狭き門とはどのような形をしているのだろう

2013年8月25日(日) 

 日本キリスト教団千里聖愛教会 主日礼拝説教

聖書朗読と説教(27分間)
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聖書:マルコによる福音書12章13−17節 
(新共同訳・新約)

 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。







聖書朗読と説教の録画(計約27分間)


「ダメです」

 私はふだん学校で中学生や高校生といっしょにキリスト教の勉強をしています。また、月に2回ほど徳島の教会に行って代務者として牧師の仕事もしていますが、それ以外にもうひとつ、インターネットの伝道活動をしています。
 と言いましても、やっていることはそんなに難しいことではなく、ホームページを開いて、Q&Aを掲載していて、ご質問のある方はメールをくださいと書いてあるだけです。
 しかし、そんな簡単な仕組みでも、月に5、6人ほど、年に70〜80人ほどの人から新しい問い合わせのメールが届きます。
 そのようなお問い合わせの中には、こういうものがあります。「私は精神的な病気があって、仕事ができず、生活保護を受けています。教会の牧師さんや牧師婦人にそのことを話したら、『生活保護など受けるのはだらしない証拠だ。信仰があればお金は儲かるものだ』と言われました。教会は、貧乏な人間は来てはいけないのでしょうか」。
 あるいは、こういうものもあります。「もうすぐ洗礼を受けるんですが、教会の人にこんな事を言われました。『あなたはまだ若いから、いろんな人から言い寄られることもあるでしょうけど、クリスチャンでない人とおつきあいしたらダメよ』。でも、私には、もう結婚を決めているノンクリスチャンの相手がいます。洗礼はやめた方がいいですか」。
 あるいは、「牧師に『今度の選挙では、共産党に入れなさい』と言われました。こんなことを牧師が言っていいんでしょうか」とか、あるいは全く反対に、「牧師に『共産党を支持するのはクリスチャンとして問題があります』と言われてしまいました。本当にダメなんでしょうか」という質問もありました。
 そういった数々の質問にお答えしてゆくのが、私のやっているささやかな活動であります。

キリスト教のストライクゾーン

 そういったお問い合わせを受けていて感じることがあります。「キリスト教というのは、こんなに堅苦しい宗教だったかなあ……」と。
 貧乏はダメ、クリスチャン以外の人と結婚するのはダメ、相手がクリスチャンでも結婚するまでキスをしてもダメ(手をつなぐくらいはよろしい)、タバコはダメ、お酒もダメ、ギャンブルもダメ、占いもおみくじも縁日も墓参りもダメ、同性愛はダメ、性転換もダメ、洗礼を受けていない人が聖餐式に参加してはダメ……教会によって色々違いはありますが、それにしても、キリスト教ではこれがダメ、あれがダメというのが多い。
 そして、そのような、いわゆる「クリスチャンらしさ」というものを狭い狭いゾーンに設定して、「キリスト者の道は、『狭き門』なのです……」と、重々しく言ってみる。クリスチャンのストライクゾーンは非常に狭く設定されているのです。 こちらの教会はどこまでが許容範囲かわかりませんけれども。
 おかしいのは、そのストライクゾーンは、教会によって、また教派によって、はたまた牧師によってずいぶん形や大きさが違っているのですね。さっきの共産党の話のように、牧師によって全く正反対のことを言っている場合がよくあります。ある教会ではダメだと言われていることが、別の教会ではOKとされている。そして、誰もが「キリスト教ではこうなのです」と言い切っています。
 そうなると、本当にキリスト教に共通のストライクゾーンってあるのかな? とよく疑問に思わされます。
 本当は、いろんな牧師やいろんなグループが、好き勝手にいろんな形のストライクゾーン、いろんな妙な形の狭い門を作り出して、体をいろいろひねって捻じ曲げながら入ってみて、入れた人が「ああー入れた!」と安心して、これから新しく入ろうとする人に、「これをくぐり抜けられないと、クリスチャンではないのよ」と教えているような、そんな風景を見てるような気がするわけです。

まちまちの狭い門

 どうして、クリスチャンはクリスチャンらしさということにこだわってしまいがちなのでしょうか?
 聖書には確かに「狭い門から入りなさい」と書いてあります。そのために、救われるためには、何か厳しい条件が必要なのではないかと考える人がいます。
 この箇所の前後にも、例えば、「神聖なる者を犬にやるな」とか、「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」とか……割と厳しい言葉が並んでいます。この福音書を書いたマタイさんは、信徒を厳しく指導しなければならない、と考えていたようです。
 このような厳しい言葉を受けて、「私たちは聖なる者と呼ばれるにふさわしい者にならないといけない」と思ったり、「良い実を結ばないといけない」と思ったりしてしまうのではないでしょうか。
 しかし、イエスご自身は、どういう行いがクリスチャンらしいとか、良い生き方であるとか、何が良い実を結ぶことなのかを、具体的に述べているわけではないんですね。だから、クリスチャンはそれぞれ自分たちで、「これが良い生き方ではないか」、「これがクリスチャン的生き方なのではないか」と思って、いろいろ考えて、わざわざ自分たちが通るべき道を「狭い門」にしてしまうわけです。そして、その結果、教派や教会によってまちまちの「狭い門」ができてしまう。しかし、まちまちですから、決して「これが本当のクリスチャンらしさだ」という決定版というのは、実は存在していないわけです。

誰でも通る広い門

 私は思うんです。ひょっとしたら、こうやって一生懸命、クリスチャンの条件を決めようとすることが、「広い道を通る」ということなのではないかな、と。
 クリスチャンだったら、こうするべき、ああするべきと条件を決めたがるのは、誰でもやりそうなことです。また、世の中のほとんどの人が、クリスチャンというのは、何か堅苦しい戒律を守っているものだと思っているのですね。つまり、人間にあれこれ条件をつけて拘束することは、クリスチャンなら誰でもやりそうなこと、多くの人が通る道だということです。
 実は、本当にいちばん難しいことは、人間に何の拘束も加えないことではないかと思うのですがいかがでしょうか?
 ありのままの自分を肯定し、ありのままの他者を認めること。また、これまで歩んできた過去をありのままに肯定し、これから歩もうとしている未来をありのままに肯定すること。これが究極の「狭い道」であるように考えるのですが、いかがでしょうか?
 例えば、過去に犯罪を犯したことのある人を、喜んで教会に迎え入れることができるでしょうか? 不特定多数の人と寝たことのある人を、喜んで教会に迎え入れることができるでしょうか? 成人しているのに、定職についていない人は、私たちの教会に来て引け目を感じずにいることができるでしょうか? 異性愛ではないセクシュアリティの人は安心して自分のことをカミングアウトできるでしょうか?
 誰でもが、安心してありのままの自分でいられる場所というのは、実際にはなかなか難しいものではないかな、と思います。私たちはそれぞれに個性がありますし、相性が合う、合わないもありますから、誰でも好きになれというのは無理な話です。
 しかし、好きにならなくてもいい。好きになれなくてもいいんです。それでも、神さまは絶対にあなたを愛しているし、神さまはあなたが生まれてきて、この世を生きていることを喜んでいるはずだ、教会はありのままのあなたに安心してもらえる場所なんだよ、ということをメッセージとして発することはできるのではないかと思います。
 
誰でもが歓迎される群れ

 思えば、イエスの弟子たちの群れというのは、すごい人たちの集まりでした。片や、人から蔑まれる職業の人(漁師は生臭い仕事ということで忌み嫌われていました)、片や、人から不吉だといって恐れられる人(双子のディディモという人がおりましたが、昔は双子の誕生は不吉なことが起こる前触れだと言われていました)、片や、ユダヤ人を裏切る者(徴税人レビ、あるいはマタイがいましたが、徴税人はユダヤを占領しているローマ軍への税金を集めるため、同朋から裏切り者と呼ばれていました)、片や、ユダヤ人のために反ローマの抵抗運動をするテロリスト(熱心党のシモンは反ローマのテロリストと言われています)等々……一般社会から見下げられていたり、気持ち悪いと思われていたり、政治的には極端な民族主義者と、民族の裏切り者と呼ばれる、正反対の立場の人が、イエスという1人の師匠のもとに同居していたわけです。
 熱心党のシモンが徴税人のマタイが一緒にいると聞くとハラハラします。マタイがシモンに殺されるんじゃないかと。しかし、イエスはその、あまりにも異なる人びとを同時に受け容れて共存させていたわけです。このイエスのやり方こそが、最も狭い道、綱渡りのように細い道を行くものと言ってよいのではないでしょうか。
 イエスは、律法学者や祭司長という、いわば聖職者とされる人びとに対して、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)と言いました。またイエスは、罪人と呼ばれて蔑まれている人びとと頻繁に食事をし、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)とも言いました。この場合の罪人というのは、「悪いことをした人」というよりは、律法を守れない人のことです。古代のユダヤとは違う文脈の中に生きている私たちから見ると、その時代、その社会の慣習になじめず、排除される人、と読み替えることができます。イエスは世からつまはじきにされる人こそ招こうとしました。
 イエスが選んだのは、非常に難しい道、誰もが歩みにくい道です。誰でも招き、受け容れる。今まで自分の視野に入ってこず、いると思ってもいなかった人、あるいは視野に入っていたとしても、理解に苦しむ人、この世では変だと言われがちな人を、ありのままに受け容れるということ、それがいちばん難しい細い道、狭い門なのではないでしょうか。それが私たちにできるでしょうか。

虹色の道

 一つの現代的な例をお話しします。
 この2013年は、いろいろな人間をありのままに受け容れるという意味では、非常に大きな意義のある1年になりそうだと思っています。
 6月末に、アメリカの連邦最高裁判所で、同性婚を禁じる法律は違憲だとする判決が出ました。それに続き、7月にはイギリスでも同性婚は法律で保証されるようになりました。他にも、カナダ、フランス、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、南アフリカ、オランダ、ベルギー、ノルウェー、デンマークなどでは既に同性婚は認められており、世界では女性と女性、男性と男性の結婚を認めようという動きが加速化しています。
 アメリカにおいて、異性のカップルと全く同じ権利が同性のカップルにもあって当たり前という運動を支援してきた教会のひとつに、アメリカ合同教会(United Church of Christ)の運動があります。
 写真をお見せできればよいのですが、その運動の旗印はレインボーカラーです。虹の七色を使ったシンボルマークは、もともと同性愛者の権利を主張する人たちが使っていたものですが、これを教会も受け継いで、7色の旗やバナーを掲げながら、デモパレードを行なったりしています。
 虹の七色は、全ての人が自分のありのままの本当のカラーを出して生きることができる社会の象徴です。問題は性に関することだけではありません。あらゆる人種、あらゆる民族、あらゆる国籍、あらゆる仕事の人、仕事の無い人、幼い子どもも大人も年老いた人も、そして、あらゆる宗教の人、宗教の無い人も含めて、ありのままに自分らしく生きることが認め合える社会。自分の本当の色で生きることができる社会、それが七色のカラーにシンボルとして表されています。
 つまり、この虹の七色は、神の国のシンボルとしてふさわしいものです。イエスが求めた狭い道は虹色なのです。

人間らしさ・自分らしさ

 「望ましい人間像」、あるいは「クリスチャンにふさわしい生き方」、そういうものを求めて、あれこれ人間に枠をはめてみるというのは、実は誰でもがやりそうな広い道です。
 しかし私たちは、ありきたりな「クリスチャンらしさ」というものからも解放された方が良いのではないでしょうか。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)というイエスの言葉の通り、わたしたちは自ら自由になり、他者をも自由にするべきではないでしょうか。
 そして、それでもあえて「クリスチャンらしさ」を求めるならば、単にシンプルに、「人間らしさ」、ありのままの「自分らしさ」を活き活きと生きるものでありたいと思うのですが、いかがでしょうか?
 クリスチャンであるということは、人間らしいということ、自由だということなんだよ! と世に証する者でありたいと願います。
 祈りましょう。

祈り

 私たち一人一人に命を与え、この世に送り出してくださった神さま。
 この命と、世界に二つとない個性を私たちに与えてくださいましたことを心より感謝いたします。
 私たちが、あなたに創られたとおりに自由に生きることができますように。また自分以外の全ての人があなたに創られたとおりに本当の色で生きることができ、それを私たちが互いに認め合って、この世に平和を実現することができますように。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。

 追記……本文中「7色の旗」とありますが、実際にはレインボー・フラッグは6色で使われることのほうが多いようです。上記のUCCの写真は7色ですが。
 参考……Wikipedia「レインボー・フラッグ」





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