レクリエーションしていただこう

2014年8月31日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし

18分間
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マタイによる福音書11章28−30節 (新共同訳)
 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。





ライブ録画:聖書と説き明かし(18分間)+分かち合い(24分間)=42分間

 
労苦する者

 本日お読みしました聖書には、
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11.28)と書かれています。
 この言葉を聞いた時、ほんとかな? 本当に休めるのかな? 楽になれるのかな? と私はいつも、少し半信半疑のような気持ちになります。あるいは、人にこの聖書の言葉を読んで聴いてもらうとき、「本当に聖書は、キリスト教は、教会は、私たちを『休ませて』くれているのだろうか?」と自問自答し、また相手の人に自信を持って、「休めますよ」と教会をお勧めできるのだろうかと、少し考えてしまうことがあります。
 教会というのは、休める所なのかな? 疲れを癒せる所なのかな?
 ここで記されている「疲れている者」というのは、「労苦している者」と訳すのが適切であると唱えている研究者がいます。新約聖書の中ではこの単語は「苦労して働く」という意味で使われる場合が多いからです。「苦労して働く者、重荷を負う者は、誰でも休ませてあげよう」ということですね。
 苦労して働く、というのは、もちろん外で働いてくる労働者もそうですが、それだけではありませんよね。給料に換算されない家事労働や育児労働も大変な苦労をして働く仕事です。特に子育てというのは、大変なんですね。赤ちゃんの頃は、夜中に何度も何度も夜泣きで起こされ、大きくなると怪我や事故の心配が増え、思春期になると反抗期になったり、自分のことがわからなくなったり、立ち止まらざるを得なくなったり……その反面、勉強は難しくなるし、これを支えるのは、ただ事ではありません。
 とは言いましても、私がその労苦をじゅうぶんに味わい尽くしたかというと、そういうわけではありません。私の子どもが小さかった時は、私は仕事オンリーの古いタイプの男でした。ですから、私に家事・育児を半分きっちり平等に担わせようとした元妻に、私は糾弾されっぱなしでした。
 外で働く人間に労苦があるのも当然ですが、中で働く人間にも当然労苦があります。しかし、一緒に住む者同士が互いに相手の労苦がまだ足りないと責め合うようでは、その家庭に帰ること自体もまた重荷になります。
 私の場合は離婚することによって互いに責め合うことから解放されましたが、色んな人の話を聞くなかで、世の中には、責め合ったり争ったり、駆け引きや取り引きをするような、油断のならない夫婦関係を、苦しみながら営んでいる方々もたくさんおられることがわかってきました。別れない限り、どちらかが死ぬまで、その闘いの労苦と重荷が続くのであり、こんな苦しい人生を送るために自分は生まれてきたのかと嘆き続けるか、あるいは全てをあきらめて、人生とはつまらないものだと悟ったつもりになって死ぬのを待ちながら無心に生きるか……そんな人が案外世の中にはたくさんいるようです。
 人生の労苦がどうすれば楽になるのか、どうすれば労苦が労苦でなくなるのか、そんなことについて、私は偉そうに人に言えるような人間ではありません。
 しかし、労苦する人は休まなくてはならない。労苦している人に必要なのは休息だということくらいはわかります。私だって休息は欲しいです。休みたい。正直言って休むのは大好きで、毎日休んで暮らしたい……! そういう気持ちは嫌という程わかります。
 そう考えると、ここでイエスがおっしゃっているのは、労苦と重荷を負っている人……といっても、人生というものは苦しいことやしんどいことだらけで、労苦や重荷の無い人なんてまずいないでしょうから、全ての人にまず必要なものを、イエスが与えてくださるという約束なわけです。
 イエスは、人間にとってまず必要なものを知ってくださっていたといいうわけです。
 いや、それだったら是非休ませていただきたい。イエス様、私を休ませてください。もしできましたら……。

安息の効用

 前回の聖書研究祈祷会の際に、私は創世記の第1章、聖書のいちばん初め、天地創造の場面を取り上げました。そこで、神さまがこの世を造る作業を6日間で済ませ、7日目は安息なさったという物語が、紀元前のユダヤ人国家が7日間を1週間と定め、国民に必ず1週間に一度休むようにと命ずるための根拠として作られたという話をしました。
 この7日間を暦の一区切りとして定め、その中に1日、完全に休むことを義務づけるというのは、人類の歴史上画期的な発明だったと思います。
 実際、人間は毎日ぶっつづけで働いてばかりいると、体を壊して働けなくなりますし、たとえ病気にはならなかったとしても、適度に休まないと確実に仕事の効率は落ちます。本当に仕事のできる人は、休む時間を大事にしますよね。
 江戸時代のまでの日本人は、盆と正月以外は、特に1週間に一度休日を設けるということは考えなかったようですね。明治維新のあと、静養の風習をまねてこの七曜制を取り入れましたが、現在はまた日曜日も休み無く働き続けるという生活に、大人も子どもも逆戻りしていっているのではないか、こんなことで日本人は大丈夫なのかと心配になります。
 もうひとつ、休みということに関して天地創造物語から読み取れることは何かというと、一日のリズムに関する考え方ですね。
 
「夕べがあり、朝があった」という言葉が天地創造の物語では繰り返されています。この言葉の故に、ユダヤの一日は日没から始まり、日没に終わります。夜の側が先にあり、昼の側が後半です。
 古代には電気もガスもありませんので、日が暮れてしまうと、松明でもたいて炎の明かりで照らすのではない限り、月と星しか夜を照らすものはありません。夜の暗さは現代人が考える夜よりも、はるかに暗く、分厚い闇に包まれた、謎の時間帯であったはずです。
 ですから、古代人の生活は、基本的には日没で終わり、日の出と共に一日の営みを始めるというリズムでした。
 夜が先で、昼が後、ということは、夜の休んでいる時間帯の方が先にあって、人間が活動する昼は後半だということ。つまり、休みが先だということです。
 休みの間に、疲れが癒され、傷ついたり病んだりしているところが回復に向かいます。また昼間の厳しく照りつける太陽によって渇いた土地は、朝露に濡れて蘇り、しおれていた植物は息を吹き返して再び花や葉を広げます。
 それは、神によって作られた世界が、傷つき、疲れて、すり減ってしまったとしても、再び神が願った完全な形へと回復されるということ。すなわち、もう一度作り上げる。「再創造」と呼ぶことができます。
 私たちが休んでいる夜中、神は御自身が創造したこの世界を修復している。再創造している。そのように古代人は考えたんですね。

レクリエーション

 さて、「再創造」という言葉を、そのまま英語に訳すと、
「recreation」となります。日本でもそのまま外来語として定着している「レクリエーション」ですよね。
 日本では「レクリエーション」というのは、娯楽とか気分転換というような意味でとらえられている場合が多いと思います。元来はキリスト教の天地創造に由来する言葉なんですね。
 「創造する」というのは、
「creation」(クリエイション)ですね。
 「創造者」(神さまのことですが)、
「creator」(クリエイター)と言います。
 では、「造られたもの」(「被造物」とも呼ばれますが)を
「creature」(クリーチャー)と言います。これ、実は生き物全般のことを言う言葉でもあるんですね。
 そして、
「recreation」(レクリエーション)が再創造:もう一度造りなおす。最初の創造の状態、すなわちあるべき状態に修復させるということです。
 天地創造のあと、アダムとエバが神さまとの約束を破って、神の前から追放されてしまう。罪というのは、そういう神との関係を無くしてしまっている人間の状態のことを言うんですが、それをもう一度、創造された時の人間の状態に戻そうよ、というのが本来の「レクリエーション」なんですね。
 創造された時の状態というのは、神さまとのつながりを保っている状態です。その状態に巻き戻して、整えていただく。それが安息日なんですね。
 ですから、安息日というのは、安息する:休んでゆったりする日であり、体の調子を修復する日であると同時に、神さまとの関係も修復し、あるべき状態に戻す日である。すなわち礼拝の日であり、聖なる日であり、聖なる日は
「Holy Day」と言うので、それがやがて「holiday」(ホリデー)という単語になってゆくわけです。
 安息日は体と心の疲れを癒すために、休む日です。しかし、同時に神さまとの関係も修復するために祈る日でもあります。神さまから離れて暮らしていた自分の霊の状態を整える日です。そして、体も心も霊も修復して、新たな1週間に向けて歩んでゆく準備をするときです。

安息日の過ごし方

 このように、安息日あるいは聖日(Holy Day)というのは、神さまとの関係を結びなおす日なので、クリスチャンは日曜日を安息日/聖日として共に礼拝をする日としているわけです。
 しかし、「日曜日には教会に行かなければならない」ということが、破ってはならない規則のようになっていて、教会に来なかったらダメだという事になると、それは目的と手段が入れ替わっています。本末転倒でそういうのを「律法主義」と呼ぶんですね。
 大切なのは、体と心と霊を修復することです。
 世の中の多くの人は、体と心の修復が「レクリエーション」だと思っています。私たちはこれに「霊の修復」つまり、神さまとのつながり、神さまの霊が私たちに入ってくださるように、再び自分を開け渡して整えるということを志しています。
 大切なのは、このように神さまからの霊が改めて自分を活かすということを感じることが大事で、教会に行かなくてはならないから行くとか、嫌なのに無理して行く必要はありません。
 また逆に、教会に来られなくても、神さまとつながりを取り戻し、自分の霊がもう一度元気を取り戻すようであれば、たとえば心身の不調などで教会に来られないとか、遠隔地にいて、あるいは避けられない仕事や用事で一緒に礼拝できないということであっても、霊が新しくされるということを共に感じることができているなら、共に神さまにリクリエイト(再創造)されているわけで、そこが大事なことだろうと思います。
 教会というのは、義務感で来る所ではなく、行きたいと思って来る所ですよね。また、神さまなしの義務感でしんどいことをする所ではなく、互いに無理のない奉仕をして互いにもてなし合いながら、一緒に神さまとの絆を確認し合う所です。
 願わくば、私たちの教会が、神さまによって再び創造される場、神さまとの結びつきを修復する場として、豊かなレクリエーションの場となり続けることを、神さまに願ってやみません。
 




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