神さまのサプライズ

2013年12月22日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 クリスマス主日礼拝説き明かし

聖書朗読と説き明かし(約20分間)
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聖書:ルカによる福音書2章1−7節 
(新共同訳・新約)

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。






聖書朗読と説き明かし、分かち合い(計約39分間)

迎える準備

 誰かを迎える時というのは、程度に差はあれ、何らかの用意はするのが常識です。掃除をするなり、片付けをするなり、食事の準備をしたり、冬なら部屋を暖めておこうとか、そういった用意をして迎えるものです。
 しかし、イエスの誕生は用意がなされていないところに突然やってくるという物語として描かれています。
それも意外な場所にです。
 イエス誕生の物語に先立って、洗礼者ヨハネの物語が置かれています。まだ誕生物語が書かれていないマルコによる福音書の時点で、もう洗礼者ヨハネの登場は描かれています。
 そのマルコを参照しながら福音書を書いたマタイとルカは、この洗礼者ヨハネの登場の物語を受け継いだ上で、イエスの誕生の物語を描いています。
 洗礼者ヨハネは、「もう間も無く終わりの時がやってくる。斧は木の根元に置かれているんだ。もうすぐ木は切り倒されてしまうぞ」と警告を発しています。そして、それに応えて多くの人がヨハネのところに来て洗礼を受けたわけです。イエスでさえも、この洗礼者ヨハネの呼びかけに応えてやってきたと記されています。
 この洗礼を受けた人たちは、言ってみれば「用意のできている人たち」です。終わりの時を迎える心の用意、ヨハネが予言した救い主の到来を迎える用意ができている人たちです。
 ところが、誕生物語を最初に記したのはマタイとルカですが、両方ともこうやって人々が「用意をする」よりも早く、救い主は既にこの世に生まれているという物語を描いています。
 また、その誕生物語自体も、このように「用意のできている人たち」のところに救い主がやってきたとは描いていません。むしろ、用意のできていなかった人たち、あるいは用意をしていた人たちから見ればよそ者に当たるような人のところに、救い主の誕生の知らせが告げ知らされます。
 救い主は多くの人が顧みない場所に、それも人間が住むようなところではない場所、家畜の糞にまみれたような藁の上に産み落とされました。
 そして、誰からも見下されているような階層の人びとにまずその喜びの知らせがあったということです。
 これは、救われるのは多くの人ではないとまで言っているわけではないと思います。ルカの福音書においては、天使は「すべての人の喜び」と言っているからです。
 しかし、まずどこからその喜びが知らされるのか。それは、そんな救いの喜びなど期待もしていない人びとのところからなのだ、ということなのでしょうね。
 また、どこに救い主が産み落とされたのか、それは人間を泊めるために用意が整えられた宿の部屋ではなく、まさか人が泊まるためには用意されていない、馬屋であったということ。
 すなわち、喜びは全く用意のない、期待されていない所にまずやってくるということが語られています。
 救いの到来というのは、人間の予想とは違うところに違う順番でやってくる。期待していなかった人の所にサプライズでやってくるというわけですね。

サプライズのプレゼント

 サプライズ・パーティとか、サプライズ・プレゼントが好きな人っていますよね。期待も予想もしてない時に、ばあーっと隠れていた友人たちが出てきて突然パーティを始めたり、プレゼントをしたりしてビックリさせてもらうのが好きだと言う人がいます。
 私は正直言って、サプライズを準備するのが苦手です。こんなもの用意して、喜んでくれなかったらどうしよう? とか考えてしまうんですよね。あれこれ悩んだ末に思い切ってサプライズのプレゼントをしたのに、「あ、これもう持ってる」とか、「あーあんまりこれ好きじゃない」とか言われたら萎えますよね。それなら、欲しいものは何かを予め聞いて、それをあげたいなと思うわけです。
 しかし、サプライズが好きな人に言わせると、こういう私みたいなのが一番ロマンが無いと言いますか、つまらない男なんですね。プレゼントが何であろうが、自分のために一生懸命考えてくれて、ビックリさせてくれるその気持ちが嬉しいんだそうです。
 で、クリスマスはイエス・キリストというプレゼントを神さまが下さった日なんだという目でとらえれば、このプレゼントもサプライズなんですよね。
 予想とは違う形のプレゼント……すなわち、強い権威を持った頼りがいのある王様のような救い主を期待していたのに、やってきたのは赤ん坊だった。
 予想とは違う場所にやってきた……人間が普通は寝泊まりしたりはしないような馬屋に。
 そして、予想とは違う人たちにまず知らされた……一般市民よりも身分が低かった野宿生活の羊飼いたちに。
神さまは見事に、用意のできている人たちの裏をかいてプレゼントを置いて行ったわけです。

楽観的になろうよ

 この事は何を私たちに告げているのだろう? と私は考えました。
 一つには、神が与えてくださる喜びは、私たちの予想を超えた形で、意外な時と場所に与えられるものだから、それを楽しみにしていなさい、ということかなと思いました。
 クリスマスが基本的には夜のお祭りであることとも関わってきますが、マタイでもルカでも、救い主の誕生を知らせるのは闇夜に輝く星であったり栄光であったりします。これは闇のような世の中における明るい希望を象徴しています。
 闇夜のような世の中にあって、私たちがなかなか希望を見出せない状況にあったとしても、きっと想定外、計算外のところから、どちらかというと自分が見捨ててしまっているようなところで救いが始まるかもしれない。だからもうちょっと楽観的になってみましょうよ、というメッセージを読み取れるのではないかと思います。
 どんなに絶望的に見えても、神さまが用意した意外な展開がきっとあるから、完全に失望しないで待ってみてごらん、ということなのではないでしょうか。
 もう一つには、神さまからのサプライズ・プレゼントは、予想とは違う品である可能性が高いよ、ということではないかと思います。「こういうものが欲しいから、ください」と望んだとおりのものではないということです。
 救い主は赤ん坊という形でこの世に送られてきました。この世で一番頼りない存在です。お世話しないで放っておいたら死んでしまうような弱い存在です。
 しかし、それは一粒のからし種でも育てば鳥が巣を作るようになるというたとえ話と同じように、大事に育てれば無限の可能性を秘めています。
 救いの種というものは、当初は無力で頼りがいのないもののように見えても、大切に育てれば、大きな可能性になるということだと思います。
 このプレゼントは、咲き誇る花束のような贈り物ではなく、花の種を贈るようなものです。「あなたが育ててください」ということです。
ですから、単純なことかもしれませんが、どんな意外なところに自分の救いのチャンスがあるかわかりませんから、それがいつかは見つかるだろうと楽観的でいたいと思います。
 また、それが、発見できた時にはどんなに小さな希望であったとしても、可能性は無限なのだと、やはり楽観的でいたいと思います。
闇夜に輝く一つの星のように、馬屋の中の赤ん坊のように、小さな喜びの可能性を発見しながら生きる者となれることを祈りつつ、このクリスマスを共に祝いたいと思います。





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