スピリットを受け容れ、大いに話そう

2014年6月8日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 ペンテコステ礼拝説き明かし

28分間
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聖書:使徒言行録2章1−15節 (新共同訳)

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。  さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。  人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」  人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」。





ライブ録画:説き明かし(28分間)+分かち合い(37分間)=計65分間


ペンテコステとは

 みなさん、ペンテコステ、おめでとうございます。
 キリスト教の三大祭と言えば、クリスマス、イースター、ペンテコステですが、ペンテコステについては案外クリスチャンもよく知らない人がいますね。割と地味な祝日です。
 よく言われるのは「ペンテコステは教会の誕生日」という言葉ですね。クリスマスはイエス様の誕生日、イースターはイエス様の復活の日、そしてペンテコステは教会の始まりのお祝いというわけです。
 で、その根拠になっているのが、今日お読みした聖書の箇所になるわけです。復活したイエスが天に昇り、残された弟子たちが集まって祈っていると、激しい風のような音が聞こえ、炎のような舌が弟子たち一人ひとりの上に現れ、弟子たちはそれぞれ異なる地方の言葉をしゃべり出した。そこから世界中に宣教してゆく教会の活動が始まったという物語です。
 聖なる霊が降りてきて、その霊が語らせるままに話し出した……ということから、日本語では「聖霊降臨日」と言われたりします。
 「ペンテコステ」というのはギリシア語で、「50番目/第50」という意味なんですよね。で、何が50番目かというと、過越祭から数えて50日目、つまり7週間後という意味です。
 過越祭(ユダヤ人の言葉〔ヘブライ語〕で「ペサハ」)というお祭りがあって、これは出エジプト記に書いてある、ユダヤ人のエジプトからの脱出をお祝いする祝日があるんですけれども、それから数えて50日目に、今度は「シャヴオート」という出エジプトから50日目にモーセがシナイ山で十戒を神から与えられたことをお祝いするお祭りがあります。
 で、この「シャヴオート」を、ギリシア語では「50日目の祭」という意味で、「ペンテコステ」と呼びました。そして、これを更に日本語に訳すときに、「50日目の祭」という意味で「五旬祭」(上旬、中旬、下旬という風に「旬」というのは10日間のことを表しますから)という日本語が当てはめられたわけです。
 過越祭というのは、イエスが受難した日で、その2日後には復活したと伝説では語られています。つまり、キリスト教では過越と受難と復活はワンセットです。その過越から50日後の五旬祭の日に、今度は聖霊降臨の出来事があったということで、これもお祝いにしよう。
 それで復活祭/イースター日曜の7週間後の日曜日を、「50日目の祭」つまり「ペンテコステ」と名付けたというわけです。

訳せばわかるか?

 さて、「教会の宣教は、教えることだけではない、食べることや癒すこと、そして宿を貸すことである」と私の前回の説き明かしでは申し上げましたが、このルカが伝えるペンテコステの物語では主に話すこと、語って証することに強調点が置かれています。
ルカによれば、教会の出発点は、イエスのことを話すこと、イエスのことを語って知らせること、それも相手にわかる言葉で話して聞かせることから始まっているのだということですね。
 礼拝の中でイエスの言葉や行いについて語り、そのイエスの思いに基づいて、癒しや食事などの活動がなされていったのであって、単に活動の方便としてイエスが持ち出されたわけではないということです。
さて、彼らは「天下のあらゆる国々」の言葉で話し始めたとされています。これは、どこの国の人にもわかる言葉で話した、相手にわかる言葉で伝えるということがキリスト教では大事にされているということですね。
 しかしこれは、想定以上に色々と問題を孕んでいます。
 というのも、ある言葉で話していることを別に言葉に翻訳すると、こちらが本来伝えたいと思っていることが、相手の言語には当てはまる言葉がなかったり、意味する範囲が違っていたりするからです。
例えば、「愛」という言葉ひとつとっても、例えば新約聖書の書かれた言語であるギリシア語には、少なくとも4種類の「愛」という言葉があります。「アガペー」「エロス」あたりはよく教会では耳にすると思いますが、「フィリア」とか「ストルゲー」あたりになると、あまり聞いたことがない人の方が多いと思います。そうすると、書かれたままのギリシア語で聖書を読んでいた人たちは、4種類の愛を別のものと認識しているのですけれども、日本人はそれを全部同じにして1つの単語にしてしまうから、いまいち違いがよくわかってないということになるわけです。翻訳というのは必ずそういう問題が生じます。
 ということは、翻訳して相手の言葉に直す方が、かえって元の意味が伝わりにくくなるということもあるということです。
 イスラームの人たちはそのあたりは合理的に割り切っていますね。イスラームの正典はクルアーンですけれども、クルアーンはアラビア語のクルアーンだけが本物のクルアーンで、翻訳されたものはその解釈書に過ぎない、とはっきり言い切っています。
 ぼくはイスラームのこういう点は見習った方がよいのではないかと思いますね。私たちはギリシア語を日常的には使いませんから、やはり日本語で聖書を読みたいと思います。でも、翻訳はあくまでひとつの解釈に過ぎないんだということはわきまえておいたほうがいいと思うんです。そして、何種類かの翻訳があるということは、何種類かの解釈があるということなので、もし余裕があれば何種類かを比べて読むのも、聖書を理解するのにとても役立ちます。

ローカルとグローバル

 それから、もうひとつ大事なことがあります。
 それは、各地の言語で話すというのは、今風の言葉で言うと「ローカライゼーション」であるということです。つまり、現地の人々のそれぞれの文化を壊さないようにしながら、浸透するということである。それを本当にやろうとしたら現地の文化に合うように、解釈し直してもかまわないし、ちょっと手を加えることはやむを得ないということにもなります。
 これ、実は新約聖書の中の大きな矛盾なんですが、新約聖書というのは全てギリシア語で統一されています。これはさっき言った「ローカライゼーション」とは違いますね。その反対です。「グローバリゼーション」です。当時、世界共通語だったのはギリシア語ですから、ギリシア語で書けば世界の人が読むだろうという発想です。
 今だったら、グローバル化してゆく社会の中で英語なんか読めて当たり前なんだし、世界の人と話すならやっぱり英語ができなきゃ、皆さん中学の時から英語は勉強しているはずですから、当然読めるでしょう、と言われて日本人にも英語の聖書が手渡される……新約聖書がギリシア語で書かれているというのは、そういうことなんですね。
 ところが、今日のペンテコステのお話は、このグローバル化とは全く逆です。いわゆる世界共通語と呼ばれているものを使わず、世界のどこの地方の人にも、そこの言葉に直してお話ししましょう、というわけです。とてもローカルな、とても面倒な、しかしそこに前から住んでいる人たちの文化を大事にしながら、それに合わせて解釈したらいいじゃないか、という発想です。当然、地域や民族によって色々と多様なキリスト教が生まれてきます。しかし、それでいいじゃないかということなんですね。
 さて、グローバルな世界標準のギリシア語で読んで、聞いて、考えなさいよというのと、今日のペンテコステのお話のように、ローカルな言葉や暮らしを尊重しようよというのと、どちらのほうがイエスに近かったでしょうか? あるいは初代教会の意図に近かったでしょうか?
 まあ、自然な考え方で推測すると、ルカがこの使徒言行録をギリシア語で書くよりずっと前からこのペンテコステの言い伝え(伝承)が先にあって、後から聖書にまとめられているのですから、普通に考えたら、その地の出身の、その人たちの馴染んだ言葉で語ろうという方が、元々の物語でしょうね。
 ところが、それをちゃんと本としてまとめた時には、新約聖書は全部それをギリシア語で統一するという、本来の初代教会の意図とは正反対のことをやっちゃったということも言えるわけですから、皮肉ですよね……。

言霊の世界

 さて、言葉を発するというのは、とても霊的な行いであるとされていました。
 これまでも何度か申し上げてきましたように、古代人の感覚からすれば、霊は風であり、息です。動物はみな鼻や口を通る風を呼吸しており、私たちの体は霊が出入りしていると考えられました。呼吸を通して、清い聖なる霊も、汚れた悪い霊も入って来たり、出て行ったりするとされていたんですね。
 そして、私たちが言葉を発するとき、それは息に乗せて発します。
 言葉をしゃべるためには、息を吸わなくてはいけません。息を吸って、吐く息で言葉を発する。吐く息が無くなると言葉が止まる。するともう一度息を吸って、また言葉を続ける。つまり、言葉は息無しでは発することができません。言葉は息、すなわち霊に乗って発せられるのであり、言葉が相手の心に届くというのは、霊が相手に届くということです。だから、私たちは言葉に心を打たれ、心を動かされたりするのですね。これは日本で言う「言霊」の世界とよく似ているんでないかなと感じます。
 ぼくがTwitterで見つけた言葉で、こんなものがありました。
「どんなに人の悪意を吸い込んだとしても、吐く息は感謝で満ちていたい」
 誰がこの言葉を最初に語ったのかはわかりません。けれども良い言葉だなと思います。「どんなに悪意を吸い込んだとしても、吐く息は感謝で満ちていたい」。
 どんなに人の悪意に触れて傷ついたとしても、自分の口から出る息、その息に乗せて話す言葉は感謝と善意を包んだものでありたいと思うのですがいかがでしょうか。
 私たちは、自分の魂だけではなく、神さまからの聖なる霊の息吹きに満たされることによって語るものでありたい。今日の聖書の箇所にもあるように、最初の教会の人たちのように、神からの霊にうながされて、語るものでありたいと思いますし、そのために、神の霊にいつでも入ってもらえるように自分の心の扉を明け渡すことができたらなと思いますね。

スピリットを受け入れ、大いに話そう

 さて、最後に、今日の愛餐会はバーベキューということになっております。
 今日の聖書の箇所の最後に面白い記事がありますね。
 シモンが群衆に向かって言います。
 「朝の9時だから酒に酔っているわけではありません」。
 だいたい、「俺は酔ってない」という人の言うことがどこまで信用できるかですね。ここで「酒に酔っているわけではありません」なんて言っているシモンが一番酔っぱらっている可能性が高いです。
 という冗談はさておき、ここでわかるのは、一つは、少なくとも朝の9時でなかったら酒を飲んでも問題ないとシモンは思っているということです。当たり前ですね。聖餐でさえ本来はお酒ですから。お酒のタブーなどあり得ません。
 もう一つは、聖霊に満たされて大いに語るクリスチャンは、まるで酒に酔ったように見えた。あるいは、そういう風に観られるクリスチャンもいた、ということです。
 要は、愛されて生きる喜びに満たされた者は、酒を飲んでいる、飲んでないに関わらず、酒を飲んで大はしゃぎしているようになってもよいということです。
 というわけで、今日はおめでたいペンテコステの祝いの日であるし、朝の9時には既に役員会も済ましてあるし、すっかり安心して昼間から酒に酔い、多いに語りたいと思います。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 本日の説き明かしは以上といたします。





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