イエス様は子どもたちのために憤っておられる

2014年5月5日(月) 

 日本キリスト教団大阪教区 第59回定期総会 開会礼拝説教
 (キリスト教学校の働きをおぼえて)

20分間
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る



聖書……マルコによる福音書10章13−16節 (新共同訳)

【新共同訳】
 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

【田川建三訳】
 そして彼にさわってもらおうと、子どもたちが彼のもとに連れて来られる。だが弟子たちは子どもたちを叱りつけた。
 イエスは見て、憤り、彼らを叱りつけて言った、「子どもたちが私のもとに来るがままにせよ。妨げてはいけない。神の国はこのような者たちのものだからだ。アメーン、あなた方に言う、神の国を子どもを受け入れるようにして受け入れるのでない者は、そこに入ることはできない」。
 そして子どもたちを腕でだきあげ、その上に手を置いて祝福した。






ライブ録画:(聖書朗読+説教=21分間)


子どもたちを教会へ

 子どもは次の世代を担う人々であり、私たちの未来そのものです。
 子どもを育てることは、私たち自身の未来を形作るわざです。
 私は日々、子どもたちを育てるために教会から遣わされてキリスト教学校で働ける恵みを心から感謝しています。
 と同時に、私たちは、キリスト教学校が教会と切り離された状態で宣教のわざに励んでいても全く意味が無いこともよく認識しています。聖日ごとに私たちの生徒らを温かく迎え入れてくださっていることを感謝いたします。
 日本のほとんどの家庭の子どもたちが、家庭に聖書もなく、教会が自分たちの住んでいる地域のどこにあるのかも知らずに暮らしています。新入生の中には、「教会って何?」と言っている子どもさえたくさんいます。そのような子どもたちに、「一家に一冊くらい聖書があってもいいだろう」と聖書を販売し、キリスト教会とはどんなところか、「怖いところではないんだよ」と話し、「日曜日に一度教会というところに行ってみてごらん」と送り出しています。
 学校の課題で行く事になった教会ではあっても、生徒たちは教会の信徒の方々の温かい歓迎に、とても心を癒されているようです。
 考えてみれば、今の子どもたちの中には、自分のありのままを愛されるという体験をしている子がほとんどいません。勉強をして成績を上げる。スポーツで優秀な戦績を残す。そういった大人が喜ぶような、誉められるようなことをしなければ全く評価されません。
 いつも条件付きの愛情しか与えられない。親の期待を満たした子どもは、ご褒美をもらえる。しかし、次に期待を満たせなかったらどうなるか、という不安を子どもは常に抱いています。また、親の期待を満たせなかった子どもは、落胆した親を見て、自分は悪い子だ、自分はダメな子だ、自分は価値の無い子だと罪悪感に悩まされます。
 ありのままの自分を認めて、受け容れてもらえて、愛してもらえない子どもたちは不幸です。それは一種の虐待に近いと言えるでしょう。
 そのような、貧富の差に関わらず、魂に貧しさと飢えを抱えた子どもたちが、教会の門をくぐるわけです。
 教会には、ホスピタリティに満ちた歓迎が待っています。子どもたちは初めて自分たちがありのままで受け容れられているという世界に触れます。これは彼ら彼女らの人生において、とても大切な原体験となります。

いまそこにある危機

 子どもたちは未来そのものです。子どもを守り、育てるということは、私たちの未来を守り、育てるということです。
 しかし、私たちの置かれている状況は、決して生易しいものではありません。
 日本国憲法は改訂の危機に瀕しており、文言だけでも戦争放棄をしたはずであったのに、今ははっきりと国防軍の存在を明記した条文への改定が推進されています。
 また、自衛隊の国防軍への昇格を待つまでもなく、集団的自衛権の容認に政府は非常に積極的であり、日本の兵士たちが日本の本土防衛だけでなく、海外の戦地へと送られる可能性も急速に高まってきました。
 経済政策で潤っているのは一部の企業だけで、国民のほとんどは豊かになっていません。むしろ、労働者を取り巻く環境は厳しさを増すばかりです。正規採用の門戸は狭まり、企業はより従業員を解雇しやすいように規制緩和が進められています。
 生活が安定しない若者が増えて、国防軍のプレゼンスが高まるとどうなるか。若者は食べるために軍隊に入るようになります。「食い詰めたら軍隊に行くしかない」というのは、いつか来た道ではないでしょうか。
 そして、そのような軍国化と歩調を合わせるように、政府は道徳教育による国民のマインドコントロールに既に乗り出しています。
 他の教科の教科書とは違い、文部科学省の著作による道徳教科書、全国の小中学生の分が、全て無料で、つまり税金で用意されています。その内容は集団の秩序を乱さずに行動することを奨励し、異性愛以外には愛がないかのように教え込み、仲間意識、家族愛、郷土愛を育んで、その先に祖国への愛を養うという内容になっています。鈍感な人が読めば、良いことばかり書いてあるように見えます。
 しかし、この教科書は他の教科と違い、各学校に強制されます。特にこの大阪府は、この教科書を全生徒に配布し、活用しなければ、私学助成金のカットも辞さないという圧力をかけてきています。つまり、キリスト教学校も、この教科書を配布しなければ、財政的に崩壊します。教科書を配布して用いるか否かが、学校存亡の危機に関わっている。いま既に私たちはそのような戦いに放り込まれています。

新たなるキリシタン迫害

 やがて、道徳科という教科が必修となり、道徳科の教員免許を持った教師が育成され、私立学校にも例外なく道徳科を設置するように法制化されてしまいますと、今度は教科書の内容をもっと国家に都合の良いものに変えてゆけば、子どもたちは政府の思いのままです。
 その結果……楽観論あり、悲観論あり、いろいろなケースが想定されてはいますが、最悪のシナリオでは、私たち聖書科の教員はキリスト教学校においても職を失い、聖書科は道徳科にとって替わられ、キリスト教ではなく、政府の決めた道徳だけが教えられるようになります。
 こうなってしまうと、新たな「キリシタン禁制」とまでは言わないまでも、キリスト教学校によるキリスト教伝道の裾野を広げる働きが、根絶される。つまり、子どもたちを育てる公教育の現場からの「クリスチャン外し」が始まっているとは言えます。
 そのような危機に私たちはもう襲われてしまっている。これが私たちの現状であり、キリスト教学校で働く牧師達は、この危機と日夜戦っています。それは、伝道・宣教の砦を守る戦いです。やや絶望的な戦いでありますが。

子どもを食らう大人たち

 私たちは、このように、子どもたちを企業や軍隊で使い捨てにしようとする悪魔的な力と戦う日々を送っています。若い命を使い捨てにし、未来を現在が食いつぶす、悪魔的な力です。教会の未来だけではなく、国民の未来が危ない状況です。大人の利害のために、子どもを食らう悪魔的社会です。
 どこに私たちの希望があるでしょうか? 何を私たちは私たちの拠って立つ土台とするべきでしょうか?
 私たちは、主イエスにその範を求めます。
 マルコによる福音書第10章13節以降をお読みいただきました。
 子どもたちが
「イエスに触れていただくために」(13節)連れて来られます。皆様もご存知の通り、イエスは触れる事で人を癒され、慰められる方です。子どもたちを連れて来た人々が、わが子をイエスに愛してもらい、イエスに祝福してもらいたいと願ったのは当然のことでしょう。
 しかし、イエスの弟子たちはこれを叱りました。「こらこら! ここは子どもの来るところじゃない!」といった物腰だったのでしょうか。
 ユダヤ人の社会では、子どもは非常に熱心に教育されるというのは、周知の事実ですが、父親の厳しい管理の元で、自由な暮らしとは程遠かったでしょうし、その一方で、圧倒的に貧富の格差が激しい社会では、子どもの労働や苦役は当たり前であったでしょう。子どもの権利などという言葉も存在しなかった時代ですから、子どもが一人前の人間として正当に認められていたとは到底思えません。
 少なくとも、弟子たちが「こらこら! 子どもはダメだ! 子どもは後だ!」と言ったけれども、これは実はそんなに当時の子ども観としては当たり前の感覚だったのかも知れません。
 しかし、イエスはそんな弟子たちに
「憤り」(14節)、叱りつけました。イエスの感性からすれば、弟子たちのこの行動はとても容認できなかった。「何をするんだ! 子どもたちを来させてやりなさい! 子どもたちの邪魔をするな! 神の国はこのような者たちのものなんだ!」
 弟子たちは心底驚いたかも知れません。弟子たちの感覚のほうが、当時の時代状況からすれば自然なものだったでしょうから。そして、もちろん彼らはイエスを敬う気持ちでそうしたのでしょうから。イエスの方が、その時代、その社会では、人々に違和感を生むほどユニークだったのでしょう。イエスは、その時代・社会の人々から観れば、常識はずれなほど子どもを大切にされました。

子どもたちを受け入れよ!

 そして、イエスは、新共同訳聖書に拠れば、
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(15節)と語られたとあります。
 ここは二種類の読み方が学者によって示されていますね。「子どもが神の国を受け入れるように」神の国を受け入れよ、と訳す説もあれば、「子どもを受け入れるように」あなたがたは神の国を受け入れよ、と訳す説もあります。
 イエスが「子どもたちを受け入れたいのだ!」と強く願っておられるという、この物語の文脈から観れば、マルコによる福音書においては、「子どもたちを受け入れよ。そして、子どもたちを受け入れるように神の国を受け入れよ」と訳すのが適切だと考えることはできるでしょう。
 つまり、イエスにとって、子どもたちは、神の国そのものに相当するくらい素晴らしく尊い存在だということです。
 そして、イエスは子どもたちを抱きしめ、祝福されました。

イエスは憤っておられる

 イエスが、いまの私たちのこの日本をご覧になったら、どう思われるでしょうか? ……どう思っておられるのでしょうか?
 子どもたちを企業戦士や国防軍の兵士として、その命を差し出させ、消耗品として使い捨てにさせようとしている、この国の大人たちを見て、イエス様は激しく憤っておられるのではないでしょうか。
 ただ、イエス様のもとに行こうとしている子どもたちを遮っただけで、イエスは憤り叱られるのです。子どもの命を貪って大人が利益や名誉や栄光を味わおうなどという国を見たら、イエスはどれほど怒りを露わにされるでしょうか。未来を食いつぶして現在をやり過ごそうとする大人たちを見たら、どんなにその愚かさを嘆かれるでしょうか。
 これは教会の内か、外か、どちらかの問題ではありません。キリスト教学校内部の問題であるとも私は思っていません。また、日本の未来と日本の教会の未来が無関係であるとも思いません。そして、私たち日本にいるキリスト者は、神さまから遣わされてこの日本に置かれているのではないでしょうか。
 イエス様がいかに一人一人の子どもを大切にして、愛しておられるかを伝えるために、いやそれだけではなく、イエス様と共に私たちの未来そのものである子どもたちを、私たち自身が愛するために、私たちは遣わされているのではないでしょうか。
 子どもたちを愛しましょう。また、子どもたちだけではなく、世の中で弱い立場に置かれている一人一人を愛しましょう。イエス様に倣い、一人一人を大人の悪魔的なエゴイズムから守りましょう。大人のエゴイズムに小さな者、弱い者が食われようとしていたら、イエス様と共に憤りましょう。
 そして、一人一人をイエス様のもとに招きましょう。
 子どもを受け入れる者は、神の国を受け入れる者です。子どもを受け入れない者が、神の国を受け入れるということはあり得ません。
 子どもたちを受け入れ、神の国を受け入れましょう。
 お祈りを捧げましょう。

祈り

 私たちを創り、命の息吹を吹き込み、この世に生まれさせてくださった神さま。
 あなたに託されたこの世を、私たちが汚し、傷つけ、互いに争い、奪い合い、殺し合う世界にしてしまっていることを、あなたはいかにお嘆きになっていることでしょうか。
 あなたの御子イエス・キリストが十字架によって贖ってくださった罪を、私たちは相も変わらず繰り返しておりますことを、深く悔います。
 神さま、どうか、私たちに未来を守り、希望を作り出す勇気と知恵を与えてください。とりわけ、子どもたちを守り、貧しい人と分け合い、敵を赦し、和解する強い愛をお与え下さい。
 あるいは、既にあなたがお与えになっておられるのであれば、それを自らの中に見いだし、活かすことのできるようお導きください。
 これより、私たちは大阪教区教会を行なおうとしております。この総会が、あなたを信じる者が愛を持って互いに高め合い、未来に向かって共に歩む為の善き絆を強める場でありますように。
 また、あなたに捧げる私たちの善き証の場でありますように。
 私たちの主、イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。
 アーメン。





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール