食う寝る所に住む所

2013年11月24日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝説き明かし

聖書朗読と宣教(18分間)
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る




聖書:マタイによる福音書7章12節 
(新共同訳・新約)

 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。






聖書朗読と説き明かし、分かち合い(計約78分間)

回転寿司

 私は回転寿司が大好きです。それも一皿100円の安い回転寿司が大好きです。
 そのことを人に言うと、たいていバカにしたような冷笑を浴びせられます。もうそこそこいい歳ですから、板前さんに頼んで握ってもらうちゃんとした寿司屋に行けよと笑われるわけですが、どうもそういう高級な寿司屋に行って板前さんに「あ、こいつ素人だな?」と思われるんじゃないかと思うと気が引けます。まあ、そういう時は素直に「おまかせで」と言えばいいのかも知れませんが、私はよく食べる方なので、おまかせにしてお腹がいっぱいにならなかったら嫌ですし、かといっておまかせでアガリまで来たのに、もっと食べたいなんて言ったりするのも失礼かなとか思ってしまいますし、だいたい高級なお寿司というのは小さいんですよね。ですから腹いっぱい食うとあっという間に一万円を超えたりとかしますから、もういわゆる「まとも」な寿司屋に行くと、非常に気力を消耗してしまうわけで、二度と行きたくない。
 その点、回転寿司は庶民的ですから。周りのお客さんもそんなに大金持ちが来ているという感じでもありませんし、板前さんに気を使うこともありません。神経をすりへらして注文しなくても、目の前にお寿司が続々行列を作って次から次へと流れてくる。もう夢のような景色じゃないですか! ここはお寿司の天国だ〜! みたいな。そして、「もう入りません」、「もう食べれません」というほど腹いっぱい食っても、高級なお寿司屋さんの10分の1くらいの値段で済みます。
 そういうわけで、私は回転寿司が大好きなのであります。

黄金律

 さて、今日の聖書の言葉はキリスト教の黄金律と言われている有名な言葉です。
 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
 これ、もともとはユダヤ人の間でイエスより前の古い昔から伝わっていることわざで、「人にしてほしくないことは、人にするな」という言葉をイエス流に言い換えたものだろうと言われております。
 しかし、「人にしてほしくないことを人にしない」ということよりも、「人にしてもらいたいことは何でも人にしてあげる」ということの方が、はるかに難しい気がします。
 それは、人にしてほしくないことをしないでおこうと思ったら、要するに何もしなかったらいいので簡単ですが、人に何かをしてあげようと思ったら、相手の人がそれを望んでいるかどうかわからない場合があるからですよね。自分が人にしてもらいたいと思っていることでも、自分以外の人にとっては、いらんことかもしれない、かえって迷惑かもしれない。ですから、本当に「自分がしてほしいことを、そのまま人にしてあげる」ということ自体が本当にそんなに良い事なのか? という疑問が湧いてくるわけです。

イエスがやったこと

 思えば、福音書を読んでいますと、生前のイエスが行っていたことといえば、人を教えた以外は、パンや魚を増やしたり、水をワインに変えたり、病気の人を治したりといったことばかりです。また、嫌われ者や罪人と食事をしたりということもしていました。そして、罪の赦しの宣言もして回っていました。
 要するに、飲み食いに関することと、病気の治療に関することが中心です。
 そういう意味ではイエスがなさっていたことは、非常にシンプルです。腹が減っている人と一緒に食べる。仲間はずれにされている人と一緒に食べる。病気に苦しみ悩む人には手当する。ということです。
 飲み食いすることと、健康であること、そしてできれば孤独に陥ることもなく、ありのままの自分でOKだと安心して生きていられたら、それ以上のことが必要でしょうか?
 もちろん、それだけでは物足りないという人もいるでしょう。でも、そういう人は自分で努力して、そういうものを獲得されたらいいと思います。
 イエスが人に与えようとしたものは、人間として最低限必要なものです。贅沢を言い出したらきりがないけれど、とりあえず食べる物がないと困るだろう。贅沢を言い出したらきりがないけど、とりあえず病気があったら治りたいだろう。元気でいたいだろう。
 あるいは、贅沢を言い出したらきりがないけれど、誰からも相手にされずひとりぼっちというのは非常に生きにくいだろう。そして、自分のことをありのままに認められず、装って嘘ばかりついて生きているというのも、人間の生き方としては、非常に辛いというか、やりきれない。
 ですから、食べる物、安全に休む場所、つながりを求める友や家族、そして自分で自分を「これでよし」と認め、肯定する気持ち、これらも生きていく上で最低限必要なものでしょう。これらはおそらく誰もが求めている基本中の基本です。
 イエスがやっていたことというのは、もっぱらこれらが足りない人に足りないものを補ってあげるという活動だったわけです。
 すなわち、腹をすかせた人には食べ物を、病気で悩み苦しむ人に健康を、そして孤独な人には自ら友になること、でありました。

割と素朴な人間観

 ですから、あまり難しいことが要求されていると思わなくてもいいのですね。毎日食べるものに事欠いている人には、高級な寿司でなくても、回転寿司で十分です。また、私たちはイエスのように奇跡で人の病気を治してあげることはできませんが、病気の人に対して、まあゆっくり休みなさいと言って寝させたり、病院に連れて行ったりということはできます。また、孤独な人の横に黙って座っていたりとか、お茶でも入れてあげることくらいならできそうです。
 それくらいのことができれば、大したものです。それ以上のことができれば、もうそれはすごいことで、非常に高級なことです。それ以上のことをしてくれないと物足りないなんて言う人がいたら、その人が求めているのは贅沢ですから、贅沢のできる人のところにいって、楽しくやってくださいということです。
 「贅沢は悪だ」とまでは言うつもりはありません。高い料理を食ってはいけないと言うつもりもありません。たまにはいい物を食うのも、人生の楽しみとしてあっても良いと思います。
 しかし、キリスト・イエスがもっぱら行っていたのは、食べる物にも事欠く人、病に苦しみ悩む人、孤独に心痛める人が求めているものを与えようとすることでした。人が誰でも求めることを、人にしてあげていたわけです。
 無くてはならないものはそう多くはありません。イエスが言っている「人にしてもらいたいことは何でも」というのは、誰もが腹をすかせているという貧しい状態での話で、割と素朴なレベルの話だったのだろうと私は思います。

人がしてほしいと思っていることを

 そして、人がして欲しいことというのは、時間をかけておつきあいしてゆくなかで、だんだんとわかってくることが多いです。
 試行錯誤して、良かれと思ってやったことが、相手の望んでいたことと違っていて、喜んでもらえなかったとしても、一喜一憂しないことです。相手の喜んでくれることがすぐにわかる人なんてそうそういません。何度も空振りをして当たり前だと思って、最初からあまり相手の喜ぶ姿を期待しすぎないことです。
 何度も空振りをする中で、いろいろ手を変え品を変えやっていると、だんだん相手の人が何を嫌がって、何を嬉しいと思っているのか、わかってきます。もちろん、非常にわかりにくい人もいますけどね。何を考えているのか全く分からない人もいます。しかし、分からない人は分からないのであって、それは私が悪いわけではないですよね。仕方ないということはあります。これもあまり高望みしないことです。
 それこそ神さまの与えてくれる時を待ちながら、聖霊の導きにお任せして、いつかその人にとって本当に良いことが何なのかを知らされるように祈りながらゆっくり構えるということでいいのだと思います。
 適切な時に、適切な方法で、何が求められているのかということがわかる時、私達は感謝をもってその啓示を受け止め、人がしてほしいと思っていることができるように、自然になれるものではないでしょうか。
 焦る必要は全くありませんが、私たちは、「人がしてほしいと思っていること」をできるような人間に成長できるように、いつでも祈りながら、道が示されることを待ち望む人間でありたいと思います。

食う寝る所に住む所

 そういうわけで、「食う寝る所に住む所」と言いますが、それにも事欠いている人がいるならば、私たちは何とかしてどんな方法であってもいいから、助けた方がいい。
 私たちは飢えている人、渇いている人、病んでいる人、孤独な人に足りないものを最低限補うことができるような人になるべきではないでしょうか。とりあえずそれができれば御の字だと言えます。
 そして、その上で、相手の人がそれ以上に何を求めているのかを知ることができれば、なおよろしいということになるのですが、それが見つかるまで焦らないでは、相手のことをよく知るように努めることが大切であろうと思うのですが、いかがでしょうか。

祈り

 お祈りいたしましょう。
 全ての命の造り主であり、私たち一人ひとりに命を与えてこの世に送り出してくださった神さま。今日もこうしてあなたに主日の礼拝をお捧げできますことを感謝いたします。
 この礼拝のひと時において、あなたの御子イエスのこの世での行いを偲び、私たちの生きる道について思いを巡らせることができますことを感謝いたします。
 願わくば、私たちが互いに必要なもの、求めていることを理解し合い、互いに愛するということができるようにならせてください。
 この願いをイエス・キリストの名によってお聴き下さい。
 アーメン。





Clip to Evernote


礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール