疑うのは信じたいから

2014年5月11日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

28分間
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る



聖書:ヨハネによる福音書20章24−29節 (新共同訳)

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」





ライブ録画:説き明かし(28分間)+分かち合い(36分間)=計64分間


双子のトマス

 今日は、さきほどの聖書の箇所に出て来た、「ディディモと呼ばれるトマス」(24節)という人物に焦点を当てて、信仰における疑いの問題について、思いを巡らせてみたいと思います。
 この「ディディモと呼ばれるトマス」というのは、別名「疑い深いトマス」、英語圏でも「Doubting Thomas」と言って、やはり「疑うトマス」と呼ばれています。それで、トマスのように疑うのではなく、もっと素直に信じましょう、という風に教えられるのが常ですよね。だから、このトマスというのは、不信仰の代表というか、あまり褒められない存在という扱いなので、ちょっと可哀想です。
 そこで、ちょっとこのトマスさんという方のことを掘り下げてみたいなと思ったわけです。
 このトマスさん、「ディディモ」と呼ばれていたとありますが、この「ディディモ」というのは、「双子」という意味です。例えばシモンが「ペトロ」つまり「岩」というニックネームで呼ばれていたのと同じように、トマスは「ディディモ」つまり「双子」というニックネームで呼ばれていたということです。
 これ、ちょっと変わっていますよね。1人なのに、なんで「双子」というあだ名がつくんでしょうか? そして、もしトマスが双子の片割れなのであれば、もう1人の兄弟ないし姉妹はどこにいるのでしょうか?
 例えば、12人の弟子たち……といっても、イエスの直弟子が本当に12人と考えるのは困難だということは何度もぼくは言っていますけれども、それでも、イエスが亡くなったあと発足した初代の教会の代表者はおそらく12人であったでしょう。そして、その12人の中にあげられている名前のリストを見てみると、意外に兄弟で入っている者が多いんですね。
 まず、ペトロと呼ばれるシモンとアンデレの漁師の兄弟がいますね。それから同じく漁師出身のゼベダイの子ヤコブとヨハネがいますね。それから、ちょっとこれは福音書によって名前のリストが食い違うんですけれども、マタイによる福音書によれば、アルファイの子ヤコブとタダイというのが兄弟として記されています。このマタイのリストによれば、12人のうち6人、つまり半分が兄弟で入っていることになります。また、他の福音書では、このアルファイの子ヤコブとタダイが兄弟であるように書かれていなかったり、タダイの名前が無かったりしますけれども、まあこの2人が兄弟でなかったとしても、シモンとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネという、おそらくイエスの生前からイエスの側近だった「ビッグ4」はいずれも兄弟でイエスについてきています。
 そういうメンバーのなかで、「双子」と呼ばれながら、ひとりぼっちのトマスは、なぜひとりぼっちなのでしょうか。

不吉な男

 そもそも、古代においては双子というのは、不吉なことが起こる前兆だとして気味悪がられていました。
 今でこそ、双子ちゃんが生まれると、「まあ〜、可愛い〜!」と言ってもらえます。ぼくも双子を見ると、可愛いなあ、そっくりで面白いなあと思って見とれてしまいます。
 というか、自分の子どもの中にも双子がいますが、まあ親の自分が言うのも何ですが、非常に可愛いです。子どもたちが小さい頃は子どもを全員連れて動いていましたので、よく会う人、会う人可愛がってくれました。
 しかし、古代においては双子というのは気持ち悪い存在だと見なされていたんですね。同じ顔の赤ん坊が2つ出てくるというのは、非常に気持ち悪いと。日本でも、昔は「犬腹」という差別用語もあって、あれ、さだまさしの歌じゃないですけど、犬にとってはいい迷惑ですよね? 元気な赤ちゃんが生まれるようにと願って、犬はいっぺんにたくさん子どもを産むからといって縁起をかついで、「犬印」の腹帯なんか買って来て妊婦さんのお腹に巻いたりするくせに、いざ双子とか三つ子が産まれて来たら、「犬腹」だ、人間じゃなくて獣の母親だ、みたいに見下す風潮が昔の日本でもあったそうです。
 同じように、古代のユダヤでも、双子は何か悪い事、天変地異が起こる前兆だという風に恐れられて、間引き、つまり、どちらか体が弱そうな方を死なせて埋めてしまったり、どこか遠い親戚に里子に出してしまったりという風に、双子であることを隠して育てるというのが普通だったそうです。
 そう考えると、この双子のトマスという人が、なぜ1人でいるのか、ということも納得が行きますよね。彼は、双子で産まれたのですが、もう1人の兄弟ないし姉妹は、間引きをされたか、遠く知らない所にやられてしまって行方知れずかだということになります。しかも、ニックネームで「双子」と呼ばれているということは、彼が双子の片割れであることが周囲の人に知られているということですよね。普通の人なら隠しておきたいと思うような個人情報が漏れてしまっている。あるいは、自分でカミングアウトしている。
 というわけで、このトマスさんは、双子ということで気味悪い存在であることに加えて、自分が生きている背後には、もう一人の片割れが明らかに死んでいるか行方知れずであるという、これまた暗い背景を背負っている人間で、しかもそれを隠さずに生きていると言うことです。
 言い換えると、彼も生まれによって蔑まれる被差別者だったというわけなんですね。

曲者の集まり

 思えば、イエスの弟子たちとして名を挙げられている人たちというのは、どこか訳ありであったり、人から蔑まれている人間であったりすることが多いですよね?
 たとえば、先程触れました「ビッグ4」の2組の兄弟はいずれも漁師という被差別階級の出身ですし、マタイやレビという徴税人がいましたが、徴税人というのはユダヤ人社会では蛇やトカゲのように嫌われた存在で、その仕事の有様もじっさいヤクザの恐喝のようだったと言います。そして、熱心党のシモン。熱心党というのはいわゆる今で言うテロリストの集団です。
 こういう人たちが自分たちの出自や過去を隠さずに、それをニックネームにして呼び合っているというのは、どうでしょうか?
 「おい、徴税人」とか、「おい、熱心党のシモン」とか、「おい、双子のトマス」とか、「おい、岩のシモン」とか呼び合っているわけです。ちょっと凄みのある集団ですよね。一癖も二癖もある連中の集まりです。
 その中では、誰もが品行方正であったわけではないだろうと思います。一応、イエスと共に寝食を共にして旅をし、方々で神の国の運動としての癒しと食事を実践してきた。しかも、敵もたくさんいる中で、時には身の危険も感じながらイエスと共に歩んで来たわけですから、強い仲間意識はあったんだろうと思います。けれども、みんなが上品で優しくて思いやりに満ちた仲間であったかというと、もうちょっと荒削りな人間関係だったんじゃないかなと。
 そこで、例えば今日の聖書の箇所のように、トマス1人だけがいない時に、他の弟子たちが、「私たちは蘇った主を見たぞ!」と彼に言ったりした時、彼は非常に疎外感を感じたのではないかと思うんですね。「何だよ、おまえらはよ……」という感じ。「面白くねえな」と。

疑うトマス

 そこでトマスは他のメンバーに言うわけです。
 「俺は、先生の手の釘の跡を見て、この指を釘跡に入れてみねえと。それに、この手を先生のわき腹の槍で刺された跡に入れてみねえと、絶対に信じねえからな!」(25節)
 考えてみれば、結構どぎつい言葉ですよね。手を釘で打たれた跡に指を入れたいとか、槍で刺された跡に手を入れたいとか、普通に再会するだけじゃダメだと。こういう物の言い方にトマスの激しい怒りか欲求不満の感情が表れていると思います。
 すると、そこにまたイエスが現れて、「あなたがたに平和があるように」(26節)と言いました。これは、要するに「シャローム」と挨拶したわけで、「こんにちは」、あるいは「こんばんは」と言ったわけです。
 ……なんで、もう一回イエスは来たんでしょうね?
 最初からトマスも一緒にいるときに、全員揃っている時に現れてくれたら、トマスも疎外感を感じることもなく、疑うこともなかったのに。こういうことがもとで、弟子たちの人間関係に溝ができるかもしれないじゃないですか。
 でも、教会の中でも、ある人が「わかった、わかった」と言っているのに、その一方で、「私にはわからん」、「証拠も無しに信じられん」と言っている人がいるというのは、割と普通にあることだと思うんですよね。
 それで、とにかくイエスはもう一度やってきて、「ほれ、おまえさんの指をここに当てて、私の手を見なさい。それから、その手を私のわき腹に入れて見なさい。信じない者じゃなくて、信じる者になりなさいよ」(27節)とトマスに言うんですね。証拠を見せてくれるわけです。
 それでトマスは、「わたしの主よ、わたしの神よ」(29節)と信仰を告白しました。すると、イエスは、「わたしを見たから信じたのか? 見ないで信じる人は幸せだよな」(29節)と応えたというお話ですね。

見てから信じてもいいじゃないか

 ぼくは、このお話は、決してトマスのような現実主義者を責める物語ではないと思うんです。
 というのは、イエスは「証拠を見ないと信じない」と言っている人を、頭ごなしに「なんと不信仰な者よ」と叱っているわけではないからです。
 むしろ、イエスは、「証拠が見たかったら、ほら見せてあげるよ」と、再び弟子たちの集団の「真ん中」(26節)に現れて、示してくれています。
 だから、「証拠がないと信じない」と言うこと自体が責められることではないんですね。
 ただ、実際には、イエスという人が亡くなってしまって、実際に死体が起き上がってお墓から出て来たかというと、そういうわけではないのであって、これは前にもイースターにもお話しましたけれども、イエスの復活というのは、教会という仲間がイエスの体となって息を吹き返すということに意味があります。
 死んだ人間が実際に歩き回ったりするゾンビのような現象のことではないので、「復活したイエスに会わせろ。傷跡を見せろ」と言っても、そんなゾンビはどこにもおりません。だから、私たちはイエスの肉体の姿を見て信じるということは実際にはあり得ません。「見ないで信じる」ということしかあり得ません。だから、「見ないで信じるのは幸せだよね」(29節)ということになるんですよね。
 証拠が欲しい。見ないと信じないよ。そういう風に言うリアリストを決して責めはしません。でも、そういうゾンビのような肉体の蘇りを見るのではなくて、教会の真ん中にちゃんとイエスがいて、「みんなに平和があるように」(26節)というイエスの思いを中心にみんなが生きていること自体が、イエスが私たちと共にいることの証拠なんだということを、信じて欲しいな、という希望を語っているんですよね。

疑うのは信じたいから

 それに、トマスが最初、取り残されていた時に、ああいう過激な物の言い方で、「俺は信じないぞ」と言ったのは、実は他の弟子たちに嫉妬しているんですよね? 本心を言えば、「俺だって、その場にいたかったよ。イエスに会いたかったのに!」ということでしょう。本当はイエスに会いたい、イエスを信じたいんです。
 でも、他の人にはイエスが共にいる実感があるのに、自分には無い。そこで、「信じれる証拠を見るまでは信じないぞ」と言ってしまうわけです。
 ぼくは、こういうトマスを見ていると他人事ではないというか、自分自身を重ね合わせて見てしまいます。
 ぼく自身も、高校生や大学生の頃から、周りのクリスチャンの友人たちが、「ああ、主よ」とか、「私はイエス様を見ました」とか、「わかる人にはわかるんだよ」とか、「理解するんじゃない、信じるんだ」とか、ちょっと遠い目をして恍惚とした表情で言う姿を見ながら、どうも納得がいかんなと思い続けてきたわけです。
 でも、わかりたい。だから、それならいっその事、疑って、疑って、疑い倒して、現実主義的に見て疑わしいものや根拠がはっきりしないものは全部削ぎ落としていって、最後に残るものがあればそれを信じたらいいじゃないか。そして、何も残らなかったら、それはそれで仕方がないじゃないかと思って、疑う作業を続けようと思い、その結果として神学部に学び、今もそうそう簡単には文字通りに聖書に書いてあることを信じないスタンスで聖書解釈をしていますが、その根底には、「信じたい」と思う気持ちが原動力になっていることは間違いないと思います。
 結果的に、死体がむっくり起き上がって歩いたり話したりする姿を「見ないで信じる」ことが可能なんだということを知ることができたので、ゾンビのような話を信じないで、疑い続けてきてよかったと思います。





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール