正統派なんかいなくてもいい

2014年7月6日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

16分間
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聖書:マルコによる福音書9章38−41節 (新共同訳)

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。





ライブ録画:説き明かし(16分間)+聖餐式(8分間)+派遣と祝祷(2分間)=約26分間


「わたしたち」に従え

 今日は、イエスがいかに正統派か異端か、正しいグループか間違ったグループかという区別に意味を感じていなかったか、そんなことは全く大事なことだとは思っていなかったかということをお話しようと思います。
 使徒の一人ヨハネが、イエスに訊ねました。
 
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(マルコ9.38)
 福音書というのは、イエスの物語を語ってはいますが、実際にはイエスの死後何十年も経ってから書かれたもので、むしろその時代のキリスト教会に対してもの申すという姿勢で書かれた文書です。
 ですから、この物語も何らかの当時の教会の現状を反映して書かれたものであると捉えるほうが自然です。
 「私たちに従わないので、悪霊を追い出す活動をやめさせる」というのは、自分たちの教会に従わないということです。
 これは、この記事を書き写しつつ訂正を加えて自分の福音書に組み込んだルカの記事と比べてみると、どういうことかよくわかるのですが、ルカでは
「一緒にあなたに従わないので」(ルカ9.49)という言葉に訂正されています。
 つまりルカは、「私たちに従わない」という言葉を、「一緒にイエスに従わない」という風に書き換えているわけです。こうすることによって、逆に元々最初にマルコが指摘しようとした教会の問題点が明らかになってきます。
 ルカの福音書の中では、「イエスに従う」かどうかということが問題になっているかのように書かれているのですが、元々マルコは、当時の教会が「俺たちに従わない奴はダメだ」と言っているということを指摘しているのですね。もちろん批判的に指摘しているわけです。
 イエスはこう言います。
 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」(マルコ9.39)
 悪霊を追い出すのをやめさせてはならない……ということは、教会のメンバーに同行するよりも、人を癒すことの方が大事だということです。

悪口を言わなければよい

 しかも、イエスが気にしているのは「わたしの悪口を言う」かどうかという点らしい。「悪口を言わなかったらいいよ」くらいな感じ。
 霊を追い出すというのは、信頼関係が大事ですよね。あるいは尊敬がないと無理です。信じる気持ちがないと、治る病気も治りません。「こいつは大したやつじゃない」とか、「こいつは本物か?」という疑問があれば、悪霊など追い出せません。だから、悪評は立てられたくなかったんでしょうね。信じる気持ちが必要です。だからこそイエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言っていたわけなんで、イエスへの信頼を損なわれることは、癒しをダメにしてしまう。
 それに対して、イエスの名によって他の人が悪霊を追い出し、癒しを行っていたとしても、それは人を癒す活動だから、いいじゃないかというわけです。
 そして、もしイエスの名によって悪霊を追い出して、その癒しが失敗しても、「やっぱりイエス様本人でないとダメだな」と言われるだけで、逆にイエスへの信頼や権威が高まります。だから、イエスは止めはしなかったんでしょうね。
 とにかく、イエスは、イエスの直接の弟子で、イエスと直接一緒に活動した経験がなくても、イエスの名前を使って癒しを行うことは問題だとは考えなかったということです。
 しかも「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言っている。ただ単に、勝手にやっている放っておけというだけではなくて、「味方である」とプラスに評価しているのですね。
 こういうところからも、イエスが、自分たちが正統派で、自分たちのグループに入り、自分たちの流儀でやらないと認められない、なんていうことは全く考えてなかった。そればかりか、人を癒す活動をしているのだったら、それは我々と同じ志を持っているのだから、それでいいのだ、と言っているわけです。
 こういうことを、マルコが自分たちの時代の教会の人々に向けてメッセージとして発した。
 以前から言っていることですが、マルコはエルサレムの十二使徒の教会に対して、概して批判的です。ここでもおそらく、十二使徒の教会が正統派意識を振りかざして、自分たちの教会に所属しないでイエスの名によって集まり、活動しているグループは異端だとか、私たちの礼拝や癒しや施しのやり方と別の方法を取る者は、信仰が違うから認められないとか言っていたんでしょう。
 これに対してマルコは、イエスはそんなことは言っていないよ。イエスにとっては、どのグループに属していようと、どんな礼拝や活動のスタイルをしていようと、イエスの名によって行っているのだったら、みんなイエスの仲間なんだよ、と知らせてくれているわけです。

一杯の水を飲ませよ

 さらにこのマルコのイエスは、
 「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(マルコ9.41)
 とまで言っています。
 キリストの弟子だという理由さえあればいいのであって、大事なのは一杯の水を飲ませるということです。キリストの弟子だということが目的なのではない。水を飲ませるということが目的なんですね。
 更にもっと注目すべきは、「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる」とマルコは言っていますね。
 この「あなたがた」というのは、文脈から見て、明らかにイエスの直弟子たちですね。十二使徒たちです。十二使徒のエルサレムの教会に対して、「渇いている時に水をもらっているのは、おまえたちの方だろう」と指摘しているわけです。そして、「キリストの弟子だという理由で、おまえたちに水を飲ませてくれている人たちが、神さまに報いを得る」。「神の報いを得る」というのは、直訳すると、「神さまのお気に入りになる」ということです。「おまえたちが神さまのお気に入りになるんじゃなくて、おまえたちに水を飲ませてくれる、他の人たちのほうが神さまのお気に入りなんだよ」という痛烈な批判なのですね。
 これは恐らく献金のことでしょう。
 十二使徒はエルサレム教会の指導者として、俺たちはイエスの直接の弟子だと言って権威を振りかざしていますが、実際には信徒の献金で食べているわけです。しかも、エルサレムの教会が経済的に苦しくなったときに、他の地域の教会が献金を集めて、エルサレム教会を助けています。パウロだってそうですよね。各地で献金を集めて、エルサレムに届けています。
 渇いている時に一杯の水を差し出しているのは、他の教会なわけです。それなのに、エルサレムの十二使徒たちは、自分たちの方が正統派だと言って、他の教会の活動にいちいちケチをつけ、あれは本家本元のキリスト教ではないなどとほざいている。馬鹿にするな! とマルコは怒っているわけです。
 どっちがイエスの味方であり、どっちが神さまに喜んでもらえているのか、よく考えろ! とマルコは十二使徒教会を批判しているのであります。
 そのためにマルコは、「キリストの弟子」という言葉にわざわざ言い換えているんですね。あまりに十二使徒教会が「俺たちはイエスの直弟子だ、イエスの直弟子だ」と主張するので、イエスの弟子という言葉をあえて拒絶して、「キリストの弟子」という言葉を使ったわけです。

何が神の喜びか

 これは私たちの教団の中でも起こっていることです。
 自分たちこそがキリスト教の正しい流儀を守っているのであって、自分たちに従わない者は、その活動をやめさせなくてはならないと主張している者たちが、大きな顔をしてのさばっています。
 しかし、今日の聖書の箇所を読んでください。マルコは、イエスの直弟子だということでさえ、大きな問題ではないと言っているのです。
 そんなことよりも、イエスの名によって、またキリストの弟子だという理由で、人を癒したり、渇いている人に一杯の水を飲ませることの方がはるかに大事で、その方が神の喜びだとはっきり言い切っているのです。
「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7.21)と言われているじゃありませんか。
 まったく正統派を気取っている牧師や信徒たちには、「もっと聖書を読め」と言ってやりたい。
 本来はキリストの弟子としての味方同士であるはずなのに、自分たちの仲間にならないからと言って、考えや流儀の違う者を切り捨て、排除し、孤立感を味わわせ、屈辱を与え、涙まで流させている。
 キリスト者がキリスト者を泣かせやがって!
 私は憤りを禁じ得ません。神の御心に反しているばかりか、人間として最低です。そんな連中と私たちは教団、教区を共にしています。全く情けない限りです。
 しかし、イエスにおいては、正統派かそうでないかということは、全く問題ではありません。なすべきこと、大切なことは、キリストの弟子だという理由で、実際に神さまの御心を行うことです。
 病んでいる人、疲れている人を癒し、渇いている人に一杯の水を飲ませることです。それが神さまに喜ばれることです。神さまに喜んでもらえるということは、私たちも幸せになれるということです。それが私たちの行いの報いです。
 これからも、イエス様の望まれていること、神さまに喜ばれることを目指して、それに集中して、励んでまいりましょう。





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