愛される喜びを伝えたい

2014年1月5日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 新年礼拝説き明かし

約22分間
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聖書:イザヤ書43章4−5a節 (新共同訳・旧約)

 わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。





ライブ録画:説き明かし(22分間)+分かち合い(37分間)=計59分間


エピファニー

 みなさま、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。今年も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝しています。
 日本の風習ではお正月は「あけましておめでとうございます」ということになるのですけれども、教会の暦で言いますと、今日は「主の公現の主日」ということになります。
 「公現日」またの呼び方を「エピファニー」と言いますけれども、イエス・キリストのお誕生のあと、東方から来た三人の博士たちが赤ん坊のイエスに初めてまみえたことをお祝いする日だと伝えられています。
 マリアとヨセフは聖家族と呼ばれているのですが、この聖家族以外に一般の人間が初めてイエスに会見できた、初めて公に現れた、ということで公現日と言われています。聖公会では「顕現日」とも呼ばれています。ちなみに「エピファニー」というのは、ギリシア語の「エピファネイア」(上から現れる)という言葉が基になってできた英語です。「エピ」は「上から」という意味で、「ファニア」は「現れ」という意味です。
 本来は1月6日なんですけれども、日本ではこれを1月2日から8日までの間の日曜日に祝うことになっています。今日はこれも覚えておきたいと思います。このエピファニーが終わって、初めて降誕節すなわちクリスマスが終わるというのが、教会の暦だからです。

「わ」

 さて、毎年年末になると、「今年の漢字」というものが選ばれて、京都の清水寺で発表されます。2013年の漢字は「輪」でした。オリンピックの東京への招致が決まったことなどを受けてのことらしいです。
 実は、全く個人的な感想ですけれども、私は「輪」というのはあまり好きな漢字ではないんですね。清水寺の管主の方は「平和な輪」を意識されたそうですが、「輪」というと、どうも閉じてしまった世界を連想してしまいまして、輪を閉じてしまうと、どうしても輪の中の人と輪の外に人ができてしまうので、閉じたつなぎ目をほどいて開きたくなってしまうんです。
 実は同じ「わ」でも、平和の「和」、和やかの「和」という字が良かったなあ、と個人的な感想ではありますが、思っていました。
 日本で「和をもって尊しと為す」と言うと、ともすれば「なんでも事を荒立てずに、表向きの平穏だけを守って、厄介事には目をつぶろう」という意味にとらえられる向きもあるようですけれども、私たちはそうではなく、「地に平和」という意味での「和」を目指してゆきたいと思っています。
 クリスマスにはいつも読まれますが、ルカによる福音書に収められている、夜通し羊の番をしている羊飼いたちへの天使のお告げの場面。救い主の誕生を告げた天使に天の大軍が加わって、
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)と歌います。
 クリスマスの讃美歌に頻繁に出てくる
「グローリア・イン・エクセルシス・デオ(Gloria in excelsis Deo)」というラテン語は、この聖書の箇所を、ほとんど忠実にカトリックのミサの式文に写し取られたところから使われています。「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」は、そのまま「いと高きところでは、神に栄光」という意味です。
 

御心か善意か

 その続きの
「地には平和、御心に適う人にあれ」というのは、カトリックのラテン語ミサ通常文では「エト・イン・テラ・パックス・オミニブス・ボネ・ヴォルンタティス(Et in terra pax hominibus bonae voluntatis)」と写し取られていまして、「地においては平和、善意の人に」となっています。
 私たちが持っている新共同訳の聖書ですと、「(平和が)御心に適う人にあれ」と訳されています。以前の口語訳でも、新改訳でも同じような意味合いです。文語訳では「(平和が)主の悦び給う人にあれ」とあります。
 ところが、英語の聖書では2種類の訳が割と簡単に見つかります。1つは「主に喜ばれる人にあれ」、もう1つは「善意が人びとに向かってありますように」です。ヘンデルの『メサイア』という、これもクリスマスによく演奏される曲がありますが(もともとはイースターの曲だったという話ですが)、この中に出てくる曲でも「goodwill」、つまり「善意」という言葉が使われています(ヘンデルはKing James Versionの英語本文を使用して作曲した)。
 さて、実際のところ、「(神の)御心に適う人に平和あれ」、「(主に)喜ばれる人に平和あれ」という訳し方が正しいのか、それとも「善意の人に平和あれ」という訳し方が正しいのか……。
 カトリックのラテン語聖書では「御心に適う」という部分を「ボネ・ヴォルンタティス(voluntatis)」という言葉に訳しています。この「ヴォルンタティス」という言葉が後の「ボランティア(volunteer)」という英単語の語源になっています。そこで、善意の自発的意志という意味で「善意を持って行動することが大事なんですよ」という解釈がよくなされてきています。
 しかし、ギリシア語の新約聖書の原典を見てみますと、「地には上から(「エピ」という言葉が使われています)平和、喜ばれることの人びとに」というのが直訳になります。

喜ばれることの人びと

 「喜ばれることの人びと」というのはヘンテコな日本語ですけど、直訳するとそうなります。とっても単純な言葉です。単純だからどうにでも意味がとれるとも言えますが、「誰それの気に入ること」「誰それの嬉しいこと」の「人びと」というたった2つの単語で表されています。
 「誰それの気に入ること」「誰それの嬉しいこと」というのはギリシア語で「ユードキア」と言いますが、この「ユードキア」を「善意」という意味で使う例は聖書の中にはまず無いそうです。「善意」よりはむしろ「好意」の意味が多い。また、ルカによる福音書でもその他の文書でも、この言葉はもっぱら「神に喜ばれる、喜んでくれる」という意味で使われています。
 ですから、ここでの「ユードキア」も、まず「神さまが喜んでいる」「神さまが気に入っている」「神さまが嬉しい」という意味であることは間違いないだろうということです(田川建三『新約聖書 訳と註2上 ルカ福音書』作品社、2011、p.135-136参照)。
 ということは、すなわち人間とは「喜ばれることの人びと」だということ。すなわち人間とは、どんな人でも皆、神さまに喜んでもらえている、そういう存在なんだということなんですね。神さまが喜んで創ってくださったんだから、というわけです。
 何も難しいことはありません。

やわらぎ

 クリスマスの讃美歌は、ほとんどが「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」(いと高きところには栄光、神にあれ)ばかりを歌っているのですが、私が知っている限りでは、讃美歌の第二編の49番は、後半の「地には平和……」の部分も歌詞に含まれています。ご存じでしょうか? 「めーさめてー、たたえまつれー♫」という始まりの歌なんですが……。
 この讃美歌の3節はこういう風になっているんですね。歌ってもよろしいですか、そうですか、歌います(笑)。
   3 たえなるうたのひびき みそらにわたりゆきぬ
     「いとたかきところには みさかえみかみにあれ、
     地のうえに住むものに やわらぎとわにあれや」。
     アーメン

 この最後の「やわらぎ永遠(とわ)にあれや」という言葉がぼくは大好きです。
 ここでは、「平和」という言葉を「やわらぎ」というやまとことばに訳していますね。「やわらぎ」という言葉の響きは、いかにも柔らかい、安らぎに満ちたものという感触がします。この「やわらぎ」という言葉も漢字では「和」という文字を使います。
 「和らぎ」が地の上に住む神に愛された全ての人びとにいつまでもありますように、というのが、この讃美歌の締めくくりです。いい歌ですよね。
 
神の喜びを知らせる

 さて、今日の礼拝で読んで聖句からずいぶん離れて、ルカによる福音書の「ユードキア」の話が長くなりました。
 元々、司会の方に読んでいただいたイザヤ書43章4節は、神さまがいかに人を愛しているかを語った有名な箇所です。
 この箇所は新改訳聖書の日本語訳が気に入っています。こんな訳です。
 
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
 まさに、親バカ……ですね。「人が何と言おうと、わたしの目には、あなたは高価で尊いんだ。わたしはあなたを愛しているんだ」という神さまの告白をイザヤは記しています。
 この箇所は、イザヤ書の中では実は「第2イザヤ」と呼ばれている部分です。イザヤ書は今は一つの書物ですが、本当は3人の著者によって書かれたものが総合されたと言われています。そして、40章から55章までは「第2イザヤ」。バビロニア帝国に滅ぼされて強制連行され、国を失って絶望に瀕しているユダヤ人に、「いや、それでも、私はあなたを愛している。私はあなたと共にいる!」と説いた希望の書です。
 この一方的な親バカの愛は、先程の「ユードキア」につながります。
 もっとも、第2イザヤは、ユダヤ人だけのことを指して書いていたのかも知れません。しかし、新約聖書ではこの神の愛は、全ての人間に当てはめられます。
 人が何と言おうと、人間は神のお気に入りなのだ。
 私たち人間がここに生きているということを神さまが喜んでおいでなさるのだ。
 だから、私たちはみんな生きていていいのだ。
 生きているのは良いことなのだ。
 あなたが生きているのは、それだけで神さまの喜びなんですよ。
 それは、あなたが生きているのは、私の喜びでもあるんです。
 それをあなたに知らせたい。
 ……というのが私たちのミッションであります。
 「愛される喜びを伝えたい」という私たちの教会の合い言葉は、「あなたは神さまのお気に入りですよ」「あなたがいること自体を神さまが喜んでくださっていますよ」「わたしもあなたがいることを喜んでいますよ」ということを、言葉でもよい、行いでもよい、祈りでもよい、この世で証しすることを指しているのではないかと思います。
 ですから私たちは、私自身愛されている者だという自信を持って、このことを世の人に知らせる者でありたいと願うものです。
 説き明かしは以上といたします。あとは皆さんの思いをお聴かせください。





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