置かれた場所で咲けたらいいね

2014年1月12日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

約23分間
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聖書:ルカによる福音書13章6−9節 (新共同訳・旧約)

 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」





ライブ録画:説き明かし(23分間)+分かち合い(46分間)=計59分間


場違いな木

 今日のイエスにたとえ話は不思議ですね。
 ぶどう園にいちじくの木が植わっています。このいちじくの木は何年待っても実を結びません。そこで、このぶどう園の主人は、「こんな実のならない木は切り倒してしまえ」と言います。
 ところが、実際に木の世話をしている園丁は、「もう一年待ってください。来年は実がなるかもしれません。来年実がならなかったら切り倒してください」と言って、このいちじくの木を庇います。そこでこのいちじくの木は生き延びるというお話です。
 何が不思議かと言って、なんで、いちじくの木がぶどう園に植わっているんでしょうか。
 一言で言えば「場違い」……ですよね。いちじくの収穫を期待するのなら、いちじく畑に植えればいいわけですが、なぜかこのいちじくはぶどう畑に植わっています。
 なぜなんでしょう?
 わかりませんね。わかりません。それが何故かということを知る手がかりは、聖書には書かれていません。ですから仕方がありません。
 とにかく、場違いな木が一本あったということです。

置かれた場所で咲けたらいいね

 少し前に、『置かれた場所で咲きなさい』という本がありました。それなりに人気があって、よく売れたように聞いています。
 しかし、置かれた場所が自分にとってはどう考えても場違いだったとしか思えなかったり、必ずしも自分には向いていない職場であったりということが人間にはあると思います。
 それでも「咲きなさい」と言うのですか、と。
 それでも咲かせることができるような、自分なりの花でいいんだ、という考え方もあるんでしょうけれど、やっぱりなかなか花も実もならないということもあるんではないかと思います。
 自分の今いる場所では、どうにも花開くことはできない。けれども、だからと言って、別の場所にさっさと移り住んで新しい人生を始める、というようなことも、なかなか身軽にできないのが多くの人間の現実ではないかと思います。
 そこで、「花が咲いていないじゃないか」、「実がなってないじゃないか」と言われてもつらいんじゃないかと思うんですね。
 たとえば、原発事故のせいで、原発付近の土地はもうこの先長く、人の住めない土地になってしまった。自分たちが住んでいるところも、既に汚染されていて、住んではいけないとは誰も言わないけれども、だんだんと健康被害が出て来ている。しかし、この土地を捨てて、あるいは家族を捨てて、仕事を捨てて、どこかに移るということはできないとか。
 あるいは、就職活動でずいぶん大変な苦労をした結果、やっとありつけた仕事がキツすぎて、給料は安いし、仕事はつらいし、とてもこの先同じ仕事を続けられるかわからない、いつ体を壊してもおかしくない、ひょっとしたら過労死してしまうかもしれない。しかし、この仕事を失ったら、他の仕事はもう見つからないかもしれない。だから、到底辞めることはできないとか。
 また、私たちの身近に、また私たち自身も、もし別の人生があるなら、やりなおしたいと思う事が無いとは言えないと思います。
 そういう思いを抱いている人間に、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉をかけるというのは、言った当人はそんなに悪意があるわけではない、むしろ、「どこに行っても苦労はつきものなんだから、与えられた場所でがんばりなさい」くらいの意味で言っているんでしょうけれど、言われた人間の置かれた状況によっては、「いい加減な事を言わないでくれ」と思ってしまう場合もあるのではないかと思います。

待ってください

 というわけで、今日のたとえ話に出てくるぶどう園の主人は、「置かれた場所で咲けないんだったら、実がならないんだったら、そんな木は切り倒してしまえ」と言うわけですが、この聖書の箇所で描かれている園丁は、「ちょっと待ってください」と言って庇ってくれています。「今年は切り倒さないでください。来年は実がなるかもしれません」と言います。
 ここで私は、性格がちょっとおかしいのかも知れませんが、「じゃあ来年も実がならなかったら、どうするのかな?」と思ってしまいます。
 やっぱりこのいちじくは切り倒されてしまうのかというと、そういう後日談はこの聖書の箇所には書かれていません。私たちの手元にあるこのルカによる福音書には、「来年まで待ってください」と言っている園丁のお話しか残されていません。
 いつ読んでも、この園丁さんは「来年まで待ってください」と言ってくれていますよね。去年読んだ時も、「来年まで待ってください」。今年、いま読んでも、「来年まで待ってください」。そしてまた、来年になってから読んでも、また「来年まで待ってください」と言ってくれている。まるで、「明日からダイエットしよう」と毎日言っている人のようですが、まあそれと似ている。毎年読むたびに、私たちは「来年まで待ってください」というこの園丁の言葉に出会いなおすわけです。
 「確かに、今は花が咲いてない。実もなっていない。しかし、来年までここにいさせてやってくれませんか」と。そして、来年になってもまだ実がならなかったとしても、「もう1年待ってくれませんか」と。それが神の愛なんだよ、とイエスは言っているのではないでしょうか。
 遊牧民のように自分で自分の行きたいところ、自分の生きやすい所に移って行ける人はそれでいいのですが、植物のように、自分ではなかなか居場所を移すことができないまま、生きづらさを抱えている人も、世の中にはたくさんいます。
 また、居場所があったとしても、成果らしいことを求められて、それに十分応えることができない。世俗の価値観ではダメの烙印を押されるような人間であっても、「あなたはここにいていいんだ」と言ってくれる園丁のような愛がある。私たちが伝えたいのは、そういう愛なんだと、ルカは伝えてくれているんですね。

待ってくださる

 実は、いちじくの木の話で、こんな気長な話が載っているのはルカによる福音書だけです。
 他の福音書には、たとえば、いちじくの木に実がなっていなかったのを見て、イエスがキレて「枯れてしまえ」と言ったとかいう話はあります。そして実際枯れてしまったというお話。
 また、いちじくとは言っていませんが、「斧は木の根元に置かれているんだ」とか、「良い実を結ばない木は切られて火にくべられるぞ」といった話が聖書には多いです。
 「良い地に蒔かれた種は、良い実を結ぶ」とか、「種は小さくても、大きく育つ」とか、「一粒の種でも、たくさんの実を結ぶ」とか、そういう話ばかりが聖書に収められています。
 これに対して、実を結ばないにも関わらず、「待ってください。切らないでください」と言っているのはルカだけです。
 よく聖書の解説などの本を読んで言われているのは、「実を結ばない木が切り倒される」というのは、「迫り来る終末を前にして、悔い改めて神に対する信を表さないものは滅びるぞ」という意味なのであろうという解釈です。「もうすぐ終末が来るんだ、時間がないんだ」という切迫した感情の中で書かれているわけです。聖書の中でも、一番早い時期に書かれたのはパウロの手紙ですけれども、イエスが亡くなってから20〜30年くらいの間に活躍したパウロさんの意識の中でも、「もうすぐ終わりが来る! もうすぐキリストが再びやってくる!」という思いは強かったわけです。
 ところが、これも多くの解釈者が言っていることですが、ルカというのは、「終末の遅延」と言いまして、「待ってはいるけどなかなか終末が来ないな」という意識を持っているんですね。「もうすぐ来る!」と身構えていたのに、なかなか来ないわけです。
 もうイエスが亡くなってから50年以上が経っていますから、だんだんしびれが切れてくる。そこでルカは、「終末というのは、これはすぐには来ないんだ」という前提でものを言い始めているとされているんですね。
 私は思うんですが、ルカは気づいたんじゃないかと思うんです。「待っているのは私たちではなく、神さまのほうなんじゃないか」と。
 そして、「イエスが十字架にかかって人間の罪を贖ったということは、色々と至らないことも多い人間のために、イエスはこの物語の園丁のように、神さまに対して取りなしをしてくれているということなんだ」、とルカは訴えているのではないかと思うんですね。

そこにいていい

 さて、それから2000年近くの時が流れて、終わりの時はまだ来ていません。
 たぶん、この世の終わりが来る前に、みんな自分の人生の終わりの方が先に来てしまうでしょう。
 いや、この前どなたかが分かち合いでおっしゃっていたように、実はもう世界は終わるかも知れません。しかし、たぶん、一瞬にして終わるのではなく、人類が滅亡するとしても、じわじわと時間をかけてであり、たぶんここにいるメンバーが全員死ぬ頃になったとしても、まだおそらく世界は存在し続けているでしょう。
 そして、一種の言葉遊びのような話ですが、私たちは「死にさえしなければ、生き続けます」。よく冗談で言うんです、「大丈夫、大丈夫、生きてさえいれば死ぬことはないから」とかですね。「生きてさえいれば命まで失うことはないんだから」。「大丈夫、死ぬまではちゃんと生きてるから」と。
 死にさえしなければ、今日も明日も、今年も来年も生きていることになるでしょう。今日、花が咲かなかったら、明日咲くかもしれないじゃないか。明日咲かなかったら、あさって咲くかもしれないじゃないか。
 今年実がならなかったら、来年実がなるかもしれない。来年実がならなかったら、再来年実がなるかもしれない。
 そんな風に、このぶどう園の園丁さんは、場違いなところに生えているいちじくの木を、今年も来年も再来年も庇ってくれます。いちじくの木は居場所を失うことはありません。枯れるまで。
 この世では、成果主義の嵐が吹き荒れています。成果を出さないもの、利益を出さないものに価値はないという思想が全ての人を覆っています。
 しかし、私たちは、いつまでも「待ってください」と取り成してくださるイエスの愛、いつまでも待ってくださる神の愛もあるのだと、信じ、宣べ伝えたらよいのではないかと思います。
 少なくとも教会はそのような場所です。
 誰でもが安心して居場所にできるような場所がこの世にある、と世に示したいなと思います。
 皆さんは、どうお感じになりますでしょうか。





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