紙は愛なり

2014年2月2日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

約20分間
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聖書:ガラテヤの信徒への手紙6章11節 (新共同訳・新約)

 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。





ライブ録画:説き明かし(20分間)+分かち合い(43分間)=計63分間


記録と秘密

 特定秘密保護法という法案が、昨年の12月6日(金)の夜、参議院本会議で可決し、成立しました。
 この法律には賛否両論あります。その賛否について、ここで私がどうこう述べたり、皆さんで論議していただいたりということを今日は望んでいるわけではありません。
 ただ、この法案を巡る論議をマスコミなどを通じて見たり聞いたりしているうちに、私が懸念に感じたのは、情報公開のルールのことでした。
 国家を始め、どんな社会集団でも、個人でも秘密にしておかないといけないことというのは当然あると思います。しかし、国や自治体などの公共の機関が、ある一定の年数が経った情報については公開するというルールを持っている国があります。アメリカもそうであるように聞いています。
 特に主権が国民にあるはずの民主国家においては、機密であっても、時代が移り変わって30年なり、50年なり経てば、ある程度利害関係も変化しているわけで、その時点で、当時は機密であった情報を国民が見る事ができるというルールははっきりと決めておいたほうが良いのではないかと、私は個人的には思っています。
 同志社大学神学部出身なので、私の先輩に当たる人で、直接知っているわけではありませんが、佐藤優さんという著名人がおられます。ロシアの大使館に勤めていた元外交官で、スパイ容疑で捕まってまだ判決が出てないという人ですけれども、今は作家としてかなり精力的に活躍しておられます。
 この方が、この特定秘密保護法案を厳しく批判しておられて、あるインタビューの中で、官僚というものがいかに自分に都合の悪い情報を消してゆくかということを赤裸々に語っておられました。
 自分に都合の悪い資料やメモはどんどんシュレッダーにかけて証拠隠滅してしまうらしいんですね。情報公開のルールが無いと、そういうことがもっと野放しに行われるようになる、と言って警戒しておられました。「ちょっと、そこまで言って、この人危なくないのかな?」と思ったりもしましたが、一度逮捕されて監獄に入ったことのある人というのは腹の据わり方が違うのかも知れません。
 ぼくは韓国ドラマはあまり見ないのですけれども、それでもいつか偶然見かけてしまった時に、感心したのは、韓国の宮廷を舞台にした時代劇をよくやっていますよね。その昔の宮廷劇で、よく宮廷内に、記録を残す役職の人が登場してきたりしていますよね。
 確か、宮廷で、文字だけでは無くて、絵も描いてとにかく歴史に記録を残すという仕事をしている女性が主人公のドラマも以前にやっていたはずです。
 あれを見て、ぼくはとても感心しました。ああいう「記録を残して後世に伝える」ということを重要視している文明は立派だなと思ったんですね。人間は過去の歴史を学ぶことで、未来に生きるための教訓をたくさん引き出す事ができる。だから、今はどういう価値を持つかはわからないけれど、とにかく記録を書いて残す、という知恵をちゃんと活かしている人たちは偉大だなと思いました。

恥の歴史も貴重な証拠

 たとえば、今でも南京大虐殺はあったとか、無かったとか、慰安婦はあったとか無かったとか、国家が関与していたとか、してなかったとか色んな事を言う人がいます。
 最近もFacebookである人と縁を切ったのですが、ぼくみたいに、天皇制を批判したり軍国主義に対する懸念などをネットに書き込んだりしていると、ネトウヨと呼ばれるような人たちに叩かれます。
 よく言われるのが、「日本が軍国主義に向かっているなんてのは、中国や韓国の政府やメディアに踊らされているマヌケだ」とか、「中国は日本との戦争で死んだ戦死者の数を、どんどん水増ししている。あんな嘘つき国家の言うことを真に受けてる馬鹿者」といったことですね。そういう言われ方をします。
 ぼくは、別に中国や韓国のスポークスマンやメディアが言ったことを気にしているわけではありません。むしろ、そういうことを言わせている日本がダメなんだろうなと思います。
 これもよく言われるんですが、慰安婦にしろ虐殺にしろ、軍が都合の悪い資料を処分して証拠隠滅するのは当たり前だと言う人がいます。一見もっともらしいのですが、やはりそこが日本の歴史観の浅さであり、逆につけ込まれるところではないかと思うんですが、いかがでしょうか。
 自分たちに都合の悪い資料は残したくない、あるいは自国の利益のためには証拠を隠滅するべきだという気持ちもわかるんですが、その時の当事者にとっては都合の悪い事実であったとしても、後々の時代においては貴重な歴史の資料になります。
 後の時代の歴史家たちは、利害関係がないですから、客観的に評価してくれる可能性が高いです。そうすると、たとえ悪いことや恥ずかしいことであったとしても、「ここまではやったが、これ以上はやっていない」ということを証言してくれる資料にもなり得ます。それをちゃんとやってないから、資料があやふやで、悪意のある人びとにつけこまれて、悪事を膨らまされてしまうんですよね。
 また、その時の当事者が、自分たちのやったことをちゃんと記録に残して、後代の歴史家に判断を委ねるというしっかりとした歴史に対する態度を保っていたら、逆に恥ずかしいことや卑劣なことをしないんじゃないかと思うんですが、そう思うのは人が良すぎるでしょうか。
 いざとなったら証拠を消してしまえばいいんだと。そういう発想で普段から仕事をしていたら、そりゃ恥もかきすてになりますし、平気で卑劣な行為もするでしょう。
 もちろん、都合のいいことばかり書いて残せばいいんだという考え方もあるでしょうが、それでも、「記録を安易に捨てない」という文化がその文明に根付いていれば、やはり都合の悪いことも完全に隠す事はできませんし、たとえ都合の悪いことでも、資料が豊富にあれば、なぜそのようなことをせざるを得なかったのかということも、後代の人はきちんと評価してくれると思うんですね。
 ですから、古くなった情報は公開するというルールを明文化しておくことは、とても大事なのではないか、と思うわけです。未来の人びとが自分たちを正当に評価してくれるだろうと信じて文書を残す事は、結局は自分のためにもなる、賢い行為だと思うんですね。

パウロの戦略

 さて、なんでこんなに長々と資料の保存の話に熱くなってしまうのかというと、やはり聖書に関心があり、聖書の言葉によって生きようとしている人間だからなんですね。
 聖書は古代からの書かれた文書の集大成です。その中でも、著者がハッキリわかっているのは、唯一パウロだけです。パウロこそは、文書というものの強さを知っていて、文書を残すという戦略によって勝利をおさめた人と言えます。
 新約聖書の27巻の文書のうち、21の文書が手紙です。つまり大半が手紙です。その中で7巻、すなわち3分の1はパウロという人が書いたとされています。筆者がはっきり特定できるのはこのパウロさんの書いた7巻だけで、あとはパウロの名を騙って誰かが書いた手紙が6巻あります。パウロの名を騙るということは、それだけパウロの手紙の影響力が大きかったから、それにあやかったんでしょうね。
 ということは、新約聖書27巻の中で、パウロとその影響を直接受けた人の書いた書物が合計13巻あるということで、新約聖書のおよそ半分は、パウロの影響下にあると言うことができます。
 2000年近くの歴史の中で、キリスト教というものの教義の基礎となる神学を示し、キリスト教の根幹の部分を築いたのは、明らかにパウロの業績が大きかったと言えるでしょう。
 けれども、近年の研究では、パウロが生きていた当時は、彼がキリスト教会の主流であったとは言えないとされています。また、彼がキリスト教をヨーロッパ全土に広めたように思っていた人もかつてはいましたが、今はそうではないことが明らかだとされています。
 考えてみれば簡単なことですが、例えばパウロさんが「ローマの信徒への手紙」という手紙を書いたのは、「これから私もローマに行って、あなたがたに福音を宣べ伝えたいのです」という意図で書かれていますが、彼がそういう手紙を書いているということは、彼がローマに行く前に、既にローマに教会を創立した誰か開拓伝道者がいるわけですね。
 また、ローマから来た信徒で、パウロの有力な協力者になったプリスカとアキラという夫婦の名前を知っている方もいらっしゃると思いますけれども、こういう人たちもローマの教会出身で、パウロの右腕になるような信徒が既にローマで育っている、ということは、パウロ以前にそれだけしっかりした指導者がいたということですね。
 それから、新約聖書にはパウロさんやペトロさんのように男性の使徒の活躍ばかりが書かれているようですが、実は使徒というのは男性だけではなく女性の使徒も当たり前にいて、やはりあちこちで活躍していたということも明らかになってきています。
 そういうわけで、パウロ以外にもたくさんの使徒がいて、たくさんのグループがあって、様々に個性的なキリスト教の伝道を行っていたのだけれど、なんで今、パウロの名前がこんなに強調され、パウロの影響がキリスト教に大きく残っているのかというと、結局パウロが文書伝道に熱心で、その文書がたくさん残されることになったということに他ならないわけです。
 パウロは、「文書を残す」という戦略で、他のキリスト教の様々なグループに対して優位に立つことになったわけです。

文書伝道者パウロ

 さて、今日の聖書の箇所は、説き明かしらしい説き明かしになっていないかも知れませんが、私が個人的に面白いと思っている箇所です。
 「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」(ガラテヤ6:11)と書いていますね。
 そもそも、この時代、文字が読み書きできる人というのは、ほんの数%の人たちです。9割以上の人が文字の読み書きができません。ということはパウロは非常に裕福で地位の高い人だということができます。ユダヤ人であるにも関わらず、ローマ人としての市民権まで持っていたというんですから、相当に身分のある人です。
 そういう人は、自分で手紙は書きません。秘書というか書記に書かせるんですね、しゃべったことを。そして、最後に書かれたものを読んでもらって、良しとお墨付きを出して、その手紙を送るわけです。
 ところが、ここの聖書の箇所は、パウロさんもだんだん言葉に熱がこもって興奮しちゃって、それで書記からペンを取り上げて、「わたしは今こんなに大きな字で、自分の手で書いています」と言ったわけです。
 その興奮の度合いが伝わって来るので、ぼくはこの箇所が面白くて好きなんですね。
 その一方で、このパウロという人は、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(Ⅱコリント10:10)とある人たちには言われているんですね。コリントの信徒への第二の手紙に書いてありますけど。可哀想に。こんなこと言われたら牧師はたまりませんよ。「書いてることは立派やけど、説教はぱっとせんし、つまらんな」と。それが本人の耳にも入っているほどですから、相当彼の評判は低かったんでしょうね。
 でも、だからこそ彼は文書伝道の方に自分の力を注ぐ事になったんでしょう。そして、結果的には彼の残した文書が、彼の死後も力を発揮して、キリスト教の主流を成すまでになっていったわけです。

書き残す力

 我々はよく、「書いたものは残るから」と言います。他人の悪口や身内の恥になるようなことは、なるべく書いて残さない方がいい、というのが生活の知恵であるという面は確かにあります。他人の悪口を書いたりすると後々禍根を残すこともありえます。しかし、愛のこもった真実の言葉は、後世の人びとにもその愛を伝えることができます。
 教会にいる私たちは、この聖書という、膨大な数の文書を、知と霊の遺産、あるいは愛の手紙として受け継ぎ、共有している共同体です。
 これからも、私たちは、この人類最古の遺産のひとつであるこの聖書と対話する時間を大切にし、その対話によって自らの生き方をふりかえりつつ、歩んでゆきたいと思うものです。
 みなさんは、どのようにお感じになるでしょうか?
 




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