ただ空があるだけ

2013年9月1日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と説き明かし(23分間)
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聖書:ヨハネの黙示録21章1−4節 
(新共同訳・新約)

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。







聖書朗読と説き明かし、分かち合い(計約65分間)

天国

 日本にもいろいろな教会があって、「どうすれば天国に入ることができるか」といったことを懇々と教えている教会もあります。私の直接の知り合いの牧師の中には、そういう教えを説いている人はいませんが、私のところに相談のメールを送って来られる方の中には、たとえば「洗礼を受けた人しか天国に入れない」、「結婚前に性的な関係を持った者は天国に入れない」、「貧乏な人は与えられたタラントを活かしていないから、天国に入れない」……といった風に様々な理由で、「あなたは天国に入れない」と教会で言われましたという人がたくさんおられます。
 話を聞いていると、どうやらそういう教会では「天国」というのは、私たちが死んだ後行く所、という意味で教えを説いているらしいのですね。しかし、私が聖書を読んでみた限りでは、死後の世界としての「天国」というものが聖書の中に明確に書いてあるところがあったかどうか、憶えがありません。
 聖書を読む限り、死んだ人の魂は陰府(よみ)に下って眠り、来るべきキリストの再臨の時に、再び肉体をとって蘇り、裁きを受けると……いや、実際には聖書の箇所によって、いろいろな事が書いてあるのですけれど、非常に荒っぽくまとめてしまうとそういうことが書かれています。
 ですから、死んだ後、クリスチャンで品行方正な人が自動的に天国に行くのではなくて、一応聖書の記述によれば、死んだ人の魂は、まだ陰府で眠っていて、最後の審判を待っている状態なんですね。

来る

 そして、最後の審判を受けたあと、信仰篤い者が入ると言われている「神の国」あるいはマタイによる福音書においてだけは「天の国」とも言われていますけれども、聖書には、「来るべき神の国」あるいは「来るべき主の聖なる都」あるいは「楽園」といった表現で、クリスチャンがやがて入ることのできる理想郷のことが述べられていますが、いずれも、「来る」ものとして記されています。
 聖書の中では、ひと言も、天の国に「行く」とは言われていません。そうではなく、天の国が「来る」んですね。そして、やって来た天の国、あるいは聖なる都に、「入る」ことが許されるわけです。
 今日お読みしたヨハネの黙示録の21章を読んでみても、やはりそうです。「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(ヨハネの黙示録21-1:2)とあります。やはり、新しい神の支配、天の国、聖なる都は、天からこの地上にやってくるわけです。
 天国は、死んだ後に行く所ではなく、この地上にやって来るものです。それはあの世の世界ではなく、目に見える形で、この世にやってくるものとして、待望されているわけです。(ただし、パウロはコリントの信徒への手紙二5:1以降で、「天にある永遠の住みか」のことを語っているので、若干趣が異なる思想を持っている。ひょっとしたらパウロはローマ世界でのグノーシスの影響を受けているかも知れない)
 最初の福音書であるマルコによる福音書で、イエスが福音宣教を始めた最初の言葉が、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1:15)というものでした。ここでも、神の国は「近づいた」と言われています。やはり、「神の国」、「天の国」は「来る」ものなんですね。

希望

 ですから、私たちは、「神の国」、「天の国」、「世の終わり」といった言葉で示されている神の支配の完成のことを、あの世のことではなく、この世が変わるという意味でとらえなくてはいけないのではないかなと思うわけです。
 残念ながら、マタイによる福音書の16章28節によれば、「ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マタイによる福音書16:28)とイエスが言ったとのことですが、実際にはイエスと同時代の人が生きている間は、終わりの時も、人の子の国もやっては来ませんでした。
 それどころか、それからおよそ2000年近くも、世の終わりは来ていませんし、キリストの再臨も、神の国の到来もまだありません。
 おそらく、この先もかなりしばらくの間は、世の終わりというのは無いでしょう。例えばまたもや世界戦争が起こり(といっても絵空事ではなく、ここ数日のシリア情勢をニュースで見ているだけでも、シリア政府を支援している中国とロシア、シリア政府を敵視しているアメリカ、フランス、イスラエルなどの間で、現在一触即発の緊張状態が続いており、今にも戦争が始まり、これに日本政府が集団的自衛権を容認して自衛隊が参戦すれば、第3次世界大戦になるのではないかと私は恐れているのですが)、そのような世界大戦によって核兵器が使われたり、世界各地の原発を含む核関連施設が爆破されたら、聖書に書いてあるのとは違った意味で本当に「世の終わり」というか、人類の終わりが来てしまいますが、そうでもない限り、地球はまだ寿命が何十億年もあると予想されていますから、すぐには世の終わりは来ないでしょう。
 しかし、それでも「神の支配の完成」すなわち、神の愛による支配、私たちの生きている地球社会全体が、愛によって運営されてゆくような世界を夢見ることは、私たちに許されているように思います。
 それが「いつ」来るかという予想はもうかなり外れています。でも、「どのように」来るのかという期待は、まだ裏切られていません。私たちが失望してしまわない限り、いつかは愛の支配が世界を覆いますように、という希望を持ち続けることができると思いますし、この希望に生きるのがクリスチャンなのではないかなと思います。
 いつかは愛の支配が完成しますように、と願い、待ち続け、またその実現のためにささやかながら奉仕をし続けることが、クリスチャンとしての生き方ではないでしょうか。

天国はない

 このような、遠い未来ではあるけれども、いつかは完成する神の愛の支配という私たちの待望と、ある種の教会が唱えている、死んだ後に行く天国というのは、全く別のものです。
 天国に行くとか行けないという発想は、人間を選別し、差別する思想です。「こういう条件を満たしていれば、天国に行ける」、「こういう人は天国に行けない」。
 一番強烈に区別されるのは、洗礼を受けているか、受けていないかの区別です。こういう相談をいくつも受けたことがあります。結婚したお連れ合いが亡くなられて、亡くなられたお連れ合いがクリスチャンだった場合、残された人に、「あなたも洗礼を受けなさい。そうでないと、あなたが死んだ後、もう二度と会えませんよ」とか。
 あるいは反対に、亡くなられたお連れ合いが洗礼を受けていなかった場合、「こんなことを言うのは心苦しいのですが、亡くなられたお連れ合いの魂が、今どこをさまよっておられるのか、わかりません。もう二度とお会いすることはできないでしょう。悲しいけれどもこれが現実なのです」などと宣告したりするのです。
 しかし、そういう、洗礼を受けた者しか天国に行けないなどということは、聖書の中には根拠がありません。そして、そういう、「選ばれた者しか天国に行けない」という発想は、死後の世界に国境を設けるようなものです。生きているこの世の中に、差別や分断があふれているのに、死んだ後までなんで差別されないといけないのでしょうか。死においては、人間は誰しもが平等だと思いたいのですが、いかがでしょうか。
 もし、天国などというものがあるなら……そんなものは聖書的な根拠は薄いですが……もしあるとしても、この世でどんな地位であろうが、何をしていようが、誰でもが平等に神さまのもとで安らぐ場所でありたいものです。
 死後の世界には、天国と天国でない場所という区別など無い。そのように思いたいものです。

国境もない

 そして、私たちの目指すべき神の国は、人間の間に人間が引いてしまった様々な境界線を超えて、私たちが互いに愛し合う世界です。
 この地上の最たる境界線は、国と国の国境です。あるいは民族と民族の対立です。宗教と宗教の対立です。イデオロギーの対立。利害の対立。貧富の格差の対立などなど……私たちは様々な境界線によって分断され、対立させられています。
 しかし、私たちは、来るべき神の支配において、これらの境界線が消えてなくなり、共に愛によって支え合い、活かし合う世の中に一歩でも近づけるように、できることをなしつつ、待ち望みたいと思うのです。
 最後に、5分ほどのビデオをご覧いただこうと思います。
 今年の8月6日、広島に原爆が投下された日で、「平和記念日」とも呼ばれていますが、この日に行なわれた野球の試合が「ピースナイター」と呼ばれていて、広島市民球場の広島×阪神戦の途中で、広島出身被曝2世の吉川晃司さんという歌手の方が、ジョン・レノン作曲の「イマジン」を歌った時の映像です。
 日本語で歌っていて、ところどころ替え歌も混じっています。
 では、小さい画面で恐縮ですが、ご覧ください。

広島市民球場での吉川晃司さん「イマジン」歌唱のビデオ視聴


(資料映像:約5分間)

神の国のイメージ

 いかがでしたでしょうか。
 冒頭から「天国はない。ただ空があるだけ。国境もない。ただ地球があるだけ」と歌われていました。
 12年前、アメリカのニューヨーク同時多発テロの攻撃を受けた直後、「天国はない」と歌うこのジョン・レノンの歌詞が批判されたことがありました。
 しかし、「天国はない。国境もない」というこのメッセージこそが、実は私たちが待ち望んでいる、全ての境界線を超えた神の愛の国の実現のイメージを語っているものだと私は思います。
 みなさんにおかれましては、いかがお感じになるでしょうか。ご自由に思うところを聞かせていただければありがたいと思います。





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