仮説:日本人は実態としては一神教的である

2013年10月20日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と説き明かし(35分間)
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聖書:マタイによる福音書28章16−20節 
(新共同訳・新約)

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」






聖書朗読と説き明かし、分かち合い(計約78分間)

キリスト教のマーケティング

 私たちは日本に住んでいて、同じ日本に住んでいる人々にキリスト教を伝えたいと願っています。
 そのために、一人一人が教会に人を誘い、クリスチャンとしての生き方を模索して、証を立てることを志し、教会のホームページを作り、教会の看板を作り……といった努力を積み重ねています。
 こういった努力は企業で置き換えてみるならば、営業や広報といった活動に当たると思われます。
 それと同時に、私たちは企業で言うならばお客様に当たる人々をよく知らないといけないのかもしれません。
 日本でキリシタンの禁制が解かれたのは1873年、明治6年のことですから、今年でちょうど140年になります。その後、日本のクリスチャンの数は大きく増えることもなく、多くて1%、少なくて0.6%というレベルの数字を超えることはないようです。
 企業の営業的に考えると非常に少ない数字で、他の宗教に比べると、キリスト教は日本においては、営業展開を完全に失敗していると言わざるを得ない感があります。この今の状況を、私たちはどのように評価すべきなのか、また、今後私たち日本のクリスチャンは、どのような方向に、どうやって進んでゆけばよいのだろうか、考え込まざるを得ません。
 大きな企業ではマーケティングという部門や仕事がある場合が多いと思いますが、要するに、消費者、顧客がどういうものを求めているのか、ニーズを知るために調査や分析をしています。それに対して、日本のキリスト教は日本人一般がどういう宗教的ニーズを持っているのか、正確に把握しているでしょうか?
 そういう問題意識から、私は日本人の宗教観について、観察したり考えたりすることがよくあります。

八百万の神々

 ご存知のように日本は「八百万の神々」の住まう国と言われていて、典型的なアジア型の多神教民族だと思われています。
 私の住んでいる近所では、京都に伏見稲荷大社という大きな神社がありまして、神社の裏山に千本鳥居というのがあり、実際には千本とは済まないくらいのたくさんの鳥居が並んでいてトンネルのようになっており、その景色が観光名所にもなっているのですが、その鳥居のトンネルをくぐって行くと、裏山にはそれこそ数え切れないほどの小さな社がしつらえてあって、まさに神々が満員御礼といいますか、まさに「八百万」、800万以上はあるだろうというものすごい光景です。
 これは確かに、間違いなく多神教です。
 日本古来の宗教というと神道ということになりますが、神道に関する入門書をいくつか読むと、日本人にとっての神というのは、「拝めばそこに神がいる」というものだという説が載っていたりします。つまり、何かものすごい、並大抵の人の力を超えたような力なり、雰囲気なり、権威なりを感じさせるものを見ると、日本人は拝みたくなり、拝むと拝んだ対象は神となる。だから、神というのは無限に作られてゆく可能性があるということです。
 その中でも、一人が勝手に拝んでいるだけでなく、幾らかの集団が一緒に拝むようになって、歴史的にも受け継がれるようになれば、その神のための社が築かれることになり、神社が発生するわけです。
これなら、確かに日本に無数の神々がいて当たり前ということになります。

多様性の無い社会

 ところが、日本の社会を少し観察していると、学校でも、会社でも、地域でも、世論でも、ネットでもそうですが、多様性というものがあまりにも認められていない状況が目につきます。
 たとえば宗教が複数ある国々を見てみると、ある宗教の信者がある社会集団を作っていて、その集団と他の宗教をベースにしている集団が、互いに差別をしたり、対立したり、抗争したりしています。あるいは、例えばマレーシアのようにイスラーム・ヒンドゥー・キリスト教といった3つの宗教が仲良く住み分けているところは、「相互不干渉」、互いにとやかく言わない、接触しないというルールをはっきりさせて、うまく共存しています。
 ところが、日本では、複数の神々、複数の宗教があるからといって、それで社会集団が別れてしまったり、対立したり、共存の工夫が行われたりといったことはありません。
 なんとなく、「みんな一緒」だと思っているし、その反面、その「みんな」という規格から外れている人はいじめられたり、バッシングされたり、排除されたり、差別されたりといったことが日常茶飯事で怒っています。
 日本人は「ひとつになる」ことが大好きで、「絆」が大好きで、そういう言葉を発しているだけで、何となく本当に「ひとつ」になれるようにはしゃぐ人がたくさんいる一方で、「みんな」と「ひとつ」になれない人や、その「ひとつ」のグループから外れている人や、人との違いに悩む人が自分のことを堂々と主張しにくい、「互いに違う」ということ、多様性ということが主張にしくい社会の中に生きています。
 こういう、「人と違うことを許さない」無言のプレッシャーのことを、「同調圧力」と呼んでいますけれども、この「同調圧力」というのは、私の働いている学校現場でもよく使われる言葉で、イジメの原因にもあげられるものです。
 あるテレビ番組で、海外に移住した家族を取材した特集があったのですが、子どもたちがホッとしている、という様子を紹介している場面がありました。「イジメがないから楽。ここではみんなが違うから。日本はしんどかった」と話す子がいました。たった一つのインタビューですが、日本人の同調圧力の実態を物語っている象徴的なインタビューのように私には思えました。

一神教的日本人

 このような日本人のありさまは、これは宗教の違いによって多様性というものに直面せざるを得ず、何らかの形で互いの違いを調整せざるを得ない社会に住んでいる人びととは根本的に違う行動パターンです。むしろ、一神教的な、あるいは共産主義や社会主義国家のような、一つの原理原則から外れる者を許さない国の人のようだと感じます。
 よく、政治家でも評論家でも、こんな事を言う人がいます。
 「西洋は一神教で融通がきかないが、日本人は多神教だから寛容だ」。
 同僚の教師でもそういうことをビールを飲みながら声高に言う人がいるので、「どこを見て日本が寛容だと思えるねん」と私も大人げないので、議論になってしまいます。
 「日本人の特徴はむしろ一神教に近いんですよ」と私が言います。
そうすると、「何をバカなことを言ってる」と笑われます。「日本人のどこを見て一神教なのよ」と。
 すると私が、「たとえば、天皇に対する崇拝の態度とか……」と言いかけると、相手の先生は「ふん」と鬼の首でも取ったかのようにせせら笑うんですね。
 「何をバカなことを。天皇は神ではないの。これ当たり前のこと。天皇は神ではなくて、日本にごまんとある神々の祭司の代表。祭司なんであって、神ではない。これ常識。そんなことも知らないで、聖書の先生なんかやってるとは……(笑)」と冷笑されます。
 でも、私は納得できないわけです。「それは教学上、建前としては正論ですよ。でも、実際には敗戦までの近代天皇制というのは……」と私が言いかけるのですが、もう相手は聞く耳を持たず、「何をバカなことを……」と。
 そして、周りの同僚たちは、「まあまあ、まあまあ、酒の席で宗教と政治と野球の話はやらない、やらない!」といって、論議をやめさせます。
 しかし、少なくとも、「日本人は多神教民族だから寛容だ。一神教徒は不寛容だ」というステレオタイプの考え方にはどうしても納得がいかないわけです。日本人の同調圧力を嫌というほど知っている身としては。

天皇崇拝

 歴史をふりかえってみると、日本人は確かに天皇を神のように崇め、奉っています。
 太平洋戦争に負けた直後、昭和天皇は「人間宣言」をして回りましたが、なぜそんなことをしたのかというと、人間以上の存在として崇められていたからです。
 戦前、戦中は、どこの学校でも宮城遥拝といって、東京の皇居の方に向かって最敬礼をしたりしていました。まるでムスリムの人たちがマッカに向かって礼拝するのと同じです。
 御真影と呼ばれた天皇の写真を礼拝することも、行われていましたし、明治天皇の教育勅語を読み上げる際にも、その直後の最後にある天皇の名前と印を、そのまま朗読せず、「御名御璽」と読んだのも、旧約聖書で神の名前が書いてあっても、それをそのまま発音してはいけないから、「アドナイ」つまり「主」という言葉で置き換えて発音するという習わしがユダヤ人の伝統だったのと同じです。
 内村鑑三不敬事件というのが明治時代にありましたが、内村鑑三というクリスチャンは、この「御名御璽」の時に最敬礼をしなかったので、弾圧されたわけですね。
 天皇は日本の国体そのものである、日本の国土全体が天皇の体である、そして国民は皆天皇の赤子であるという国体思想も、教会はキリストの体であり、各地に広がっているたくさんの教会が全体としてキリストの体を形作っているという教会論とよく似ています。
 天皇は天照大神の直系の子孫で、最初の天皇である神武天皇は天からこの地上に下ってきた、すなわち天孫降臨と言われますが、これもイエス・キリストが天から地上に降臨したというのとよく似ています。
 こうして観察してみると、明治以降の近代天皇制というのは、一神教的な宗教の要素を備えています。
 歴史研究者の中には、実は明治時代の日本の指導者たちは、欧米を視察して、ヨーロッパのキリスト教国の宗教政策や、王権神授説などの歴史を参考にしながら天皇の神格化する体制を作り上げていったという説を唱えている人もいます。
 国の歌を歌い、教育勅語を朗読し、天皇への敬意を最敬礼で表し、指導者が訓示を垂れるという集会の形式が、キリスト教の讃美歌、聖書朗読、説教などの礼拝を参考にして取り入れたものだと言う説もあります。
 もしそうだとすれば、天皇崇拝が一神教的である、それも特にキリスト教に似ているのは当たり前ですよね。

宗教を超えた宗教

 でも、日本は多神教国家であるという建前は、昔も今も通用しています。それはなぜかというと、もうご存知の方も多いと思いますけど、そのような天皇を奉ることは宗教ではない、と国が強硬に主張したからです。
 宗教というのは、日本中に存在する八百万の神々を信仰すること、または外来宗教である仏教に帰依したり、キリスト教会に入信すること等であるが、天皇陛下を奉ることは宗教以上の国民としての義務である、というわけです。「天皇非宗教説」と言います。
 これによって、日本は天皇を崇拝しようとしない宗教者を厳しく取り締まりながら、「日本は信教の自由が守られている」という建前を国際社会に対して装うことができたんですね。宗教を信じるのは個人の内面の自由である、しかし天皇陛下を奉ることは宗教以前の国民の義務である、というわけです。
 国家にとっては、国民が個人の内面で何を信じていても、どうでもいいわけです。ただ、形だけ従ってくれたらいい。形だけ、天皇の写真や教育勅語や皇居に向かって最敬礼する。形だけ、上官の命令には絶対に逆らわず、敵陣に突撃してくれたらいい。形だけ、片道の燃料で飛び立って、敵艦に体当たりしてくれたらいい。とにかく形が大事なんです。信じる気持ちはどうでもいい、ただ国家のために国民を統合し、命令に従わせるということが大事だということです。
 ですから、こういう天皇を崇拝し、天皇に国家を象徴させ、天皇のために命をささげることを要求する政策を、後の人は「国家神道」と呼びましたけれども、それを推進した政治家や役人本人たちはそれを宗教だと本気では思っていなかったでしょうし、今でもそういう天皇を神格化したような思想の持ち主本人は、「国家神道」という呼び方や、宗教扱いされることを拒否するのですね。
 客観的に見て、どう考えても宗教的な要素でできあがっているんですが、やっている本人たちは「これは宗教じゃないんだ」と思い込んでいる、というのが日本のいわゆる「国家神道」というものの特質です。

宗教の位置づけが軽い民族

 そして、建前上は太平洋戦争の敗戦によって、日本はアメリカに占領され、国家神道は解体され、天皇は「人間宣言」を行い……といったことが行われたわけですが、現在でも、(まさか天皇が神であると思っている人はさすがにほとんどいないようですが)それでも、「日本は特別な国だ」、「日本は神の国だ」、「日本はひとつだ」と思っている人が多く、「みんな」に同調し、同化できない人や少数派はバッシングを受ける、という一神教的体質はまるまる温存されています。
 天皇が神ではないとわかっていても、天皇を国民統合の象徴としつづけ、日本人が自分のアイデンティティの根拠にしていて、生き方、ライフスタイルの根底に無意識のうちに据えている精神性とは一体なんでしょうか?
 それは「日本人であること」です。
 いわば「日本教」です。
 昔、山本七平という人が、「日本教キリスト派」という言葉を使って、日本のクリスチャンを評論したことがありました。今日はその問題には触れませんけれども、日本教という言葉は昔から言われていました。今、改めて、多くの日本人の精神は「日本教」に支配されていると言うしかないのではないか、と私は思います。
 「日本人であること」に自分でも意識しないうちにかなり依存していて、どこか日本は安全で平和で、みんな仲良く、心が穏やかな国だという幻想を抱いていて、日本は他の国と違っていて特殊で、海外の基準が当てはまらず、また当てはめなくてもいいとどこかで思っていて、居心地がいい国だと思っていて、なんとなく日本人であることが誇らしいと思っている。
 たぶん、よく宗教学者が指摘しているように、基本にあるのはアニミズムといって、生きとし生けるもの、あるいは科学的には無生物であっても山川草木、山や川や岩や鏡や、あるいは柱や縄などによって囲った特別な領域にも神聖なるものを感じ、清らかさ、厳粛さ、改まった気持ちを感じることのできる感性が日本人の宗教心の根底にあるわけですが、それが民族としての共通性にまで広められて、「私たちは同じ日本人」という特別な領域と言いますか、結界のようなものを作っているようなんですね。
 この日本人としての共通性を確認する気持ち、日本人であることの安心感は、宗教という体裁を取ってはいませんが、どこか宗教的体質を持っているものだと、現時点で私は見なしています。
 日本人はみな「日本を信じている」、「日本により頼んでいる」のですね。日本人の多くは日本教の信者で、それで実は十分宗教的ニーズは満ち足りているのではないかと思います。
 こういう国で、キリスト教のような、人間のアイデンティティとか生きる意味とかいった深い内容を持った別の宗教を広めるというのは、先祖代々のお墓がある家に、新しくもうひとつのお墓を作りませんかと売りに行くようなものです。いや、ムスリムやユダヤ人に「クリスチャンになりませんか」と勧めるようなものです。
 既に日本には「日本教」という強い一神教があって、それで事足りているのだから、その人たちを別の一神教に改宗させるのは、非常に難しいのだ、と割り切ってよいのではないかと思います。

数字にならない伝道

 そういうわけで、私は、今後も日本では大規模なキリスト教への改宗、いわゆるリバイバルが起こるとはまったく期待していません。
もしそういう事が起こるとすれば、それは太平洋戦争の敗戦のような、国家の存亡の危機にさらされるなどの、大多数の日本人の精神の屋台骨が折れてしまうような大惨事が起こるときで、そんな大惨事が起こるのを望むというのも人としてどうかと思いますし。
 むしろ私たちは、この「日本人であることの一体感」、「みんな一緒という安心感」、「同調圧力」といったものに、同化できない人に対して、その人を独りぼっちにしないための伝道というべきものを進めるべきではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。
 始めにも申しましたように、この同化していることの一体感、安心感に立つ社会集団は、必ず集団に一体化、同化できない人間に圧力をかけたり、はじき出したり、生きにくくさせたりします。
 あるいは、集団化、一体化しているように見えても、実は周りに合わせて生きることで精一杯で消耗し切ってしまい、生きているのもつらい人もたくさんいます。
 そういう人に対して、私たちは、「愛される喜びを伝え」るべきなのではないでしょうか。
 思えば、イエスが愛と赦しと癒しを働きかけていったのは、当時彼のいた社会で、もっぱらつまはじきにされたり、蔑まれたり、孤独に陥っていたり、自分は見放されている、何のために生きているのかわからないと思っていた人たちでした。
 そんなイエスにならって、私たちも、「 愛される喜びを伝えたい」と思います。
 それは数字にならない伝道です。信者を一人でも多く獲得しようという伝道ではありません。しかし、大変意味のある大切な役割だと思うのです。
 「あなたは愛されている。あなたが生きているのが嬉しいんだ」と世の人に伝えてゆく教会でありたい、と思うのです。皆さんはいかがお考えになりますでしょうか。





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