグスティヌスにしても、問題は罪という言葉の定義が曖昧で抽象的だということです。「結局、何が罪で、何が罪でないの?」ということが、どこまで読んでもはっきり見えてこないのです。
 もっと図々しいことを言わせていただくと、彼らの話の中では、これをやったら罪だという具体的な罪と、生まれながらにアダム以来受け継がれているという抽象的でぼんやりした罪というものが、ごっちゃになっている気がします。この具体的な罪の行為と、抽象的な罪の性質といったものがごっちゃになっている限り、どこまで彼らの論議についていっても、気持ちはすっきりしないと思います。

贖罪論の罠

 こういう具体的な罪と抽象的な罪をごっちゃにした論理をもてあそんでいると、クリスチャンが陥りやすいこの世に対する無責任な態度、生き方につながってゆきます。
 例えば、「私は罪深い者です」と言って、なんとなく曖昧に反省している気になっているにも関わらず、現実の自分の日常生活では自分がどれだけ人のことを傷つけているかに全く気づかなかったり、あるいは、現実の生活の中で自分の落ち度を責められたら、「人間は生まれながらに罪深い者ですから」と言って自分を正当化してしまったり、あるいは反対に、「私たちはもう既に罪から解放されたのですから、もう罪を犯しません」などと言ってみたり、そうは言いながら、やっぱり相手との状況によっては、自分に自覚的な悪意が無くても、人を痛めつけたり、貶めたりしてしまうことはあるわけで、堂々巡り……。
 そして、こんな具合に、具体的な罪と抽象的な罪をごっちゃにしていると、結局、罪を抽象的なものにとらえてしまったほうが楽ですから、そっちに流れる人が多いわけです。
 またまた意地悪い言い方をすれば、パウロだって初期のクリスチャンを弾圧して逮捕や拷問を繰り返していたし、アウグスティヌスだって女性関係とか、望んでなかった子どもの妊娠とか、いろいろあったわけですが、そういった自分の過去と向き合った結果、「わたしの意志ではなく、わたしの中に遺伝的に備わった罪のせいだ」と言って、それで本当に問題が解決しているんかい? と私自身、具体的な罪をいっぱい犯してきた者として、批判してやりたい気持ちになります。
 その一方で、全く逆に、本当に真面目な人がこの原罪という教義のせいで、非常に苦しい思いをしています。真面目で自分のことを責めがちな人。おそらく幼い頃から自分に自信を持つように教えられてこなかったり、何も誉められたことが無かった子、自分の存在を肯定されてこなかったせいで、自分が生きていていいのか自信もなく、何をやっても間違っているような気がしているような人。そういう人は、キリスト教の伝統的な教義に凝り固まった人に、「人は生まれながらに罪深いのですよ」と教え込まれてしまうと、「やっぱりそうか。自分は生まれながらに罪深いんだ。自分は本当は生きている価値も無い者なんだ」という絶望感に答を見出してしまいます。
 そして、そこから「イエスが私の代わりに血まみれになって罰を受けてくださったからこそ、私は生きていてよい者になったのだ!」と言って熱狂的な信者になる場合もあれば、イエスが身代わりになってくれたという実感が持てないままに、ずっといつまでも自分の罪意識の泥沼の中に鬱々とした気持ちで居続けるという人もいます。
 私は、「救われた!」といって喜び踊る人がどれだけ差別と偏見に満ちた人の尊厳を否定するような言動、すなわち具体的な罪を、その信仰に基づいて犯すかを嫌というほど見てきましたし、その反面、何も具体的に悪いことをしているわけでもないのに、根拠もなく自分は罪深いダメな人間だと責め続けて、苦しい人生を送っている人も見てきました。
 それらは、罪の問題を抽象的に考えるということに、問題の根源があるのではないかと思います。罪という何か抽象的なものがあって、それが生まれながらにあるという考え方そのものから卒業しないとダメではないでしょうか。
 具体的な罪が全くなおっていないのに、「私の罪は赦されている」と喜んでいる人。具体的に悪いこともしていないのに、「私は罪深い」と悩んでいる人。どちらも現実的ではありません。いっそのこと、その抽象的な罪、宗教的な罪という考え方を捨てた方がよいのではないでしょうか。

罪とは何か

 宗教的な罪ではなく、具体的な、日本語でいうところの罪とは何でしょうか?
 一般的な辞書で「罪」という言葉を引けばいいんですね。私は職場の国語の先生に国語辞典を借りて調べました。すると、まず罪というのは、「法律、道徳、習慣など、社会生活の規範となる法則に背反すること」とあります。
 それから、「宗教上、教義、戒律にそむき、神仏の意志に反するような行為」とあります。
 それから、「怒りや恨みを受けるような行為」という意味もありました。
 これらを見て私が考えたのは、「時と場合が変われば、具体的な罪の基準も変わるものだな」ということでした。
 例えば、戦争中は戦争に反対したり、戦場から逃げ出すだけでも犯罪ですが、戦争が終われば、戦争を起こした人が戦犯として裁かれます。
 ユダヤ教やイスラームでは、豚肉やタコを食べるだけで罪ですが、キリスト教では罪になりません。しかし、同じキリスト教の中でも、酒を飲むのは罪だと教えている人もいれば、毎晩ビールを飲まないと一日が終わった気がしないという牧師もおります。
 ある教会では同性愛者は死ななければならないと教えているのに対し、ある教会では同性愛者が牧師をしていたりします。
 ぼくが子どもの頃、子どもの顔をひっぱたくどころか、往復ビンタなど当たり前でしたが、最近の学校でそんな事をしたら教員のほうが減給などの処分を受けます。
 具体的な罪というのは、その罪を判定する基準や、その時代・社会・法律・宗教・習慣・会議による決議、あるいは雰囲気や個人の考え方といったようなものひとつで変わります。つまり、何が罪かといったものは相対的なものです。
 ぼくは小さい頃から、時代劇の「ネズミ小僧」が大好きだったのですが、今思えば、ネズミ小僧というのは、そういう罪の相対性といったものの狭間で生きているわけですね。ネズミ小僧というのは泥棒です。泥棒はどう考えても罪です。しかし、彼は大金持ちの蔵から大判小判を盗む一方で、その大判小判を貧しい家族の家の窓からチャリンと放り込んでやったりします。彼は貧しい人を救いたいという愛ゆえに、泥棒という罪を働くわけですね。
 それで、大体時代劇では大金持ちというのはいかにも悪い奴という面構えをしているわけです。お金は持ってるけれども、どこかで何か狡いことや汚いことをやっているから儲かっているわけです。そして、越後屋がお代官様に賄賂をとらせて、要は政治家と財界が結託している。その一方で貧しい庶民が苦しい生活にあえいでいる。本当に悪いのはこんな社会を放置している代官たちではないのか、と……子どもの時からそういうことを明確に考えていたわけではないですが、子ども心に、「誰が悪いかというのは、見方によって変わるものなのだ」ということを学ぶきっかけにはなったと思います。
 では、そんな風に、罪の判定基準というものがコロコロ変わっていいのでしょうか? 何が悪いことなのかというのは、見方によって変わるものだから、結局よくわからないものなんだという結論でいいのでしょうか……?

ヒント

 と、いうわけで、ここから先は、これに続く「分かち合い」の時に、みなさんで考えることを述べていただいて、意見交換をしてみたいと思います。
 ただ、ヒントになるかもしれない事をひとつだけ付け加えさせてください。
 もともと「罪」という言葉は聖書のなかでは、たとえば旧約聖書のヘブライ語では「ハタート」といって、直訳すると「的はずれ」あるいは「失敗」という意味であるということをご存知の方もいらっしゃると思います。ギリシア語の「ハマルティア」という言葉も、基本的にこれと同じ意味を受け継いでいます。聖書における「罪」という言葉の元来の意味は「的を外す」、「失敗する」、「事をし損じる」ということになります。
 ここから、聖書に基づく罪の基準について、何かヒントが出て来るのではないかと思うのですけれども、これに関することでもいいですし、これと直接繋がらなくても、思ったことを自由に聞かせていただければありがたいです。





Clip to Evernote


礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール