平和は骨が折れるもの

2013年9月15日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と説き明かし(22分間)
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る




聖書:ローマの信徒への手紙14章17−19節 
(新共同訳・新約)

 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。







聖書朗読と説き明かし、分かち合い(計約57分間)

神の国は飲み食いではない

 今日お読みしたパウロによるローマの信徒への手紙14章17節には、「神の国は、飲み食いではなく」(ローマ14:17)とありました。
 これは、飲み食いの場を神の国の先取りのモデルとして示したイエスの行いと一見矛盾しているように感じられるので、少し私たちを戸惑わせる言葉ですけれども、そういう意味ではなく、このローマの信徒への手紙の14章全体で、例えば、信仰的な理由で「これは律法で食べてはいけないと定められているから、私は食べない」と言ったり、「あの人はあんな物を食べている」と言って人を裁いたりするのはやめようじゃないかという文脈で、この言葉を発しています。
 ある食べ物を食べるも食べないも、個々人が自分の信念で行っていることは自由である、と。「食べる人は主のために食べる」(ローマ14:6)、「食べない人も、主のために食べない」(同)。またその他の何事も主のためにするということが大事なのであって、やったやらないで決して人を裁いてはいけない、ということを言っているのですね。
 そういう文脈でパウロは、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と言っていますから、これは「飲み食いに関わる律法/戒律を守る守らないで神の国の民になるわけではない。聖霊が与えてくださる義と平和と喜びに満たされることが、神の国に入るということなんだ」ということなんですよね。
 義と平和と喜びが、神の霊によって与えられる。その時、すでに私たちは神の国にいるんだ、ということです。

義と平和と喜び

 ここで注目したいなと思うのは、「義」と「平和」と「喜び」がワンセットになっているということです。
 私はこの聖句に関して、「平和」というものは「義」と「喜び」を伴っていなくては、本当の平和にならないのだというメッセージを読み取ることができるのではないか、と最近思わされています。
 まず「義」があって、「平和」があって、そして「喜び」が生まれるという順序でパウロは書いているのではないかと思うのですね。
 そして特に強調したいのは「平和」と「平穏」というのは、違うということです。言い換えると、義というものが無いところには真の平和が無い、ということです。
 義というのは、端的に「正義」「正しいこと」と訳することもできる言葉です。正義の無いところには、表向き平穏に見えても、本当の平和ではありません。
 例えば、自分が泣き寝入りをしてでも事を荒立てずに置いておこうとするのは、「平穏」ではあっても「平和」ではありません。もっと悪いのは、誰か他の人びとを泣き寝入りさせているのに、自分たちは「平和だ。問題無い」と言っている状態です。

オリンピック

 例えば、先頃、2020年のオリンピックの開催地が東京に決まりました。子どもたちの様子を見ていると、今の中学生くらいの子が7年後にはいい選手になっているでしょうから、自分が、また自分の同世代の子が東京オリンピックに出る事ができるかも知れない。もう今からワクワクしてじっとしていられない、という子どもたちの様子を見ていると、オリンピックが日本にやってくるというのは、いいことだなと思います。
 しかし、その一方で、このオリンピックを招致するために、日本国の国家元首である総理大臣は、重大なウソを世界に向けてスピーチしました。ご存知の方も多いと思いますが、「日本の放射能汚染の問題は、完全にコントロールされている。汚染水は原発のある港の0.3キロメートル以内にブロックされている。東京は安全だ。東京を汚染する事は私が許さない」と、首相は言いました。
 全てがウソです。
 「汚染が完全にコントロールされている」というのはウソです。汚染水は毎日たくさん流れ出ていますが、それは燃料棒を冷やすために、どんどん水を流し込んでいるからです。冷却水を流し込んでいる限り、燃料棒によって汚染された水は無限に流れ出てきます。
 その水をタンクに入れて、発電所の敷地に並べているのですが、そのタンクから大量に汚染水が漏れて地下水に達していると今問題になっているわけですが、どんどんタンクは増え続けている状況です。流し込んでいる水が流れ出てくる。当たり前のことです。
 汚染水が出て来ないようにするためには、水を流し込むのではなく、冷却水が循環するような設備を建設しないといけないのですが、それを作る予算と計画の目処が今のところ全く立っていない状況です。
 それで、とりあえず地下水の流れを止めてしまうための堰を作ろうという計画がありますが、それをやると今度は発電所内に行き場を失った汚染水があふれて、ますます循環冷却設備の建設ができなくなる……というジレンマに陥ってて、現在打つ手が無い状況なんですね。
 ですから「コントロールされている」というのはウソです。
 「汚染水は港の0.3キロ以内にブロックされている」。これもウソです。実はもう既に、いくつもの海底ホットスポット、つまり放射性物質が溜まって、非常に強い放射線が出ている海底の領域がいくつも見つかっています。
 そしてひどいのは、「東京は安全」、「東京を汚染することは許さない」という発言。
 東京が安全ならよいのでしょうか。もちろんオリンピックは東京で行うのですから、東京の安全は大事でしょう。しかし、このオリンピックの謳い文句は「復興五輪」です。被災地の復興のためにオリンピックをと、さんざん被災地の名を利用しておきながら、実際にスピーチしてみると、「被災地は汚染されているけど、それはブロックしてあるので東京は安全です。東京を汚すことは許しません」と、それではあまりに都合良く被災者を使い捨てではないか。本音では被災者の安全や生活再建なんてどうでもいいんだろうと言われても仕方が無いのではないでしょうか。

義のない平穏

 日本は一見平和です。震災が起こった時にも、住む場所や食べ物が無くなった時にも、暴動ひとつ起こさない。みんな我慢強く耐えて、涙を飲んで、黙ってこらえている。日本人はすごい、と良く言われました。
 しかし、「日本人は忍耐強い。素晴らしい」と誉め称える人のいる一方で、どれだけの人が、言いたいことも言わず、事を荒立てずに済まそうとして、自ら泣き寝入りしているかということですよね。
 誰かが不公平に我慢をしているのに、調子に乗って平和だ平和だと言っていていいのか、ということなんですね。
 これは個人の人間関係でも言えることではないかと思います。
 私自身もそうなんですが、その時その場の事を荒立てないために、平穏を装って、おかしいなと思ったことも言わずに我慢してしまうことがあります。特に、自分さえ我慢したら済むんだから、黙っておいて事の成り行きに任せようという気になることがよくあります。
 例えば、7年前に『信じる気持ち』という本を出した時、出版されてから2週間で、当時の日本基督教団総会議長から、出版差し止めの圧力をかけられました。また大阪教区での教区総会の開会礼拝の説教者として内定していたのを解任されました。連合長老会という長老派の組織から宗教裁判のような形で呼び出されそうになりました。
 もし、その時、今のように元気だったら裁判を起こしていたかもしれません。しかし、当時は鬱病の症状が重かったこともあり、私は無抵抗のまま、修正に応じました。4年程経って、ある程度元気になってから、弁護士さんに相談してみたのですが、もう4年も前のことを問題にしても仕方が無いと断られました。
 今年の7月、徳島分区の社会部の委員会で、私の神学的な立場や聖餐の理解の仕方を理由に、社会部の学習会の講師として内定していたのを、解任されるという出来事がありました。
 私はその時、来たばかりで事を荒立てるのはよくないと思い、そのまま抗議もせずに受け入れる判断をしました。
 その判断でよかったのか、今でも、よく考えることがあります。
 おそらく、次に同じような事態が起こった時、私は「多様性を認める」ことを要求する声明を明らかにするかも知れません。

戦いではなく対話を

 物事を平穏に済まそうとして、正義を曲げ、不公平を許してしまっても、本当の喜びは生まれません。
 ことさらに事を荒立てようとする必要はないと思います。過激な方法を取る必要がある場合というのは少ないと思います。争いごとはなるべく無い方がよいと思います。
 しかし、自分が泣き寝入りをする必要はないし、誰かを泣き寝入りさせるような状況を許してはいけない。特に、自分が誰かを泣き寝入りにさせてしまっているとしたら、私たちはその状況に早く気づいて悔い改めないといけません。
 人間と人間が完全に理解し合うことは難しいですし、ひょっとしたら完全な相互理解というのは不可能かも知れません。また、もし理解し合えるとしても、かなり時間がかかってしまうかも知れません。ひょっとしたら一生かかっても自分以外の人間を理解することなど、できないかもしれません。
 しかし、理解することよりも大切なのは、寛容だろうと思います。
 急いで理解するよりも、まずは存在を無視せずにちゃんと認めて、相手が存在しているという事実そのものをありのままに受け入れるということであろうと思います。
 自ら寛容な人間となり、人に対しても寛容になってゆく。そして、どちらかが否定されていると感じた時には、ちゃんと声を上げてゆく。また自分に対して声が上がった場合には、そこから逃げずに受け止め、応答してゆく。話をする。
 時間をかけて対話をしていれば、そして「いつかは理解したい」と願いつつ話を続けていれば、以前よりは少し相手のことが理解できるようになり、喜びが生まれるのではないでしょうか。

平和は骨が折れるもの

 自分は正しくて、相手は間違っているというのは、通用しません。対話というのは、必ず自分も相手も変わる用意ができていなくてはいけません。
 そして、どうしても理解できないところが残るということもあるだろう。そういう場合は、距離を取り、刺激しないことである。最終的には、相互不干渉ということも、共存する為には有効な選択肢でありえます。
 そうやって、武力や暴力を使わず、対話によって忍耐強く平和を作り出すことが大事であり、お互いの尊厳と誇りと権利を尊重し合うことによってのみ、正義の道が開かれるとではないかと思われます。
 その場合の正義というのは、「正しいことは複数ありうる」ということを認めることでもあります。それぞれの正義があるということを認め合うのが寛容です。一方にのみ正しさが存在するというのは、ただの不公平と不平等です。
 誰もが少しずつ我慢し、誰かが一方的に我慢するということのないようにするというのが、公平であり、正義です。
 というわけで、真の平和を作るのは、かように骨が折れるものですが、それでも、この世に生まれた命を一人も損なうことなく維持するという意味では、とても価値のある歩みであると言えます。
 どんなに利害が一致しなくても、どんなに理解し合うことができなくても、絶対に相手の命を奪うことはしない、存在の権利も奪わないという信頼感があれば、私たちは平和に向けて粘り強く努力し続けることができます。時間をかけて正義と平和を両立させつつ寛容な対話を続ければ、その先にはきっと喜びが待っているでしょう。
 正義と平和と喜びはセットです。そして、その根本にあるのは、「殺してはならない」、「否定してはならない」。どんなことがあっても、相手の存在を無い者として扱うことだけはしてはいけない、ということであります。
 みなさんはいかがお考えになりますでしょうか。





Clip to Evernote


礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール