罪深き者の嘆きは誰が受けとめるのか

2014年4月6日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

24分間
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聖書:マルコによる福音書14章66−72節 (新共同訳)

 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。





ライブ録画:説き明かし(24分間)+分かち合い(17分間)=計41分間


レント

 レントも中間期の折り返しを迎えました。皆さんはそれぞれに、どのような受難節をお過ごしでしょうか。断食をしたり、禁酒をしたりする人もいます。私は禁酒はしていませんけれども。
 しかし、何らかの形で、自分の罪深さを含めて、生き方を全般的に反省し、自分を見つめなおし、新たな自分のあり方、生き方を考え直す時期であるとされていますし、私自身も、この1年間を振り返って、何がいけなかったのか、これからはどうしようか、ということを考える日々を送り、そういう時間を持つ事を許されています。

ペトロの否認

 罪ということを考える上で、今日はイエスの受難の物語の中から、ペトロの3度の否認:ペトロがイエスのことを3度知らないと言った物語を取り上げさせていただきます。たいへんよく知られた物語ですね。
 イエスの受難の物語:イエスが最後の晩餐を弟子たちと交わし、ゲツセマネで祈り、逮捕され、インチキ裁判を受けて冤罪を着せられ、ピラトと問答をし、十字架にかけられて、死んで墓に葬られたという一連の物語は、私が学んでいるリベラルな聖書学の流れでは、ほとんど事実の記録ではなく、あくまで教会の中で次第次第に何年もかけて作られていった物語なんですね。
 おそらく確実な事実は、イエスが十字架にかけられて殺されたということだけだとされています。また、十字架ではなく、実は1本の杭に叩き付けられただけなんだという学者もいます。あるいは、T字型の杭なんだという学者もいます。それくらい、受難物語というのは、謎の部分が多いんです。しかし、確実にイエスが殺されてさらしものにされたというのは間違いありません。
 このように、作られた部分がほとんどというなかで、私個人は、このペトロが3回否認したということは、事実に基づいているのではないかと感じています。
 と言いますのも、何回か前にイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことについてお話した時にも、同じようなことを申し上げましたけれども、これは決してキリスト教会にとって都合の良い話ではありませんよね? 例えば、イエスは神の子だと主張したい教会にとって、イエスが洗礼者ヨハネという一介の人間に過ぎない人の弟子になっていたというのは、あまり広まってほしくない情報です。しかし、否定しようにも誰もが常識的に知っていたから否定できなかったので、伏せておくわけにもいかなかった。だから、イエスの公の活動の最初に書かざるを得なかったというわけです。そして、後の方で書かれた福音書になるにしたがって、だんだんとイエスの方が実は上だったという脚色がなされてゆくようになります。
 それと同じように、このペトロがイエスを、イエスが逮捕された直後に「そんな人は知りません」と言ったということは、これは決定的に教会にとって都合の悪い情報です。こんな話は既に教会で有力なリーダーとして位置づけられていたペトロの名誉になるはずがありませんから、教会が作り出した話とは思えません。むしろ名誉の失墜に関わります。
 また、ペトロに批判的な人たちから出て来た批判としての創作話であったとしても、根拠が無ければペトロ自身が「そんなことはありえない」と否定すれば済んだでしょうし、教会の人びともそれを受け容れなかったでしょうから、ずいぶん後になって書かれた福音書にそういう話が伝えられるということもなかったでしょう。ということは、イエスが逮捕された時の出来事として、結構人々の間に知られていて、ペトロ自身も否定できなかったと考えざるを得ません。
 物語としてそれが3回であったとか、鶏が鳴く前だったとか、このあたりの脚色は福音書記者によってなされているでしょうけれども、とにかくイエスが逮捕された直後には、ペトロがイエスのことを知らないと言っていたのはまず間違いのない事実であったということです。

裏切り

 これは裏切りです。
 人間誰でも、他人よりも自分のことが可愛いという面があります。どんな相手でも、その人と一緒に自分も被害や不利益をかぶるということは、なかなかできるものではありません。
 しかし、その相手が、自分が大切にしよう、自分はこの人のために生きよう、あるいはこの人と運命を共にしようと一度は決心した人であったなら、どうでしょうか? あるいは、この人たちのために自分の生涯を捧げようと決心したことがあるような人たちを相手にしていながら、その人、あるいは、その人たちを愛し切れなかった、結局は自分が可愛かったという結果に終わった時、これ以上の深い挫折感、自己否定の感覚は無い程だと思います。
 ペトロの場合、自分の親譲りの仕事も放り出して、イエスについて各地をさまよい歩き、寝食を共にして、神の国の先取りを実践する活動をイエスと一緒になって行ってきました。イエスが「自分はもうすぐ逮捕される」という時に、嘆きの祈りを捧げる際にも、ペトロとヤコブとヨハネを伴ったと言われるほどイエスにも信任されていたペトロです。ペトロ自身も、イエスを思う気持ちは誰よりも強いと、彼自身自認していたでしょう。
 しかし、イエスが逮捕される瞬間、ペトロは他の弟子たち同様、一目散に逃げてしまいましたし、その直後も、恐らく「お前はあのナザレのイエスの仲間だろう」と人々から、あるいは当局から尋問されるなどして、「私は知らない!」「私は知りません」と答えていたのでしょう。
 「『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」(マルコ16:71)とまで書かれていますから、ひょっとしたら、宣誓を求められた上で、「知らない」と告白したのかもしれません。
 そして、彼は、イエスを裏切った自分を恥じて、その情けなさと罪意識のあまり泣き伏したのだろうと思います。

裏切り者の嘆き

 罪を犯した当事者の問題。取り返しのつかない大きな罪を犯した本人の救いはどこにあるのでしょうか。
 また、何度悔いても、また罪を繰り返してしまう自分を抱えた人間はどうしたら救われるのでしょうか。
 ここで申し上げている「罪」とは、聖書の原語である「ハマルティア」、すなわち「的外れ」という意味だけではなく、もっと広い意味で、たとえば深いつながりにあるはずの人への裏切りや人間に対する暴力、虐待、傷つける行為という意味も含む、日本語的な意味での「罪」です。
 もちろん罪を犯した加害者よりも、罪によって大きく傷を受け、裏切られた人間の痛み、悲しみ、苦しみのほうが、いち早く癒されなくてはならないのは言うまでもありません。犯罪被害者をいかに守るかということが大切です。
 しかし、罪を犯した者が更生するということも、特に本人がその罪を悔いている場合、大切な問題ではないのかなと私は感じています。特に、私自身がこれまで生きてきた中で、大きな裏切りや虐待を行ったことのある人間として、今もこれからもどうやって生きてゆかねばならないのかという意味で、たいへん大きな問題だと感じています。
 ひとりぼっちでいる時、時に夜、眠る前に横になって、ふと今日のこと、昨日のこと、もっと過去の記憶が蘇ってくるたびに、何度も「ああ、自分は馬鹿だ!」、「ああ情けない!」と顔を覆うことがあります。自分のような人間が生きていて何になるのだろうか。死んでしまった方が世の中のためじゃないかと思うこともしばしばあります。
 しかし、それでも生きてゆかねばならぬ。色々事情もあって、今死ぬわけにもいかない。しかし、どの面を下げて生きていくのか……。生き続けること、すなわち恥であります。もう開き直って、なりふりかまわず生き恥をさらしながら生きているというのが私の正直な気持ちです。
 なりふりかまわず生きてゆくと言っても、やはり、どこかで自分の罪深さに対して、「赦されたい」という思いが潜んでいます。「赦されずにはとても生きていられない」と思います。どうすれば赦されるのだろうか、と求めています。

加害者の赦し

 しかし、人は容易には赦してくれません。
 加害者が赦しを求めても、「何を甘えているのか」、「何を虫のいいことを言っているのか」と拒絶されます。当たり前のことです。虫のいいことを求めているのです。そういう虫のいいことを人にすぐ求めてしまう浅ましさに、再び情けない思いに覆われます。
 泣く事さえ、自分には許されていないのではないか。悔い改めて、再びやり直すことは許されていないのかと絶望します。
 以前、ドメスティック・バイオレンス:家庭内や恋人関係における暴力や虐待についての本を何冊か読んで、学んだことがあるのですが、これは自分がまだじゅうぶんたくさんの資料に当たっていないからかもしれませんが、世間で出版されているドメスティック・バイオレンスに関する本には、加害者がどうやって自分を変えることができるのか、ということを書いているものはありませんね。あるかも知れませんが、私は知らないので、教えていただければありがたいと思います。
 世の中に出ているDVに関する本は、もっぱら被害者の視点で書かれています。当然と言えば当然ですよね。DVに苦しんでいる女性をまず助けないといけないのですから、被害者の救出、救済が喫緊の課題であることは間違いないので、当然です。
 そういう本には、たいてい「加害者は変わらない」と書いてあります。加害者は絶対に変わらないから、そういう人間に期待することはきっぱりと諦めて、そういう人間からは離れなさい。遠ざかって連絡も取れないようにしなさい、と書いてあります。
 被害者のためには、それが正しい判断だと、私も思います。
 しかし、変わりたいと思っている人間は本当に変わる事はできないのでしょうか?
 まだ、書店には、DV的な体質を持つ男性が、なんとか自分を変えたいと思っていたとしても、その手助けをしてくれるような書物は出ていないようです。書物に触れる限りは、「おまえが自分を改めるのは不可能なんだ。それはお前の意志とは関係なく刻み付けられた罪の体質なのだから、改まるのは不可能なのだ」と断罪されているようです。

赦すことと赦されること

 自分が数々の罪を犯してきて、どうしようもない人間であっても、できることはあります。
 それは、人の罪の告白を受け止めることです。
 私は大抵の悪いことをしましたという人の告白には驚きません。大抵の「私は罪深い人間です」という人の話を聴いても、「いや、私のほうがひどいですよ。あなたはそんなに罪深くないですよ」と言って差し上げることができます。
 まあ、私はカトリックの司祭ではなく、教会や学校に告解室があるわけではないので、そんなに面と向かって人には言えないような告白をする方はたくさんはいませんけれども、ネットではよく告白を受けます。匿名でメールを送って来られる方が多いです。
 今まで、「この人はダメだ」と思ったことがありません。いつも、「ああ、この人は私よりいい人だなあ」と思います。ですから、自信を持って「あなたは大丈夫ですよ。こんな私でも天罰も受けずに生きていますから。あなたが天罰を受けるなんてありえないですよ。あなた赦されていますよ」と言い切ることができます。ある意味、こういう事をスパッと言い切ることができるのが、罪深い事をしてきた人間の特権かもしれないとさえ思ったりします。
 そして、そんな風に、「あなた大丈夫ですよ」と私のような人間が言えるくらいですから、神さまだったら、もっと大きな心で、私が悔い改めて、何度失敗してもやり直したいんですという思いを分かっていてくださるんではないだろうか、と願ってやまないのです。
 「主の祈り」の中に、「私が赦しますように、私の罪をもお赦しください」という言葉が含まれています。これを祈るたびに、私の心の中に深い何とも言えない感情がこみ上げてきます。
 「もう罪を犯しませんから、これまでのことをお赦しください」というのではなく、自分がこれからも罪を犯すことを決して否定してはいません。しかし、私は罪深い者だからこそ、人の罪を赦すことができる。ですから神さま、私の罪も赦してくださいませんか、という願いが込められているように感じるからです。
 人が赦さなくても、神さまは絶対に私の嘆きを、遮らずに聴いてくださる。必ず受け止めてくださると信じたいと思います。
 神さまが沈黙しておられるということは本当に恵みです。神さまは私たちの泣き言のような祈りも願いも、遮ることなく際限なく聴いてくださいます。
 ですから、もし皆さんも、人には言えないような事があったとしても、神さまに聴いていただいてください。神さまに受け止めていただきましょう。罪深い者にとっては、そうする以外に生きる希望は無いと思われるからです。
 今日のお話は以上とさせていただきます。


 ※ペトロの否認物語の解釈については、広島大学の辻学先生によるアドバイスに多く依拠しています。辻先生の助言に感謝致します。
 
 




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