クリスチャンは政治にどう関わるか

2013年8月11日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と解き明かし(29分間)+分かち合い(22分間)=合計51分間です。
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聖書:マルコによる福音書12章13−17節 (新共同訳・新約)

 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
 彼らは、イエスの答えに驚き入った。







説き明かし(29分)と分かち合い(22分)の録画(計約51分間)


勝手に選挙運動

 今日お読みした聖書の箇所は、イエスが政治に対して、どのような考え方や姿勢を持っていたのかについて知る手がかりになると言われている所の一つです。
 去る7月21日(日)に参議院選挙が行なわれましたが、その選挙当日前まで、私はかなり熱くなって、勝手な選挙運動をやっていました。別にどの候補者や政党に入れてくれということではなく、改憲と原発に反対、ということで、ずいぶんインターネット上では激しく意見をアピールしていました。それで私の友人たちの中には、私の書き込みを見るのに辟易した人もいたのではないかと思います。
 もともと私自身は政治問題が好きだったわけではないのですが、それにしても、昨今の政治状況が、国防軍を作るとか、放射能垂れ流しとかで、普段から教え子やわが子といった若い人たちと接していると、このままではおれないような気がして、突き動かされるように政治に関する意見表明を始めました。

メシアを陥れる罠

 そういうわけで、一度、クリスチャンが政治にどう関わればいいのか、ということをご一緒に考え、皆さんのご意見をお聞かせいただけたらありがたいなあと思い、今日お読みした聖書の箇所を通して、説き明かしと分かち合いをしてみたいと思ったわけです。
 今日の聖書の箇所において、イエスはライバルたちに試されています。「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(マルコ12:14)。
 イエスが生きていた当時、ユダヤ人は自分たちの国家を持つことを許されず、ローマ帝国に占領されて、属州として支配されていました。ユダヤ人は非常に民族意識が高い民族ですから、このローマからの支配を何とか排除して、ユダヤ人国家の独立を願っていました。そして、メシア(ヘブライ語で「マシアハ」と言いますが)、救世主が現れて、ユダヤ人を独立に導いてくれるだろうという期待が盛り上がっていました。
 そして、じっさい、自称メシアといいますか、「我こそはメシアなり」と言って名乗りをあげて、反ローマのテロ活動を起こす人たちは何人か出て来ていましたし、それがローマの軍隊によって鎮圧されて、といったことは起こっていました。
 つまり、当時のユダヤ人社会において「メシア(救い主)」という言葉は、ローマからの支配からの独立戦争のリーダーという、非常に政治的でしかも戦闘的な意味合いが込められていました。
 ですから、この「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているかどうか?」という質問は、イエスに対して、この政治情勢に対する姿勢を問いただす狙いがあったわけですね。「律法に適う」かどうかというのは、要するに「神の御心に沿っている」かどうかということです。
 そして、例えばイエスが、「皇帝に税金を納めるのは神の御心に適っている」と答えますと、ユダヤ民族主義者が怒って、「こいつはローマによる占領を認めている。徴税人と同じ裏切り者だ!」と責めることができますし、同時に、「イエスはメシアになってくれるかも知れない(ローマを追い払ってユダヤを解放してくれる政治的リーダーになってくれるかも知れない)」と期待している民衆を落胆させるでしょう。
 しかし、もし「皇帝に税金を納めるのは神の御心に反している」と答えますと、「こいつは反ローマ主義者だ」と言って、ローマ軍に突き出すこともできます。どっちに答えてもイエスを陥れる口実を作れる、罠だったわけですね。

宗教者たちへの皮肉

 この罠に対してイエスは、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と答えます。
 ローマ帝国が発行していたデナリオン銀貨、表と裏にはローマ皇帝の名前と肖像が刻まれています。貨幣は皇帝が発行しているもので、最終的には皇帝の持ち物とされていましたから、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と答えたということは、ローマへの税金については、イエスは否定しなかったことになります。つまり、ローマに対して反抗や抵抗の運動を率いて、政治的・軍事的なリーダーになるつもりはない、ということを明らかにしています。言い換えると、政治的な民族解放をなしとげるためのメシアにはなるつもりがないということです。
 ところが、答の後半にイエスは、「神のものは神に返しなさい」と言っています。
 ここでは、占領国のローマに支払う税金よりも、神殿に収めるユダヤ人社会の中での税金のことが問題にされているという解釈があります。
 神殿に支払う神殿税は、神にささげるものです。それは収入や収穫の10分の1を献げるなど、律法に定められている献げ物です。それは、私たちがいただいた収入や収穫は、神さまから与えられた恵みであり、もともと神さまのものを分けていただいているのだから、その一部を神さまにお返ししようということで定められているわけです。そして、そうやって捧げられた収穫物やお金が、貧しい者や寄留者を養ったり、お年寄りや病人の面倒を見たり、畑や奴隷に対しては「安息年」と言って、7年に1度、1年間のお休みを与えるわけですが、その間食べてゆくための蓄えとして用いればよいという発想が旧約聖書の中にはあります。
 しかし、イエスの当時の神殿貴族たちは、この神殿税を基に莫大な財産をこしらえ、ガリラヤなど地方部の土地を買収し、大地主になって小作農から年貢を搾り取って、更に大儲けをするという、非常に極端な格差社会になっていました。
 「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マルコによる福音書4:25他)というイエスの言葉もありますが、これも同じように、富んでいる人がますます大儲けし、貧しい人はますます奪われる……という当時の社会状況をイエスが皮肉っぽく言い立てたものとされています。
 「神のものは神に返すがよろしい。神殿のお偉いさんたちは、神のものを返すのだと言って神殿税をとりたてて大儲けしている。その一方で、貧しいガリラヤの農民は、今日明日を食べてゆくことも難しいくらい困窮にあえいでいる。そんなのが、本当に『神のものを神に返す』ことになっているのか?! いや、むしろ、神のものと言いながら彼らは自分たちがその富を奪っているではないか? 神のものと言うのなら、ちゃんと神に返したらどうだ……!」
 イエスの「神のものは神に」という言葉は、そのような憤りに満ちた、鋭い皮肉であると解釈することができます。

富に対する神の意志

 イエスは、ローマ帝国のような大きな世界を相手にして、民族の独立を勝ち取ろうというような政治的目標を持ってはいませんでした。相手にしていなかったというべきか、視野に入っていなかったというべきか。あるいは、そんなことは大した問題ではないと思われたのでしょうか……?
 しかしその一方でイエスは、ユダヤ人社会の中で行われている「神の名による不正な支配」については、容赦なく鋭い批判を浴びせる人間でした。
 同じマルコによる福音書の7章10節以降には、このような言葉もあります。
 
「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(マルコ7:10-13)
 自分の両親を養うことと、神への供え物のどっちが大事かということまでイエスは言っているのではありませんが、「神への供え物」という理由で両親を養わないのはダメだということです。
 他の理由ならともかく、「神さまのためだ」という理由で、人間のために富を使わないのは、神の御心に反しているのだ、と言っているわけです。もっと簡単に言うと、富は人を助けるために使うのが神の御心だとイエスは言っているわけです。

社会的な不正と宗教的な欺瞞

 皇帝への税金についての問答に入る前、イエスがエルサレムに到着してからすぐに、神殿で大暴れして商人たちを追い出した事件が描かれていますが(マルコ11:15-19)、これもイエスの神殿に対する怒りの表れであるという解釈があります。
 そもそも、ガリラヤの小さな村や町を巡ってもっぱら教えや癒しを行っていた田舎志向のイエスが、なぜ突然エルサレムに上京したのかが謎なのですが、その理由の一つとして、エルサレムの神殿貴族たちが他でもない神の名の下に、経済格差を作り、差別を作っていることへの矛盾に気づき、神の名の下に人間を踏みにじるエルサレムの神殿貴族に挑戦しようとしたのではないかと推測されています。
 イエスにしてみれば、エルサレムで神に一番近いとされている祭司長たちや律法学者たちが、もっとも神を冒涜している者たちだったわけで、その社会的な不正と宗教的な欺瞞が一体化した悪の温床として、エルサレム神殿を許してはおけない気持ちになったのではないかということです。
 そして、結果として、神の名を用いて私腹を肥やし、民衆を格差に苦しめる権力者たちに抵抗する行動を起こすことで、イエスの行動は政治的な色彩を帯びてくると言えます。イエスの言動が政治問題に発展すると言いましょうか。

イエスと政治

 イエス自身は政治的な権力を手に入れるなり、奪い取るなりして、ユダヤ人社会の新しい支配体制を確立しようとはしていません。ただ、「ここは神の家、すべての国の人の祈りの家としては、全くふさわしくない!」(マルコ11:17参照)という信仰的な義憤のほうが大きかったようです。そういう意味では、彼は政治的な関心よりは宗教的関心から行動しているように思われます。
 ただ、彼は貧しい人や病人、弱い人、小さい人の暮らしに大きな関心を持っていて、食べることや飲むことといった暮らしの基本にある神の恵みに感謝し、それを奪う者たちに怒りをぶつけました。
 食べること、飲むこと、それをいかに保証するかというのは、経済問題であり政治問題です。ですから、イエスの主張や活動は、政治問題化しました。イエスの活動は、非常に多くの貧しい人や被差別者の支持を受けていましたし、人びとの不満のはけ口になったり、野次馬根性で便乗している人たちも含めて、大きな勢力になる可能性がありました。
 そこで、ユダヤ人社会で政治権力を握っている人びとは、イエスを社会から抹殺し、イエスの主張を棄却することで解決するという政治判断をしたわけです。それも、自分たちよりも強力な軍事力で支配しているローマ軍に処刑をさせることによって、ユダヤ人社会の中の矛盾や不正を突いたイエスの矛先をかわして、いかにも政治犯に対する見せしめのような形で処理したわけです。
 イエスはなぜ、ユダヤ人社会の改革のための政治運動をしなかったのでしょうか。
 一つには、彼が人を殺すことを避けられない抵抗運動はしたくなかったことが挙げられるでしょう。選挙運動や民主主義など、影も形も無かった時代ですから、権力を奪い取るには武力を使うしかありません。武力で人の命を奪いながら神殿の不正を正すということは、命を与えた神に対する冒涜であり、矛盾です。
 いま一つには、おそらく彼が権力による支配というものを信じていなかったためでしょう。彼が行った「神の国」のモデルとしての食事は、貧しい人や、障がいのある人、世の中の多くの人からは不必要だと思われているような人たちを集めて行われました。そういう場所でパンと杯を交わしながら、イエスは「貧しい者こそ幸いなり!」(ルカ6:20参照)と言ったのでしょうね。
 また、宴会でも上席を好んで座りたがる律法学者のような人間をからかい(マルコ12:39)、末席に座るように勧め(ルカ14:10)、
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14:11)と言いました。
 そんなイエスですから、自分が政治権力を握って、高ぶる者になろうとは少しも思っていなかったのでしょうね。彼はただ、貧しい人や世の中に顧みられない人たちが、一人残らずきちんと人として顧みられ、暮らしが満たされることこそが神の恵みであり、それが本当に実現するのが神の国だと信じて、それを邪魔する政治権力者には容赦なく抵抗したわけです。
 そんなイエスに私たちが倣うとすれば、それはやはり、自らが権力を握ろうとするのではなく、あくまで人ひとりが大切にされる政治を求めるべきでしょうし、政治の力が人ひとりを大切にしない時には、できる形で良いので、抵抗することが望まれるでしょう。
 また人ひとりが誰でも大切にされる世界を、小さくてもこの世の中に作ってゆくことでしょう。イエスが先取って見せようとした「神の国」の宴会を、教会という器で実現することでしょう。

政治に関心を

 政治に関心が無いという人でも、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が偉大な人だということを認めない人は珍しいのではないかと思います。
 キング牧師は、アメリカの黒人差別を無くすために働き、暗殺される直前はベトナム戦争に対する反対運動に精力的に関わっていました。
 非常に政治的な問題に関わっていましたが、彼が政治家になろうとしていたわけではありません。ただ、神が作った一人ひとりの命を守ろうとした時、その命を脅かしている力を排除するために政治に対する働きかけがどうしても必要だったから、彼は政治に対してたくさんの発言をし、抵抗運動をしました。
 誰もがイエスやキング牧師のように命がけの抵抗を行い、命を捨てよというわけにはいきません。そういうことのできる人はごくわずかでしょうし、たくさんの人がそうやって命を落とすことを神さまが良しとするかな? とも思います。
 ただ、イエスやキング牧師が指し示そうとした方向……自らが権力者や支配者になることを望んだりはしないが、人ひとりでも命が脅かされる時には抵抗する、という気持ちを持つことは、あってもよいのではないかなと思います。
 また、人ひとりの命が大切にしているかどうかを、常に政治権力を持つ人びとに対して監視の目を働かせ、少なくとも一人一票の力で意思表示をする、ということが大切なのではないかと思います。
 みなさんは、いかがお感じになりますでしょうか。





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