人間解放宣言

2014年7月13日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 部落解放祈りの日礼拝説き明かし

26分間
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聖書:コリントの信徒への手紙(一)1章26−31節 (新共同訳)

 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。





ライブ録画:説き明かし(26分間)+分かち合い(47分間)=約73分間

 
拡大する差別

 本日は日本キリスト教団では「部落解放祈りの日」ということになっており、部落差別からの人間の解放、またあらゆる差別、偏見からの解放を祈り、願い、またそのために自分にできることをしようと心を新たにする日ですね。
 ただ、部落差別に限って見ても、長年差別を無くすための取り組みがなされてきたにも関わらず、なかなか差別は廃れていません。それどころか、ひどくなっている面もあります。
 と言いますのも、インターネットの普及、特に掲示板やソーシャルネットワークサービスなどが拡大して、匿名で好きなことを書き込んで誰でも読めるというページやサービスが非常にたくさんできてきました。
そういうところで好き放題、どこの地区は危ないとか、どこの出身の人間とは付き合うな、結婚するな、どんどん書き散らかされているのですね。
 かつては部落地名総監のような本が没収されたりなどしていましたが、今は部落の地名リストなどデータでいくらでもコピーして拡散できますから、とてもぬぐい去ることはできません。
 部落差別だけに限らず、外国人に対する誹謗中傷、障がい者への侮辱など、読んでいて唖然とするような誤解やありとあらゆる悪意の書き込みがネット上にはあふれています。
 それらは匿名で、いとも気軽に誰の目をはばかることもなく楽に書き込めるので、止めようとしても止められませんし、エスカレートするばかりです。
 そして、こういうネット上での裏情報から植え付けられた差別意識が表に現れる、最も多い例が、やはり結婚差別のようですね。いままで何十年も学校などでも同和教育を行ってきたにも関わらず、結婚差別は無くなっていません。

差別者の病

 ネット上で拡散する差別を抑え込むことはもはや不可能のように思われますが、それにしても何故このような差別を人間はしてしまうのか、差別をしたからといって特に何か自分に有利なことがあるというわけでもないのに。
 何にも得することもないのに、人を侮辱したり、逆境に落としたり、迷惑をかけて喜んでいる、気晴らしをしている人がたくさんいる。しかも自分が傷つけている相手は、おそらく自分が直接害を被った加害者というわけではなく、見ず知らずの赤の他人です。赤の他人なら放っておけばいいし、よく知らない人のことを確信を持って攻撃するというのは、本来ならおかしいことなんですが、よく知らないからこそ、自分の中の攻撃性をぶつけやすいという面もあるのでしょうね。誰かを傷つけずにはおれない気持ちをぶつける相手は、よく知ってる相手では難しいです。
 このように誰かを傷つけずにはおれない、そして誰かを傷つける理由を常に探している、これは一種の病んだ状態と言えるかもしれません。
 もしこれを病と読んで差し支えないなら、そのような個々の人間の病が癒されて、自分自身を安心して受け入れ、落ち着いた心持ちで周囲を眺めることができれば、自分以外の人間もあるがままに観察して、根拠なく貶めたり、理不尽に蔑んだり嫌ったりするということも減ってくるのではないかと思うのですが、皆さんはいかがお考えになるでしょうか。
 言い換えると、最近よく使われる言葉で言えば、自尊心や自己肯定感の無い人、あるいは他人を貶めることによってでしか自尊心を確認することができない、あるいは国家や国民といった大きな集団に所属していることでしか自尊心を保てない、本当の意味での自分に対する安心を持ってない人ほど、差別やヘイトスピーチの麻薬的な魅惑に溺れてしまうのではないか。
 だとすれば、一人一人が「私は私。あなたはあなた。あの人はあの人。それぞれに、これでいいのだ」という思いになれるように、癒され、慰められなくてはいけないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

差別する人の解放

 では、どうやってそれを伝えたらいいのか、そこが一番難しいところで、それこそ「これが正解だ」という方法などないのでしょうけれど、少なくとも私たちは、この世に生まれた誰でもが、神さまに愛された大切な神さまの作品なんだということをいつも心に留めてみたいと思います。
 まさに、私たちの教会のスローガン、「愛される喜びを伝えたい」ということに尽きるのですが、「あなたは神に愛された大切な存在なんだよ」と一心に宣言し続けることが大切だと思うんです。
 どんな人でも、神に与えられた霊を呼吸している同じ人間なんだという感覚が大切なんだと思います。
 部落解放、あるいは人間解放と言いますが、これは差別によって抑圧されている人たちの解放という意味だけではありません。
 差別する側の人間も、差別することによってでなければ自分が保てないと言う不自由な状態に束縛されています。そして、そのような自尊心は本物の自尊心、自己肯定感ではありませんから、ほんのいっとき自分を慰めることができても、長く続かず、また人を傷つけずにはおれないという、虚しい負のスパイラルに陥っています。そこから差別者自身も解放されなければなりません。
 そこから解放されるためには、「自分は愛されている」「自分も大切な人間なんだ」と感じることが必要ではないでしょうか。
 そのために、私たちは、「私は神さまに愛されている。あなたも神さまに愛されているんよ」と、力強く宣言し続けなければいけないのではないでしょうか。

プライド・パレード

 さて、根強い差別に対して、自ら「私たちは神さまに愛されている!」、「私たちはこのままでOKなんだ!」と宣言し、多くの人が持っている差別意識を吹き飛ばそうとし始めている運動のひとつをご紹介しましょう。
 それは部落差別とは違うんですが、LGBTIQのプライドパレードというものですね。
 LGBTIQと早口で言うと口を噛みそうですが、ひとつひとつのアルファベットに意味があって、Lはレズビアン、Gはゲイです。レズビアンとゲイというのは同性愛者のことですね。女性が女性を愛するのがレズビアン、男性が男性を愛するのがゲイと一般呼ばれています。
 それからBはバイ・セクシュアルで両性愛者ですね。女性でも男性でも愛せる人です。Tはトランスセクシュアル、つまり、自分の肉体的性別に違和感を感じるので、違う性の格好をしたり、その違和感が深い場合は性転換手術まで行って、性と性の間を移動する、それがトランスです。
 それからIはインターセックスといいまして、男性でも女性でもあるという中間的な性、すなわち少数者ではありますが女性と男性の両方の特徴を併せ持っている人。
 そしてQはクイア、「不思議な」とか「風変わりな」、「奇妙な」という意味の言葉で、今まで紹介したような分類には収まらないような、いろいろな性のあり方をひっくるめてクイアと呼んだりします。
 また、LGBTIQというのが覚えにくい人は、セクシュアル・マイノリティ、日本語で言うと「性的少数者」という言葉を使う場合もあります。
 この少数派の人たちと、その支援者が集まって、多数派の性的指向の人と同じ法的な権利(結婚や遺産の相続など)を社会に要求する運動の場として、プライド・パレードが世界中のあちこちの都市で広がりつつあるんですね。日本でも東京・大阪・札幌・福岡・愛知・沖縄などで、次第に盛り上がりを見せるようになってきています。
 
レインボー・フラッグ

 このプライド・パレードで広く用いられているのが、このレインボー・フラッグです。今日は実物を持ってきました。
 人間社会というのは、一つの色に染めることができない。皆、それぞれの自分の色を持ち寄って生きるのが本来のあり方じゃないのか。みんなが自分の本来の色のままでいられるような、そんな多様性が認められる社会、それを象徴しているのが、このレインボー・フラッグです。
 アメリカでは、アメリカ合同教会(UCC)が、このプライド・パレードを強力に支持しています。そして、教会のメンバーが様々な大きさのレインボー・フラッグを持ったり、掲げたりしてパレードに参加していますし、教会の門口にこの虹色の旗を掲揚していたりもします。こういう旗があると、LGBTIQの人は、「ああ、ここはこのような少数者の権利のことについても、ちゃんと関心を持って開かれた考え方をしているな」と、前を通るだけで安心できるんですね。
 このレインボー・フラッグが示していることは、聖書に書かれている事とも全く一致しています。
 今日お読みしたパウロによるコリントの信徒への手紙(一)の12章にありますが、体は多くの部分から成っていて、多くの部分があって一つの体なのだと言っています。目が手に向かって「おまえは要らない」とか、頭が足に向かって「おまえたちは要らない」とか言えないのだと書いてあります。
 同じように、私たち人間一人一人も、赤/オレンジ/黄色/緑/青/紫……いろいろあるけれども、誰一人いなくてもいい人なんていない、みんな異なっているままで大切な一人なんだというわけです。

誇る者は主を誇れ

 さらに加えて、私たちが強調したいのは、「私たちのこの尊厳、一人一人が大切であるということの根拠は神にある」ということです。
 本日の聖書の箇所の中で、パウロは
「あなたたちが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(1コリント1.26)と呼びかけています。この「あなたがた」というのは、コリントの教会の人たちのことで、「召される」というのは「呼ばれる」、言い換えればキリスト者として教会に呼び集められた、伝道者としてのわざを託されているとも言えるかもしれない。そんな自分のことをふりかえってごらん? とパウロは呼びかけています。
 あなたがたは、「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1.26-29)
 あなたがたは能力があるからこの教会に呼ばれたのではありませんよ。また地位があるからでも、魅力があるからでもありませんよ。そうではなく、神は無学な人、無力な人、見栄えのしない人、人から白い目で見られるような人をあえて呼び集められるのですよ。
 それは、人が「自分に何か魅力があるから、自分は大事な人間なんだ」とか、「自分はここまで努力してきたからこそ、今があるんだ」とか、そういったことに誇りの根拠があるのではなくて、ただ、神さまが私を愛してくださっている故に、私は大事な存在なんだな……と感じることができればいいんだよ、ということなんですね。
 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」(1.30)。
 神によって、わたしたちは救い主であるイエスに結ばれました。このキリストが、わたしたちの知恵となり、正当性の根拠となり、私たちの命がみな聖なるものであることの根拠となり、私たちの罪の赦しを与えてくれている、ということですね。そして……
 「誇る者は主を誇れ」(1.31)と。
 人間は自分が自分であることにプライドを持っていい。しかし、それは自分が素晴らしい人間であるかどうかとは関係ない。ただ、神が私をこのように創り、御自身の作品として愛してくださっているから、嬉しいなあ! ということなんです。
 ですから、私たちは「愛されているから嬉しい!」、「あなたも愛されているんよ!」、「あなたも、あの人も、神に愛された、大切な神の子なんよ。だから自信をもって、自由に生きましょうや!」と宣言すること。この宣言をいつも胸に抱いて、生きてまいりたいものです。
 




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