ありのままの

2014年6月22日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝宣教

29分間
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聖書:ローマの信徒への手紙10章5−13節 (新共同訳)

 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。
 「御言葉はあなたの近くにあり、
 あなたの口、あなたの心にある。」
 これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。





ライブ録画:宣教(29分間)


Frozen

 みなさんは、『アナと雪の女王』という映画をご覧になったでしょうか? ものすごいヒットですよね。街中のあちこちで「♫レリゴー、レリゴー♫」とか「♫ありの〜ままの〜♫」と聞こえてくるような有様でして、私もすっかりあのメロディが耳についてしまいました。
 私の周りでも、けっこう「何度でも観に行きたい」という人が多かったですし、私自身も時間が許せばもう一度観に行きたいと思ったほどでした。もし、まだご覧になっていなかったら、DVDが7月に発売されるので、ご覧になることをおすすめしますし、買うのはちょっと、と思われる方も、もう少し先になりますけれども、レンタルでご覧になるのも良いと思います。
 なぜ何度も観たいという人が出てくるのか、なぜそんなに人気が出たのか。様々な評論家が色々なことを述べています。ダブル・ヒロイン:つまり主人公の女性が2人いたのがよかったのではないか。あるいは、今までのディズニーアニメのパターンを打ち破って、ラブストーリー中心の物語ではなくなったところが新しいとか。
 確かに、物語は「真実の愛とは何か」というテーマを追い求めて進んでゆくわけですが、登場人物たちも最初はそれが恋愛だと思っているわけです。しかし、それが実はそうではなく、実に単純で、しかしなるほどと思わせる結論が用意されています。
 それが何か、誰によってどのように明らかにされるのかは、観てのお楽しみですので、ここでは述べるのはやめておこうと思います。
 いま私は、月に2回ほど、徳島北教会という所に通って奉仕させていただいていますが、そちらのある教会員さんと話していて、「あれは引きこもりの映画やな」ということで意見が一致しました。

引きこもり

 ネタバレしすぎないように、最低限のことしか言えないのが難しいところなんですが、この映画には2人のヒロインが登場します。エルサとアナという姉妹、2人はある王家の娘です。妹のアナは平凡な少女ですが、お姉さんのエルサは魔法の力を持っています。そこで、両親はエルサを部屋に閉じ込めて、外の世界に触れさせないようにしてしまうんですね。
 ところが、その両親が旅先の事故で死んでしまって、急遽、エルサが女王として戴冠式に臨むことになります。それまで、引きこもらされていたエルサは、突然人前に出て、自分の魔法の力をコントロールできずに、騒ぎを起こしてしまい、結局人前から逃げ出して、町を出て、山に入り、そこで自分の魔法の力で氷の城を造り、その中に、今度は自分で引きこもってしまう……という筋書きです。
 それ以上、詳しいことは言ってしまうと観ていない人の楽しみを奪うことになりますので、言えません。
 この最初の部分の筋書きをもっと簡単にまとめてしまいますと、要するに、ある非常にユニークな個性を持つ子どもが、自分のありのままの姿を両親に認めてもらえず、むしろ完全に否定され、自分の個性をいかに外の世界に適応させるかという練習をする機会も与えられないまま大人になり、いざ社会に出てみるとすぐに不適応を起こして逃げ出し、自分の世界に引きこもってしまう……という話なのですね。そして、この引きこもり状態の姉を、どうやって妹が救い出そうかと四苦八苦するという物語です。
 そのように分析してみると、非常に今日的なテーマであることがお分かりいただけるのではないかと思います。
 なんでも「人並み」であることが要求され、「普通」ではないとか、「変わっている」と言われることを恐れ、空気を読んで自分を抑制しなければならず、ありのままの自分を解放することがなかなかできないのが世の中というところではないでしょうか。
 特に最近の日本は、良い意味でのいい加減さや、曖昧さや、ちょいワルさがだんだんと許されなくなり、少しでも役に立たないものは切り捨てられ、少しでも人と変わっているところがあると、異常だとか、発達障がいだとか、人格障がいだとか言われて、遠巻きにされる傾向が強まってきたような気がいたします。
 「あんた変わってるなあ、面白いなあ」と言って、大抵の変わり者は受け容れるような、そのような雰囲気はどんどん日本の中から失われています。
 しかし、変わり者というのは、必ず一定数は人間界の中にいるものなので、社会環境がそういう人をありのままに受け容なくなったら、当然生きづらくなり、外に出づらくなり、引きこもらざるを得なくなるのは当たり前です。

裸の大将と寅さんとバカボンのパパ

 ひと昔前には、『裸の大将 山下清放浪記』みたいな映画がありましたね。ランニングシャツ1枚で日本全国あちこちフラフラ絵を描きながら旅をしている、ちょっと変わったおじさんがいる。そんなおじさんと触れ合った人が、だんだんと癒されてゆく。
 今だったら、こんなおじさんがシャツ1枚で学校の周りとかウロウロしてたら、即座に「不審者」と呼ばれて警察がやってきますし、すぐに施設か作業所に送られるでしょう。
 あるいは、『寅さん』シリーズもありましたね。渥美清さんが演じるフーテンの寅さんも、定職に着くでもなく、日本全国あちこちフラフラ旅をして、恋をして、時々フラッと家に帰ってくる。そんな人が何だか憎めない味わいをかもし出していて、触れ合う人は和まされます。
 この寅さんも、今だったらただの失業者、落ちこぼれです。
 私くらいの世代だと子ども時代はテレビアニメで『天才バカボン』という作品に夢中になっておりました。そこで人気があったのは、バカボン本人ではなくて、やはりバカボンのパパですよね。一応植木屋ということになってますけど、限りなく自由業に近いです。真面目にあくせく働いている姿を見た事がない。典型的なサボリのおっさんです。鼻毛も切らない。こんなオヤジが家にいることを近所に知られるだけで恥ずかしい。
 しかもその近所にいるのは、「おーでかーけでーすかー?」としか言えないレレレのおじさん。この人は今なら完全に精神障がい者です。
 また、何かというとすぐに「貴様ぁ! 本官を侮辱しとるのかぁ!」とキレて拳銃を撃ちまくるおまわりさん。こんな人は今ならすぐに休職させられて心療内科に入院です。
 しかしあの頃は、何があっても、最終的にはバカボンのパパが「これで、いいのだ」と言って円く収まってしまう、という大らかな時代でした。
 もちろん、実際にはそんな風に大らかに自由に生きられないからこそ、そのような作品を観て、一般大衆はホッとしたり、息抜きをしたりしていたんでしょうけれども、しかし、「あんな人がいたら面白いな」と思えるような気分があったんですね。

「ありのままの」

 今なら、このような人たちは、「不審者」と呼ばれ、「精神障がい者」、「人格障がい者」と呼ばれ、「社会不適応者」と呼ばれ、居場所が無いのが当たり前なので、もはやこういう人を主人公にした作品はなかなか生まれてきません。こういう人が世間に普通にいるというのは、もはやリアルではない、あり得ない状況だからです。
 しかし、今回『アナと雪の女王』のような映画が登場し、「おまえは普通じゃないから、引っ込んでいなさい」と言われて居場所を奪われた人間が、ありのままの自分を守るために引きこもる、またその人を愛するもう一人が、どうにかしてその人を取り戻したいと奮闘する、その姿を描く物語に多くの人が感動したのだろうと思います。
 このような映画を、たくさんの若い人たちが感動して何度も観たくなるというのは、それだけ「ありのままの」自分を押し殺して、世の中に適応するだけで必死で、消耗しきっている若者たちが多くなっているのかもしれません。
 この映画は、「ありのままの」自分を否定されることなく、しかし、うまく世の中の人とやっていけるように調整できるようになる希望が描かれていますので、この映画を観て心が解放された人は多かったでしょう。

心と口さえあれば

 ところで、クリスチャンもともすれば堅苦しい生き方を理想化し、自らを追い込んでしまいがちです。あるいは、自分のことは棚に上げて、他人に窮屈な要求を押しつけがちではないでしょうか。しかもそれはクリスチャン同士でよく起こることなのではないかと思います。
 「クリスチャンとして、この世に対して良い証しを立てないといけない」と言う人がいます。それは、世の中の人に褒めてもらいたい、尊敬してもらいたい、立派だと思われたい、そしてその事によってキリスト教は良いものだと思ってもらいたい、それが伝道だと思ってのことなのでしょうが、そんなことをしても、結局はただ単に世の中に風潮に流され、世の中に過剰に適応し、世の価値観で評価されるものを一緒になって褒めそやし、世で価値の無いものと見なされているものを一緒になって貶める、何の証しにもならないというようなことになってしまうのが落ちです。
 本日お読みしました聖書の箇所、ローマの信徒への手紙においてパウロが述べていますように、「誰が天に上るか」、「誰が底なしの淵に下るか」などという問いを発すること自体が間違っているのですね。そうではない。パウロは言います。もう一度今日の聖書のみ言葉を読んでみましょう。
 「では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(ローマ10.8-13)
 「御言葉はあなたの近くにある」と書いてあります。既にあなたの近くにある。だから、無理をして遠くまで旅をして苦労して見つけ出さなくても、そこにあるんだよ。あとはあなたがそれを選ぶだけなんだよ、と言われています。
 「御言葉はあなたの口、あなたの心にある」、「心で信じて、口で言い表せば、誰でも救われる」と書いてあります。大事なのは心と口です。信じることとそれを言葉に言い表すことさえできたら、それであなたは救われるということです。
 「救い」とは何でしょうか? それは、「私はこれでいい」と思えることです。「私は私のありのままで生きていていいんだ」と確信することです。「生まれてきて/神さまにこの世に送り出していただいて、本当に良かった!」と心底から喜ぶことです。

「これで、いいのだ」

 「誰が天に上るか」、「誰が地獄に落ちるか」、誰が義であり正しいのか、誰が不義であり、神に認められないのか。そんな問いは全くの愚問です。そういう区別は無いのですね。誰もがありのままの自分で神さまに認められています。神さまは裁きません。裁くのはむしろ人間です。
 ただ、誰もがありのままで認められ、愛されることを本人が信じなければ、救いは実感されません。既に認められ、愛されているのに、本人がそれを信じなければどうしようもない。
 これを信じない人が、人を裁きます。誰もが愛されていると信じていないから、自分をありのままではダメだと思ってしまうし、他人に対してもあら探しをし、落ち度を見つけては「おまえはダメだ」と否定するようなことしかできません。それでは、差別も暴力も分裂も無くなりませんし、何より自分自身もいつまでたっても幸せにはなれません。こういう人はたとえクリスチャンであっても、神さまの愛を心底からは信じていないのです。
 そうではなく、世の中の人がダメだと言っても、ダメだと言いそうな人間でも、また、偉い牧師さんや信徒さんがダメだと言っても、神さまは「ダメじゃない、それでいい。あなたは大切な人間だ。ありのままのあなたを大切に思っているよ」と言ってくれているんだと、勇気を出して信じてみてはいかがでしょうか?
 バカボンのパパの言葉は、神さまのご意志と同じです。
 「これで、いいのだ」
 「これで、いいのだ」という言葉を、まずクリスチャンから世の人びとに発信しましょう。
 そして、「あなたは『ありのままに』愛されている存在なんだ」と知らせ、「皆で『ありのままの』人を愛することを学ぼう」、そう呼びかける者でありたいと思うのであります。

 お祈りをいたしましょう。





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