平和のためにベストを尽くせ

2014年9月7日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし

29分間
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マタイによる福音書12章18−21節 (新共同訳)
 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。





ライブ録画:聖書と説き明かし(29分間)+分かち合い(34分間)=63分間

 
できれば……

 本日お読みした聖書の箇所、最初に「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(ローマ12.18)と書いてあります。
 ところが私は、ある日、インターネットでFacebookを観ていて、流れて来る情報の中から、こう書いてある画像を見つけました。
 
“Do your best to live at peace with everyone.”(Romans 12.18(CEV))
 日本語訳の新共同訳聖書では、「できれば、せめてあなたがたは……」と書いてありますが、これだとちょっと言葉が弱いというか、少し遠慮気味なニュアンスが感じられますね。
 ところが、英語訳で「Do your best」と言われると、「ベストを尽くしなさい」ですから、かなり前向きな印象に変わりますね。同じ聖書の箇所でも、翻訳によってずいぶん変わるもんです。
 そこで、私は色々な聖書を読み比べてみることにしました。
 まず、原典のギリシア語ですが、確かに直訳すると、「もし可能なら、あなたがたは全ての人と平和/平安に暮らしなさい」と読めます。
 そして、これを訳している英語の聖書、大昔の訳から比較的歴史の新しいものまで観てみたんですが、ほとんどの英語の聖書は、“If possible,”とか、“If it is possible,”と訳しています。つまり、「もしできたら」というニュアンスですよね。
 ところが、先ほど紹介した英語訳は、CEV(セヴ)と呼ばれていまして、Contemporary English Versionというのですけれど「現代語訳」とでも言いましょうか、いちばん新しい最近の訳のひとつなんですね。そして、この訳の特徴は、アメリカというのは移民が多くて英語の苦手な人もたくさんいますから、英語の苦手な人でもなるべくよくわかるような英語で書いてあるわけです。そこでは“Do your best”なんですね。私たち日本人でもわかりやすいです。

Do your best.

 ちなみに、このCEVの前に、同じような目的で書かれたTEV(テヴ):Today’s English Versionというのがしばらく前にありましたが、このヴァージョンでは、
“Do everything possible”となっています。「できることは何でもしなさい」となっています。もし可能なら、という弱い表現よりも少しさっきのCEVのニュアンスに近づいてきていますよね。こんな風にアメリカでは、少しずつ“Do your best”に翻訳が近づいてゆくように変化していることがわかります。
 つまり、できるだけ英語のできない人向けにわかりやすく説明しようとすると、「全ての人と平和に暮らすために、できることは何でもしなさい」とか、「誰とでも平和に暮らすためにベストを尽くしなさい」という言い方になっていくということですね、アメリカ人の聖書翻訳者の考えで言えば。
 これは、アメリカが実際に多民族社会であることと無関係ではないと思います。黒人でもアフリカ系と中南米系とかインド系とか、白人でも英国系、北欧系、ドイツ系、フランス系、イタリア系、ロシア系などそれぞれ強烈な個性を持っていますし、他にもユダヤ系、中国系、韓国系、そして日系と、それぞれにアイデンティティを持ってて、強い民族意識があって、何か揉め事が起こると一気に団結して、他の民族に対する敵意を露わにします。
 ですから、たとえ国内であってもみんなが平和に過ごそうと思ったら、それぞれの民族、そして個々人が平和に暮らすためにベストを尽くさないと無理だ、というメッセージが、この翻訳の仕方に表れていると思います。

相和らげ

 日本語の翻訳も比較してみました。
 まず、文語訳では、
「汝らの為し得るかぎり力めて凡ての人と相和げ」と書いてあります。これ、“Do your best”に近いですよね。
 次に口語訳では、
「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」となっています。
 そして現在の新共同訳では、
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」となっているわけです。
 日本語では、最初は「為し得るかぎり力めて」が、「できる限り」となり、そして「できれば」と言葉が変化して来ている。アメリカとは逆に、だんだんとニュアンスが遠慮がちになってきているという違いがありますね。
 ちなみに福音派でよく読まれている新改訳の最新版では、
「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」とあります。これも消極的ですね。しかも「できれば」あるいは「力めて」という文言が消えてしまっていて、これは正確な訳とは言えないと思います。
 カトリックでかつて使われていたフランシスコ会の訳では、
「できることなら、あなたがたの力の及ぶ限り」とあります。これは、「できれば」という訳しかたと、「力の限り」という訳し方ができるのを、両方とも入れちゃったという感じですね。さすが、バランス感覚に優れたといいますか、何でも包括的に包み込んでしまうカトリックらしいと言えるのかも知れません。
 というわけで、同じ文章でも、「できれば、平和に暮らしなさい」という日本語に解釈することもできるし、「平和に暮らすためにベストを尽くせ」という日本語に解釈することもできるのですが、皆さんは、どの翻訳が心にピッタリと来るでしょうか?

平和を保つ努力

 パウロがこの手紙を書き送ったのは、ローマの教会の人々に対してでした。ローマといえばローマ帝国の首都ですが、当然、皇帝を神の子として崇めたり、それぞれの地方の神々を崇める神殿があったりという多神教の本拠地だったわけです。
 そこで、キリスト教徒として生きるのは、大変なことです。同じ一神教でも、ユダヤ教というのは民族宗教ですから、「ユダヤ人というのは全く変わった奴らだ」ということで、ある程度ローマ帝国の中でも存在を黙認されていました。ところが、キリスト教というのは、ユダヤ人であるなしに関わらず、一神教を広めようとするので、非常に警戒されたんですね。隣近所にクリスチャンが住んでいるというだけで、住民は面白い顔をしなかったし、変な奴らだと気持ち悪がられたりすることも度々で、日常の生活も楽ではなかったでしょう。「ユダヤ人でもないのに、ローマ人なのに、なんでそんな変わった宗教を信じているんだ」と訝る人もいたでしょう。しかし、そうはいっても、普段の近所付き合いや商売において、一般人とおつきあいしないわけにはいきません。
 ですから、ローマの教会の人々にとっては、普段の様々な人とのふれあいの中で、共に平和に暮らすためには、一般人以上に努力が必要だったということが想像できます。「平和に共存するためにベストを尽くさなくてはならない」。それはローマの信徒たちの置かれた状況ではなかったでしょうか。

私生活の投影

 さて、私たちが安らかな平和のうちに暮らすのか、それとも基本的に力によるせめぎ合いを選ぶのか。
 その姿勢は、個々人が自分の私生活をいかに送っているかということを、民族同士、国同士の関係に投影しがちです。
 ほとんどの人は実際に世界の様々な国に友達がいるわけでなく、各国の政治権力者と知り合いなわけでもなく、自分で外交政策を左右する力を持っているわけでもありません。
 ですから、他の民族や国民に対しても、個人の人間関係の持ち方や、知らない人・初対面の人に対する態度を、他の民族や国に対する態度に簡単に投影しがちなんですね。
 ということは、普段の生活で見知らぬ初対面の人も含めて全ての人と平和にやっていける人は、他の民族や他の国の人とも平和にやっていけるということですが、自分の周りの見知らぬ人と仲良くできない人が、世界の平和を実現することができるわけがない、ということが言えるわけです。世界の平和を実現したいと思うなら、まずは普段の自分の身の回りの生活を平和なものにしておくことだということですね。
 普段から、力のバランスによる平和とか、抑止力による平和などと真剣な顔で言っている人は、普段の身の回りの人間関係も、お互いに利用したりされたり、力で支配したりされたり、相手に付け入られる隙を見せないように常に警戒して弱みを見せないようにしたり、といったしんどい、悲しい寂しい人生を過ごしているのではないでしょうか。
 こういう人が、国と国との関係は常に戦争状態である、と言ったりするんでしょう。その人にとっては、人も人の関係も常に普段から戦争状態ですから。

シャローム

 「平和」というのは、新約聖書のギリシア語では、「エイレーネー」と言います。これは元々はそんなに強く戦いの無い状態のことを指す言葉ではなく、せいぜい戦いの間の休息のような意味だったんですけれど、本国から遠く離れて各地で暮らすユダヤ人のために、旧約聖書がギリシア語に訳されて広まったときに、その旧約聖書の「シャローム」という言葉に当たる単語として使われたことをきっかけに、この「シャローム」の意味を帯びるようになり、その結果、さらに後に新約聖書が書かれる頃には、新約聖書のギリシア語でも、「シャローム」と同じ意味で使われるようになりました。
 つまり、聖書の世界では、「平和」といえば、ヘブライ語の「シャローム」の意味で通すというわけです。イエスもヘブライ語の中の方言をしゃべってましたから、「シャローム」という言葉を使っていたはずです。
 「シャローム」というのは、ユダヤ人の普通の挨拶に使われている言葉です。「おはよう」も「シャローム」、「こんばんわ」も「シャローム」です。
 復活したイエスが、弟子たちの所に現れて、「あなたがたに平和があるように」と言った、と日本語の聖書では訳されていますけれども、あれはギリシア語で「エイレーネーあれ」と書いてあるからそう日本語にしたのであって、たぶんもともとイエスがしゃべったのは「シャローム」だったはずで、要するにただの「こんばんは」だったんですね。まあ、そういうわけでユダヤ人は、普段の挨拶で「平和あれ」「平和あれ」と挨拶しているわけです。
 キリスト教でも、時々礼拝の終わりに、信徒同士で「主の平和」「主の平和」と挨拶しあったりする場合がありますけれども、あれもこの「シャローム」という挨拶の名残なんですね。
 あと、「エルサレム」という聖地がありますが、あれも元来のヘブライ語では「イェルシャライム」という言葉で、「平和の基」「平和の礎」という意味です。
 「平和の礎」と言いますと、沖縄にある「平和の礎(いしじ)」を思い出します。沖縄の全戦没者の名が刻んである石碑ですけれども、これを「平和の礎」と書いて、「へいわのいしじ」を読みますね。「平和の礎」は、「エルサレム」と意味は一緒なわけです。まあ、実際にはエルサレムというのは、まるで戦争の大きな原因のひとつになってしまっているわけで残念なんですが、それでも本来の町の名前の意味は「平和の礎」なんだということは憶えておいてもよいのではないかと思います。

異なる者と触れ合う時にこそ

 この「シャローム」という言葉は、戦いや争いの無い平和という意味と同時に、心の安らぎ、和らぎという意味もあります。先ほどご紹介した文語訳の聖書では、「相和げ(あいやわらげ)」と記されていましたが、やはり「和らげ」なんですね。今風に言うと「平安」という言葉が当てはまると思います。
 たとえ、争いや戦いが物理的に無かったとしても、心が安心して、和らいだ状態になっていなければ、それは「シャローム」な状態ではありません。ほっとできる気持ち、安心した落ち着いた気持ちでおれたら、それはシャロームな状態です。緊張関係の結果、とりあえず戦闘状態にはなっていないという状態はシャロームではないのですね。
 それから、シャロームというのは、「完全」という意味もあります。あるいは「全体」、「全部」という意味もあります。「全体が含まれている状態が平和で、それが完全です」ということなんですね。誰か異なる人たちを排除して、残った人たちで内向きに似た者どうしの仲良しを保っていても、それはシャロームではないということです。
 神の創造というのは、ごった煮になった状態から、少しずつ一つ一つの要素を分離させて、この世のあらゆる存在を作っていったわけで、全てが神の作品なんですね。ですから、これは良し、あれはダメ、ではなくて、これも良し、あれも良し。全く異なる者であったとしても、それぞれに否定し合わず、かと言っても神が分けられたのだから、お互いに完全に一致することなどできるはずもないので、それぞれに存在は認め合って、共存するためにベストを尽くすということが勧められているのでしょうね。
 ですから、異なる者どうしが隣り合って生きなくてはならない時ほど、このシャロームの精神を忘れなさんなや、というのが聖書のメッセージなわけですから、私たちは、異なる者どうしが寄り合って存在していて、緊張状態に陥りそうな状況においてこそ、「平和と平安のためにベストを尽くす」心構えが必要なのではないかと思います。
 日本のような「みんなで一緒で当たり前」という社会では、「できれば誰とでも平和に暮らしなさい」という弱い表現で十分なのですが、ローマやアメリカのような多民族社会では、「平和のためにベストを尽くしなさい」という表現が取られました。
 キリストの道を歩む者は、ともすればこの世で、「ちょっと変わった人」扱いをされることもあり、心を離されたり、警戒されることもあります。そういう状況に生きる者こそ、「平和のためにベストを尽くそうよ」とパウロは励ましてくれているのであります。

アロハ

 さて、最後に閑話休題ですが、ここにハワイアン・ピジョン・バイブルという聖書を持って来ました。ピジョン・バイブル。「ピジョン」というのは、ハワイ訛りのきつい英語のことですね。日本語では「ケセン語訳聖書」というのがありますが、それの英語版「ハワイ語聖書」と思えばいいです。タイトルに“Da Jesus Book”とありますが、この“Da”は“The”ですよね。“The Jesus Book”(イエスの本)です。
 ここで、今日の聖句、ローマの信徒への手紙12章18節を読んでみましょう。
 
“Make shua you do everything you can fo live good wit everybody wit aloha, an no go agains each odda.”
 「アロハ」という単語が入っていましたね。「アロハ」というのはハワイ語でもともと「愛」とか「尊敬」、「リスペクト」という意味です。それが「こんにちは」とか「さようなら」のように使われています。
 さっきのピジョンを日本語に直訳すると、こんな風になります。
 「忘れるでないぞ。全ての人と愛や尊敬を持って良い暮らしをするために、できることは何でもせよ。そして、互いに逆らい合ってはならん」。
 わかりやすいですね。今日の説き明かしは以上とさせていただきます。
 




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