ステファノという男

2013年10月6日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と説き明かし(26分間)
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聖書:使徒言行録7章54節−8章3節 
(新共同訳・新約)

 人びとはこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人びとは大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊を受けてお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。
 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。







聖書朗読と説き明かし、分かち合い、聖餐式(計約78分間)

ステファノという男

 今日は、ステファノという人物に焦点を当ててみようと思いました。と言いますのも、このステファノという人が見方によっては私たちの信じるキリスト教の原点のひとつと言えるのではないかと思われるからです。
 ステファノが聖書に登場するのは、使徒言行録(使徒行伝)の6章前半にあります、エルサレムの初代教会における7人の食事係を選ぶ場面が最初です。
 そこでは、食事の分配をめぐって、ヘブライ語を話すユダヤ人と、ギリシア語を話すユダヤ人との間で対立があったと書かれています。
 そこで初代教会は、12人の使徒とは別に、7人の人を選び、この人たちにギリシア語を話すユダヤ人たちのことを任せた、と書いてあります。
 この時の対立は「日々の(食事の)分配のことで」と言われていますが、実際にはもっと深刻な対立があったのではないかと推測している向きもあります。そもそも、日々の食事の分配といっても、初代教会にとって食事というのは、イエスを思い起こす聖餐の食卓が中心ですから、それの分配についてトラブルがあったというのは、教会としては根本的に根深い対立だったと考えてもおかしくありません。
 ここに出て来る「ヘブライ語を話すユダヤ人」というのは、もともとユダヤ地方に住んでいたユダヤ人で、イエスの教えについてゆくこととユダヤ教との間に矛盾を感じなかった人々です。この人たちにとっては、イエスはユダヤ教の救いの完成者なので、自分たちこそ真っ当なユダヤ教徒だと思っていました。
 ところが、「ギリシア語を話すユダヤ人」というのは、ディアスポラと呼ばれる、ユダヤ地方以外の世界の各地に散らばって住んでいたユダヤ人でした。この人たちは、ユダヤ人ではありましたが、異邦人の社会の中で生活していましたから、あまり頑なにユダヤ教の戒律を守ることにこだわるということも少なく、言葉も異邦人の間で互いに通じるギリシア語を話していましたので、自ずと生粋のユダヤ人に比べると若干国際主義的に開けていたようです。
 そして、このギリシア語を話すユダヤ人の宣教によって、今度はユダヤ人でない異邦人にイエスを信じる者になる道が開かれていくことになりますから、「イエスを信じるイコールユダヤ教徒になること」と考えていたヘブライ語を話すユダヤ人たちとは、遅かれ早かれ分裂せざるを得なかったわけです。
 案の定、7人の選ばれたメンバーはみんなギリシア語の名前を持つ人々で、その後も食事係としてではなく、独自にエルサレム以外の場所へと福音を宣べ伝える活動に出てゆくことになります。
 この7人のうちの1人がステファノでした。

ステファノの宣教と死

 使徒言行録では、ステファノの宣教と死は、パウロの最初の登場の場面につながっています。
 ステファノは使徒言行録の7章いっぱいを使って、ユダヤ教の聖書に書いてある内容を、アブラハムから始まって、モーセを経て、 ユダヤ人の歴史を総ナメし、数々の預言者たちが登場するごとに、ユダヤ人たちがそれをどのように虐待し、罪深い行いをしてきたかを一気に語っています。
 これは考えてみれば、この使徒言行録の前の作品であるルカによる福音書の終盤で、エマオに行く道の途中で、 クレオパともう一人の弟子にイエスが加わり、道すがらこの弟子たちに教えたことをそのまま再現していると思われる内容です(ルカ24:27参照)。ですから、ルカ福音書の続編であるこの使徒言行録の序盤で、ルカはもう一度、前作よりも具体的にイエスが何故この世にやってこなくてはいけなかったのか、その歴史的意義を、今度はステファノに語らせているわけです。
 すると、ステファノはユダヤ教徒たちに都の外に引きずり出され、石打ちの刑に処せられます。
 ユダヤ教徒たちは石を投げるために上着を脱いで、サウロという若者に預けた(使徒7:58)と記されていますが、これがパウロの最初に登場する場面です。
 パウロはギリシア語での名前ですが、彼はユダヤ人としてのヘブライ語の名前も持っていて、エルサレムではその名前で呼ばれています。サウロというのがその名前です。
 そして、ステファノは取り囲まれ、石を次々と投げつけられて殺されます。その時、ステファノは
、「神よ、この人たちに罪を負わせないでください」と言いながら死んでゆきます。
 これは、ルカの福音書だけが収めているイエスの死における言葉が重ね合わされています。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)という言葉と同じ思いが、ここでのステファノの言葉に表されています。
 ということは、著者であるルカは、このステファノの姿の中にイエスが宿っているように読めるようここを書いている上に、イエスの心を受け継ぐというのは、「自分の敵を愛すること。自分を傷つけ迫害する者のために祈ること」にその神髄があるのだ、と述べていることになります。
 迫害にあって殺されていった初代の教会の人々は、このステファノのように、イエスにならって敵を赦し、敵への愛を祈りによって表しながら死んでいったんですね。その死に様の模範として、ステファノの死は描かれています。
 そして、サウロはこのステファノの死に様を見ていた。これがサウロにとっての、最初の本格的なイエスを信じる者との出会いになった、そして、それは同時にイエス自身との出会いになったということです。
 十字架のイエスは、石打ちにされたステファノに重なり合って、そこに存在していた、と。ステファノにおいて現れていたイエスを、サウロは、その時そうは気づかなかったかもしれませんが、確かに出会っていた。そしてそれが使徒パウロと呼ばれることになる、このサウロの出発点だったのだ、とルカは主張しているわけです。

サウロの回心

 このサウロは、その後もしばらく、初代の教会の人々を迫害し、信徒を投獄したり拷問したりしていたのですが、ある時、回心してイエスを信じる者になります。
 サウロがどのように回心したのか、ルカはこの使徒言行録で、旅をしている時に天から光が下って声が聞こえた、と書いています(使徒9:1-19)。それが本当に起こった事件であるかは、議論が分かれています。といいますのも、サウロ、後のパウロは自分の書いた手紙の中では一言もそういう不思議な体験については語っていないからです。
 しかし、この不思議な神秘的なできごとを書いたルカは、一応パウロと一緒に活動したことがある医者ルカであるということになっているので、それが本当なら、ひょっとしたらパウロがルカに話した体験談に基づいているのかもしれません。
 私は、パウロがルカに、コンパクトに象徴的にまとめた形で、「私は主イエスから、
『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』(使徒9:4)と問われたのだ」というようなことは言ったのではないかと思います。それをルカが、天からの光と声という形で物語として書き上げたのではないかと推測しています。
 実際にパウロの心の中で起こった一大転換は、おそらく、やはりステファノのような、どう考えても悪事を行なったわけでもない善意の人々を幾人も連行し、脅迫し、暴力を振るい、命を奪って来たことに対する罪の意識の爆発であったであろうと思われます。
 単にイエスという一人の死刑囚を崇めている以外には、何もおかしなことを言っているわけでもなく、悪いことをしているわけでもなく、むしろ愛の実践に生き、自分のような迫害者に報復をするわけでもなく、むしろイエスと同じように敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りながら命を散らしてゆく信徒たちを見ていて、むしろ間違ったことをしているのは自分なのではないかという疑問を抑えることができなくなっていたのではないでしょうか。
 初代教会の人々は、みんな暴力を振るう自分の罪を、「神さま、この人の罪を赦してください」と祈りながら死んでゆくのです。何度も何度も殺すたびに、彼は復讐されたり呪われたりすることもなく、ただ自分のために祈ってくれる人を痛めつけ続けました。
 そして、ある時、イエスという無実の人間を生贄として殺してしまった暴力と、自分が振るっていた暴力が全く同じものであり、「イエスを殺したのは自分自身である」という自覚と、その恐ろしい罪深さの現実が彼の心を押しつぶしてしまったのだろうと思われます。
 その結果、パウロは死んだ者のようになってしまいました。今の言葉で言えば、重症の鬱状態に陥ったのではないかと思われます。使徒言行録9章には、
「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(使徒9:9)とありますが、この3日間というのは、もちろん象徴的な数字で、イエスの死んでいた期間が3日間という言葉の使い方と同じで、実際に倒れていた期間はわかりませんが、まさに彼は死んだように飲まず食わず動けない状態になっていたということを表しています。

サウロを変えたもの

 そして、サウロはダマスコに住んでいたアナニアという信徒に介抱され、手当を受けて、アナニアから神が自分を用いようとしているのだと聞かされ、自分が体験した精神の死の意味を知り、洗礼を受けて、聖餐の食事を共にして、イエスを宣べ伝える新しい人生に生まれ変わりました。
 サウロを決定的に変えたもの、パウロを一旦死なせ、蘇らせたものは一体何でしょうか。
 それは、イエスを信じる者たちの徹底した赦しでした。
 暴力を受けても、暴力で返さない。敵を愛し、迫害する者のために祈るという生き方を、死に至るまで貫いた人々の姿でした。
 そのような人々を追いつめ、命を奪うことは、イエスを殺すことと同じだということを、サウロは信徒の中にイエスが宿っていることを感じ取るなかで思い知らされていったのではないかと思われます。
 そして、そのような彼の回心の出発点は、やはりあのステファノだったのだ……と彼自身がルカに語ったので、今日の聖書の箇所のように、サウロの登場の場面は、ステファノの殉教の場面につながれているのではないでしょうか。サウロの回心の種は、彼が迫害者として殺害の息をはずませて(使徒9:1〔口語訳〕)いた時から彼の心の中に蒔かれていたわけです。
 このような初代の教会の人々の非暴力性、徹底した赦しを「見習いなさい」と言うのは、一種の理想論です。私はそれを人に求めたり強制したりしてはいけないと思っています。
 しかし、「これはもう自分は死ぬな」と思った時には、そのように人を赦し、自分をも赦していただくことを望みながら、観念して死にたいものだな、とも思います。
 世の中のいろいろな難しい局面に立たされて生きる時に、今日も生きて、明日も生きて、互いに顔を合わせ、関わりを持ちながら生きてゆくということが前提ならば、何でも無抵抗で、何でも言いなりになっていては、かえって責任の所在をはっきりさせないことで問題を増やしてしまったり、ひいては人間関係や組織や社会を堕落させてしまったりすることがあります。
 報復や復讐はよくありませんが、暴力をとらない手段で、相手や自分の責任を追求することは悪いことではありません。むしろ追求するべきことは追求しないといけないのでしょう。
 しかし、こと自分の命が終わる時には、自分に痛みを与える者、自分を傷つけ、自分に憎しみや敵意を抱く人に対しては、怒りではなく赦しを祈りながら死んでゆきたいものです。
 それができれば、死ぬ瞬間において自分は心安らかに逝けるだろう。
 死ぬ最期の瞬間には、怒りや憎しみから解放されて、身軽な思いで逝きたいものです。
 敵意や暴力を振るう者の責任は償わない限り無くなるものではありません。しかし、せめて自分の人生の終わりには、己れの怒りや憎しみからは解放されていたいものだと思います。
 また、よくよく考えれば、実は私たちは日々、いつ死んでもおかしくない可能性の中で生きています。本当は今夜、あるいは明日死ぬかもしれません。そうであれば、なおさら、今ここにおいても、他人への怒りと憎しみからは解放されていたいと思います。
 赦すことで、人間の心は解放されます。赦すということができる心持ちになれるよう、いつも成長を志すものでありたい。
 そして、私たちは人を赦そうとする心が、サウロの荒れ果てた心の中にステファノが蒔いたように、小さな一つの種を残すことができたら、どんなに喜ばしいことでしょうか。たとえ、その種がいつ芽生えるかはわからなくても。たとえ、その芽生えを見届けることが自分にはできなかったとしても、その小さな種まきのわざは、大きな意義のある働きなのだと思います。
 ……今日は、最後に大それたことを言ったかもしれません。敵を赦すのは難しいことです。しかし、少なくとも、私は自分が何をしたとしてもイエスに既に赦されており、神さまに既に赦されている。そこだけは忘れないようにしたいなと思います。
 みなさんは、どのようにお感じになるでしょうか?


 
※ この説き明かしのインスピレーションは、奈良育英高校宗教科教諭、森山徹先生との会話から与えられたものです。





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