せめて戦わないことを学ぼう

2014年8月3日(日) 

 日本キリスト教団香里ケ丘教会平和聖日礼拝説教

30分間
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イザヤ書2章1−5節 (新共同訳)
 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 国々はこぞって大河のようにそこに向かい
 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。





ライブ録画:聖書と説き明かし(30分間)+分かち合い(38分間)=68分間

 
美しい言葉

 おはようございます。今日の礼拝を私たちは平和聖日礼拝として守っております。
 今日お読みしました聖書の箇所は、イエスが生まれる500年近く前、イスラエル民族の王国が南北に分裂して、その南側の王国ユダ、そしてその都エルサレムにおいて預言者イザヤによって歌われた歌です。
 
「主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」とありますが、これがエルサレムの町のことです。マタイによる福音書に「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れる事はできない」という言葉がありますが、これもエルサレムのことで、山の上にある、神殿を中心とした町だったからです。
 そして、イザヤはこう続けます。
 
「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と」。
 主の教えはシオンから、
(このシオンというのも、エルサレムの町の別名です。徳島が「阿波の国」というのと似ていますよね)
 
御言葉はエルサレムから出る。
 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」

 美しい言葉ですよね。様々な国の人々がやってきて、同じ主が示される道を歩む。剣を鋤に、槍を鎌に持ち替え、国々は互いに剣を上げず、戦うことを学ばない。共にこのような光の中を歩もう。
 もう何も説き明かす必要がないほど、素晴らしい言葉です。

残酷な現実

 しかし、現実には、現在のユダの民、すなわちユダヤ人、正確には世界のユダヤ人全体ではなく、イスラエル国という国ですが、このユダヤ人国家は、全くこの聖書の言葉には従っていません。むしろ、積極的にこの平和のメッセージを裏切り続けています。
 あるいは解釈の仕方によっては、逆にこの聖句に忠実だとも言えるかも知れません。なぜなら、この聖書の言葉はあくまで、「ヤコブの神の民」すなわちイスラエルの諸部族の争いをやめて、一致しましょうということであって、イスラエル民族以外の民については何も書いていないからです。
 主の神殿の山に登り、主の神殿に行こうと書いてありますが、それゆえに、「主の神殿の山は自分たちのものである」、「この土地は神が我々に与えたものである」、したがって、他の民族、他の宗教の人々が入ってはならないということを主張する根拠にもなるわけです。
 現在、イスラエル国がパレスティナ人の自治区のガザという地域に激しい攻撃を行なっており、世界的にイスラエルに対する非難が高まっていることを、皆さんもニュースなどでご存じかもしれません。
 ガザ地区というのは、本当に小さな小さな地区で、淡路島よりひとまわり狭いくらいの所です。しかし、そこはインドの都市部と並ぶほどの世界でも有数の人口密集地帯です。
 その狭い狭い人口密集地帯は、西側を海に、そして南のほんの一部分をエジプトに、あとの大部分をイスラエルによって封鎖されています。この封鎖によって、水も電気も上下水道も止められ、食料も入らず、ガザの住民は刻々と全滅に近づいています。
 その状態でイスラエル軍は、このガザ地区を空襲していますので、もう既に一般市民が1200人殺されていて、今後も更に増えるでしょう。

イスラエルを支持するか

 イスラエルという国はユダヤ人国家ですね。
 ユダヤ人は、紀元後70年ですからイエスが亡くなって約40年後、マルコによる福音書が書かれる直前の時代に、ローマによってエルサレムの都を滅亡させられ、領土を失った民族になりました。それからおよそ2000年近くの間、世界各地を放浪し、あちこちで差別され、虐待されてきました。
 ユダヤ人に加えられた暴力の中でも、最もひどかったのは、先の大戦で行なわれたナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅政策=ホロコーストであると言えるでしょう。このホロコーストへの戦後の反省があって、世界の多くの人の同情がユダヤ人に注がれたと思いますし、戦後、ユダヤ人の間に起こった「シオニズム」(神がユダヤ人に約束したシオンの地に戻って、再びイスラエルの国を作ろう)と手を組むような形で、アメリカとイギリスが、もうユダヤ人が去ってから2000年近くも経ってしまったパレスティナ地方に、強引に侵略してユダヤ人を入植させ、「イスラエル国」という国を作ったことについても、ユダヤ人はこれまで辛い思いをしてきたのだから、当然だと応援する声もありました。
 このイスラエル国という国に対しては、キリスト者の間でもかなり評価が分かれます。
 というのは、例えば、「聖書に書いてあることは一言一句誤り無き神の言葉だ、文字通り全てが正しいのだ」という原理主義的な考え方で聖書を読むと、「神がイスラエルにカナンの地(つまり今のパレスティナ地方)を与えられたのだから、そこはイスラエル(つまりその子孫のユダヤ人)のものだ」と言って、イスラエルや、そのバックアップをしているアメリカを支持し、イスラエル軍がいくらパレスティナ人を虐殺しても、絶対にイスラエルを指示するというクリスチャンです。
 逆に、確かにユダヤ人が長い間迫害を受けて来たことは認めるけれども、いくら聖書に神がイスラエルに与えたと書いてあると言っても、現実的に2000年近くも留守にしていた土地で、いろいろな民族が移り住んで入れ替わり、現在はパレスティナ人が住み着いている地域に、武力で侵略して、占領して、追い出して、新しい国を作るのが神の意志だというのは、いくらなんでもおかしいのではないか、という人もたくさんいます。

聖書が起こした戦争

 旧約聖書には、特にヨシュア記以降の作品がそうですが、イスラエルがカナンの地に入る際に、いかに現地の先住民と闘い、殺し尽くし、奪い尽くしたかを描いています。それらが、まるでヒーロー物語や神さまの力を表す物語にのように、子ども向けの絵本や紙芝居になっていたりもします。
 そして、そういう物の見方をしている限り、たとえば現在も、イスラエルが自分たちの領土と利益を確保するために、パレスティナ人自治区を弾圧し、虐殺を行なっていることについても、「それも神さまのご意志」ということで、全部認めてしまうことになるわけです。
 客観的に見れば、昔、エジプトから逃げて来たイスラエル人がカナンの地で現地の先住民をやっつけて自分たちの王国を作ったのも、今、ホロコーストを逃れて来たユダヤ人の国イスラエルが、パレスティナの地で現地の先住民をやっつけて自分たちの国を維持しようとしているのも、やっていることは同じです。
 彼らはかつてエジプトで奴隷だった。あるいは、彼らはかつてホロコーストの犠牲者だった。そのことについては私たちは反省しなくてはならないし、彼らは同情されて当然です。
 しかし、だからといって、「イスラエル王国を作るためにカナンの先住民が滅ぼされたのは神のご意志だった」などと言っていると、今、イスラエル国がパレスティナ人を、それこそ自分たちがされたことを復讐するかのようにパレスティナ人を大虐殺することを支持してしまうことになります。
 彼らには聖書があります。旧約聖書は、神がイスラエルにカナンの地を約束したと書いてあります。ですから、彼らが自分たちのやっていることが絶対に正しいと思っています。
 「神が私たちにこの土地を与えると言ったのだから。あの神殿の山は我々のものだ。この地も私たちのものだ。それは神の御心なのだ!」と彼らは言うでしょう。
 いわば、これは聖書が起こした戦争であると言っても過言ではありません。
 私たちも聖書を用いている人間ですが、いまイスラエルが起きていることを、どうとらえたらよいでしょうか?

戦争をしたがる政権

 さて、海の向こうの話だけではなく、私たちのこの日本についても目を向けてみましょう。
 日本では、去る7月1日でしたか、憲法の解釈を変えて、集団的自衛権を認めるという閣議決定がなされましたね。そして、その決定を受けてか、その日のうちに全国の18歳の男子のところに、自衛隊の募集課から自衛官募集のハガキが届きました。私が勤めている学校の高校3年生のところにも届きました。
 集団的自衛権を国会で通してしまえば、日本と関係の深い同盟国が戦争状態に入った時でも、「これは自衛のためである」と言って、共同作戦を取って戦争に参加することができるようになります。
 安倍政権が掲げている自衛権行使の三要件の第一には、こうあります。
 「我が国に限らず、密接な関係の他国が攻撃された場合でも、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合、自衛権を発動しても良いと。
 この文言は非常に危険ですね。
 「密接な関係の他国」が攻撃された場合「でも」と言ってます。まず「密接な関係の他国」というのが、どこの国か限定していません。密接な関係のない他国のほうが少ないでしょうね。大抵の国と少なくとも経済的には密接な関係があるのではないでしょうか。
 よく「アメリカの戦争に巻き込まれる」と反対派の人が言っていますけれども、確かにそういう可能性も高いでしょうが、別にアメリカとの共同作戦でなくても、たとえば今、尖閣諸島の領有権を巡って、日本と中国と台湾が対立していますが、もしいま中国が動き出したら、日本が直接攻撃されなくても、台湾が攻撃されていると判断して、日本も応戦することができるのだ、と安倍内閣は宣言したことになります。
 また、遠く離れた南シナ海での南沙諸島などの領有権でも、中国は台湾やフィリピンやベトナム、マレーシアなどと対立していますが、ここでも緊張が高まって、どこかが軍事的な圧力をかけ始めたら、日本は自国の利益に関係する他国が攻撃されたので出撃しますよ、と宣言したことになるわけですよね。
 つまり、自国の利害と関係があると政府が判断したら、いつでも出撃できる。戦争ができるわけです。
 これを安倍さんは「抑止力になる」と言っているのですが、これが本当に抑止力になるでしょうか……?
 いま一番アジアで軍事的存在感を強めているのは中国ですから、これは明らかに中国に対する挑発です。挑発されたら、それに対抗して本当に日本に軍事行動を起こしてもおかしくありません。また、北朝鮮に対しても同じことが言えます。はっきりと武力で反撃するぞと脅しをかけることで、北朝鮮を侮辱し、余計に北朝鮮の火に油を注ぐことになります。
 つまり、この挑発は逆に日本を攻撃する理由を相手に与えてしまうことになります。こんなのが抑止力と言えるでしょうか?
 わざわざ相手を挑発して、敵対心を煽り、攻撃されたら戦うぞと意志表示をする。こういう状況を積極的に作り出しているということは、明らかに安倍政権は、戦争を回避するのではなく、戦争をしたがっているように思われますが、いかがでしょうか。
 
すべては金のため

 ここで、日本とイスラエルの関わりについてお話しします。
 日本は、昨年の3月、アメリカの設計によるF-35戦闘機の共同開発に参加し、この戦闘機の40%の部品を収めることになりました。その時、「これは武器輸出三原則の例外である」と政府はコメントし、菅(すが)官房長官も、イスラエル軍がパレスティナ自治区の一般人を殺すための空爆に使われるこの戦闘機に、日本製の部品が使われることを容認しています。
 その今年の2月には、経団連から武器輸出三原則を見直して、武器輸出をさせてくれと政府に要望が出され、4月には、国会の審議もなく閣議決定だけで本当に武器輸出三原則を撤廃してしまいました。
 そして5月には、来日したイスラエルの首相ネタニヤフと安倍首相が会談し、イスラエルと日本の軍事協力、自衛隊幹部のイスラエルへの派遣などの関係強化を約束しました。
 要するに、日本は武器商人の道を歩き始めたということなんでしょうね。
 世界に戦争の火種を起こし、また既に起こっている戦争に協力して油を注ぎ、たくさん武器を売って産業を活性化し、国際競争で勝ち抜こうという、死の商人の道を既に日本は進んでいます。
 いま、ガザ地区で子どもらを含めた一般人を吹き飛ばし、引きちぎり、焼き殺しているイスラエルの暴虐に、既に日本も加担しているのですね。

共に光の中を歩もう

 インターネットを覗いてみると、ユダヤ人が「神よ、パレスティナ人が死んでいることを感謝します」と書き込み、パレスティナ人が「神よ、ユダヤ人を地球から消し去ってください」と書き込んでいます。
 そういう書き込みが延々と続いているのを読むと、この憎しみの連鎖に一体終わりはあるのかと、暗い気持ちになります。もうこの戦いをやめさせることはできないのだろうか、と絶望しそうになります。
 また、自分の国の政府と主要な産業が、そのような虐殺や戦争によって金儲けを企んでいることにも、情けない気持ちでいっぱいです。人の命など何とも思わない、むしろ人が死んでくれた方がお金が儲かることを期待しているような者たちを、私たちは自分たちの国の指導者に据えてしまっています。
 この現実の中で、私たちは聖書の言葉を受け止め、どう生きていったらよいのでしょうか。
 もう一度、今日の聖書の箇所の最後の5行の、美しい言葉を読み上げてみたいと思います。
「彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2.4-5)

 武器ではなく、農具を作ろう。つまり、人を殺す道具を打ち直して、人を食べさせる、命を作る道具に作り替えよう。
 戦いを学ぶことをやめよう。そして一緒に主の光の中を歩もう。それが人間にとっての本当の喜びの道です。
 人類がその道を本当に歩むことができるようになるまで、まだかなりの時間がかかりそうですが、せめて戦いを学ばず、戦いによって利益をあげることはしないような、そんな国にしてゆけたらと思います。
 そのために私たちは何ができるでしょうか。みなさんのお考えを是非聞いてみたいと思います。
 




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