姿、働きは異なれど、われらは一つの体

2014年7月27日(日) 

 日本キリスト教団香里ケ丘教会主日礼拝説教

39分間
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コリントの信徒への手紙(1)12章12−26節 (新共同訳)
 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。





ライブ録画:聖書と説教(39分間)

 
二足の草鞋
 おはようございます。富田正樹と申します。
 渡辺牧師から、「あまりにも久しぶりなので、自己紹介から入ってください」と言われました。確かに、新しい方もいらっしゃいますので、私が実は香里ヶ丘教会の会員であることをご存知ない方も増えてこられたと思うんですね。
 あるいは、前から知っておられるはずの方も、「え? まだうちの教会員だったの?」なんておっしゃる方もおられるかもしれませんけどね。まあ、忘れていただいても私の方は別に差し支えはございません。
 ただ、日曜日の礼拝をサボっているのかというと、そういうわけではなくて、ほぼ毎週どこかの教会に出てはいるんです。
 先週は奈良の西大和教会。その前は、四国の徳島北教会。そのまた前の週も二週連続で徳島北教会でした。その前は、ご近所の枚方くずは教会……といった具合です。
 どうも性格的なものかもしれませんが、一つの場所に落ち着くということができないんですね。あちこち常に出歩いて、動いていないと気が済まないんです。
 ただ、今年から徳島北教会の牧師の代務者に就任しましたので、基本的に月に二回は徳島の教会でご奉仕させていただいています。
 それ以外の日曜日はだいたい、本務の同志社香里中学校・高等学校の教員としてオープンキャンパスとか学校説明会などで出勤していますね。この夏休みは、合宿やキャンプや会議などの出張で八月の半分は家に帰りません。年末の仕事納めまで、今のところ休めそうなのは通算三日くらいでしょうか……いや、11月に東京の教会に呼ばれていますので、二日に減りました。

札付きの牧師

 そういうことで私は、学校の聖書科の教員と、教会の牧師の二足の草鞋を履いているわけですけれども、日本キリスト教団の中では、私はある意味知られているといいますか、いわば札付きの牧師です。
 発端は七年ほど前のことになりますが、私は日本基督教団出版局から『信じる気持ち はじめてのキリスト教』という本を出させていただきました。その本が当時の(前の)教団議長の逆鱗に触れまして、教団執行部から教団出版局に、「この本を回収し、廃刊にし、絶版にせよ」という勧告文書が出され、出版・言論の制限という教団始まって以来の出来事が起こってしまったんですね。
 何が逆鱗に触れたのかと言いますと、格調が低すぎるとか、有り難みが少ないというような文句が十何箇所ほどつけられたのですが、どうも一番彼らを怒らせたのは、聖餐式に関する記述であると思われました。
 その本の中で私は、「聖餐は洗礼を受けた人しか受けられない教会と、誰でも受けることができる教会があります。しかし、知的障がいを抱えた人などのことを考慮すると、これについても様々なケースを考える可能性があります」ということを書いたんですね。これが彼らを怒らせた。
 彼らは聖餐式は「洗礼を受けた人しか受けられない、それ以外の人を交えての聖餐は『乱れた聖餐』だ」と言って絶対に許さず、それを推進している牧師の一人を免職にするということまでやっているのですね。これについては裁判が起こされましたが。
 実は、誰でもが聖餐に与れるほうがいいという牧師は、もちろん多数決では負けていますけれども、それでも結構な人数がいるのですね。結構な数がいるので、一網打尽に全部を免職にすることができないわけです。そこで、年老いた牧師からピンポイントでクビにしてゆき、見せしめにするということを教団執行部はやり始めているわけです。年寄りから順次狙われていっています。年金の支払いをカットしたいからという隠れた意図もあるかもしれません。

いろいろあっていい

 私は聖餐式を信徒のみに限るという考えを否定してはいません。神学というのは色々な考え方があっていいと思うんですね。しかし、私がそういう、「どちらもありですよ」という事を本で書いたために、私も目をつけられてしまいました。
 それで、先程の教団議長の文書に続いて、私の本の不買運動や廃刊を求める署名運動を起こす牧師たちも現れました。
 さらには、その年の大阪教区の教区総会の開会礼拝の説教者として私が決まっていたのに、総会の直前になって反対運動が起こり、私は説教者の立場から引きずり下ろされました。これも大阪教区始まって以来のことです。もっとも、今年の5月には、この大阪教区総会の開会礼拝には返り咲きましたけどね。
 そして現在、徳島北教会の牧師をしておりますが、この徳島北教会も、私が行く前から、先程からお話していますような、誰にも開かれたオープンな聖餐式をやることで一致している教会ですので、私もそのようなオープンな聖餐式を執行しています。
 すると、徳島分区には、強硬にクローズな聖餐を守ろうとする牧師がいまして、事あるごとに私を排除しようとするんですね。
 たとえば、分区で学習会や合同礼拝などやろうという機会があると、その打ち合わせの場では信徒の委員さんの間で、「今度北教会に来られた新しい牧師さんに説教をしていただきましょう」という話にまとまりかけていても、その場に出席もしていないある牧師からそこに電話がかかってきて、電話越しに「絶対にあいつに説教をさせてはならない。あいつは我々と信仰が違うから、一緒には礼拝できない」と強硬に主張して、自分がその場にいない打ち合わせでの審議に介入してまで、私が分区での合同礼拝に登場するのを阻止するわけです。まだ、就任して1年も経っていませんが、既に2回そういうことが起こっています。
 そういうことが起こるたびに、北教会の信徒の皆さんは、深い悲しみに突き落とされます。自分たちの信仰が踏みにじられ、教会の存在自体が分区や教区から排除された思いで、涙をこぼしておられる方もいらっしゃいます。
 そういうわけで、私は、ある一方の立場の牧師さんたちからは、要注意人物のレッテルを貼られておりますので、皆さんはお気をつけください。教団執行部にしっぽを振っていたい方は、私とは仲良くならないほうがいいです。

食べる者・食べない者

 さて、本日お読みしましたパウロによるコリントの信徒への手紙(一)12章12−26節の部分。よく知られております。私たちは皆一つの体ですよ、という喩えで、私たちの教会のあり方を説いています。
 「体は一つでも、多くの種類の部分によって成り立っているだろう? 同じように、キリストの体である教会も同じなんだよ」とパウロは一生懸命言葉を尽くして説明しています。
 「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷階級であろうと自由人階級であろうと、みんな洗礼を受け、一つの霊を飲ませてもらっただろう?」と。
 さらっと読むとどうということのない言葉に思えますが、ここで言う「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」というのは、大変大胆不敵な言葉なのですね。
 というのは、パウロが生きていた当時、キリスト教会は深刻な対立に陥っていたからです。
 それはユダヤ人が古来から大切に守って来た「律法」という掟についての扱いでした。特に、日常生活の中でも最も日常的な行為、「食べる」という行為において、ユダヤ人は「コーシャー」と言う基準を持っていて、食べてよい物と食べてはいけない物がはっきり区別されています。そして、いくら洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、彼らの感覚では、ユダヤ教徒として待ち望んでいたメシア:救い主がイエスだったということだけが新しいのであって、特段別の宗教に乗り換えたというつもりはないのですね。そうなると、自分たちの食物規定の律法は当然有効です。
 しかし、ギリシア人の信徒は、イエスを神と信じる宗教には入ったけれども、自分たちがユダヤ人になったという気はさらさらないわけです。そうなると、「なんでわしらが、あれを食べたらいかんとか言われんといかんの?」ということになるわけです。だいいち、イエスは律法から私たちを解放してくださったんでしょ? 私たちは自由な者なんでしょ? なんで今から律法を守らんといかんの? というわけです。
 しかし、ユダヤ人にとっては、イエスもユダヤ人だったし、イエスがユダヤ教とは違う新しい宗教を開いたわけではないので、イエスが旧約聖書以来の預言されたメシアだと信じる限り、自分たちと同じユダヤ人になってくれないと困るわけです(ユダヤ人というのは人種ではなく、律法を守ることによってユダヤ人に「なる」ことができるので)。そうやってユダヤ的な生き方に従ってもらわないと、まるで別の宗教じゃないか?! ということになってしまう。

割礼を受ける者・受けない者

 問題は食物規定だけではありません。
 ユダヤ人の信徒たちは、新しいギリシア人の信徒たちに、「自分たちと同じユダヤ的人間になるために、あなたがたは割礼を受けなければならない」と要求したのです。
 先ほども申し上げたように、ユダヤ人信徒にとっては、キリスト者になるということはイコール、ユダヤ教徒すなわちユダヤ人になることです。キリスト者というのは、彼らにとっては、いわばユダヤ教キリスト派みたいなものですから。ですから、キリスト者の群れに入るためには、ユダヤ教徒になってもらわないといけない、だから割礼を受けなくてはいけませんと主張するわけです。そうでないと、本当にクリスチャンとは言えませんよ、と。
 割礼というのは何か皆さんご存知でしょうか。ユダヤ人は、生後8日目の赤ちゃんのおちんちんの先の皮の一部を切り取るという風習を守り続けています。これがユダヤ人の男性のアイデンティティなわけです。
 そして、ユダヤ人になる男性は、大人であってもこの割礼を受けなくてはいけません。たとえば、ユダヤ人の女性はユダヤ人男性としか結婚してはいけないので、国際結婚などの場合、たとえば男性が日本人だとしたら、その日本人男性は割礼手術を受けなくてはいけません。日本には(多分)ないでしょうが、海外のユダヤ系の病院なら喜んでやってくれます。ちゃんと麻酔もかけて。
 これをユダヤ人のクリスチャンたちは、ギリシア人のクリスチャンたちに求めたわけです。この割礼を受けないと、あなたがたはクリスチャンとは言えない。もし割礼を受けないのだったら、あなたがたは教会のメンバーではない、と。
 ギリシア人信徒たちは、とんでもないと思ったでしょうね。これも先ほど申し上げたように、クリスチャンというのはユダヤの律法から自由になった者だと思っていますから、何で今更そんなユダヤの風習に従わないといけないの? という疑問が一つ。あと、ギリシアでは男性の性器は皮をかぶっている方が美しいという美意識もあったらしいですね。古代ギリシアの神々の像など観察するとだいたい包茎じゃないですか? だから、生理的に受け付けないという面もあったでしょう。
 まあそういうわけで、生活習慣や美意識の違いによる生理的な嫌悪感と、宗教的戒律の理解の違いもあって、パウロの時代のキリスト教会は(といってもイエスが亡くなってからたった20〜30年後のことですが)深刻な対立に陥っていた。しかも、お互いに「おまえたちはクリスチャンじゃない。教会から出て行け!」と批判し合うような関係になってしまっていたわけです。
 まあ、いわば、これを現代の私たちに置き換えてわかりやすく言えば、一方の信徒が「洗礼を受けないとクリスチャンじゃない」と主張しているのに対して、もう一方が「クリスチャンになるのに洗礼などうけなくてもいい」と主張しているような、それくらい相互理解が難しい根本的な対立であったとも言えるでしょう。

異なる部分、一つの体

 そういう状況を踏まえて、パウロの言葉を読みなおしてみると、本当にパウロが涙を流さんばかりの思いを込めてお互いをなだめている様子が目に浮かぶのではないでしょうか。
 もう一度、14節以降を読んでみましょう。
 
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません」(1コリント12.14-21)

 ここで一旦切りましょう。
 いかがでしょうか。今お読みした箇所に、キリスト教会のメンバーたちが、「わたしはお前たちとは違う。一緒にしないでくれ」とか、「お前たちは私たちと違う。出て行ってくれ」と言い合っている様子が目に浮かぶようにダブってきませんか。
 パウロはそれに対して、「そうじゃない。お互いに異なった部分が必要なんだ。まったくやっていることも感じていることも違う、しかし、それが一つの体ってものだろう! 私たちは全体でキリストの体なんだ。体というものは、耳ばかりでは体にならない。目ばかりでも体にならない。私たちはお互いに違うからこそ、一つの体になれるんだ。だから、互いの違いを認め合って、一緒に生きようじゃないか!」と必死に呼びかけているんです。

見劣りのする人が引き立てられる

 まだ続きがあります。22節以降を読みましょう。
 
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(1コリント12.22-26)

 私たちが自分の体を取り扱う時、見栄えのする部分はそのまま見せておいて、見栄えの悪い部分は隠したり、化粧をしたり、服の着方を工夫したりして見栄えをよくしようとするじゃないか、とパウロは言っていますね。確かに私たちは、「黒い服を来たほうが太ってることがわかりにくいかな?」とか、「俺の頭もだいぶヤバいし、もういっそのことバッサリ丸刈りにしようか」とか考えます。
 まして神さまは、体の中でも見劣りのする部分をいっそう引き立ててくださるんですよ、とパウロは言っています。
 ……見劣りのする部分とは、キリストの体の中でいうとどの部分のことをパウロは念頭に置いていたのでしょうか。
 先ほどパウロ自身が述べていた比較をもう一度参照すると、「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」、また「奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」という言葉が見つかります(12.13)。わかりやすい方から考えれば、見劣りのする部分というのは奴隷階級の信徒のことでしょう。
 事実、この二つ前のページから、主の晩餐にあずかる際の注意が書いてありますが、11章17節(私の聖書では314ページになりますが。314ページの上の段の終わりのあたりから)、
 
「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか? わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません」(1コリント11.17-22)
 つまり、貧しい奴隷階級の信徒が一日の労働を終えて、主の晩餐……とはつまり初代教会の頃は夜に行われていた聖餐式のことですが、その聖餐の食事に与ろうと思って教会に来てみると、時間のあり余っている自由人階級の信徒たちが先に来ていて、聖餐の食事を(というのも、当時の聖餐は最初と最後にパンとぶどう酒の儀礼があり、その間に普通の食事があったので)先に平らげてしまっている、そして時間どおりの礼拝に間に合わない信徒は空腹のまま帰らなくてはいけないという状況。
 教会に来れる時間のある人は恵まれているじゃないかと。むしろ労働や家庭や個人の事情があって教会になかなか来れない人のために、食べるものを用意しておくのが聖餐じゃないのか! ということです。
 そうでなかったら、教会の恥だと言うのです。
 弱い部分が引き立てられるというのは、教会の中でも起こってしまっている格差について、パウロは、「一見見劣りのする人々こそ、地味で、格好悪くて、目立たなくて、教会の中で大した働きのないような人こそ、神さまによって引き立てられる人なんですよ。だから教会の中では、そういう人こそ丁重に、手厚く扱いなさい。それがキリストの体ですよ」ということを教えようとしているのですね。

おわりに

 さて、お話が長くなってしまいました。まとめましょう。
 パウロの願いは、私たちの教会、すなわちキリストの体が、お互いに全く考えもやっていることも違うからといって分裂しないでほしいということです。お互いが全く違う機能を果たしているから体として成立するのであるから、互いに違うままで配慮し合いなさい。決して、「あなたは教会には必要ない」などと言ってはなりませんよ、ということ。
 また、互いに違う者どうしである中でも、神さまが引き立て、引き揚げられるのは、教会の中で大きな顔をしている者よりも、もっぱら見劣りのする人なんですよ、ということ。
 今日の聖書の箇所から読み取れることは、この二つです。
 祈りましょう。
 




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